奈落《アポルオン》
死闘の前奏曲
鼻の曲がりそうな匂いに辟易しながらも、歩を進めていく。恐らく、作戦会議の時に確認した地図からも、奴が居るのはこの先で間違い無い筈だ。
「やぁ? 思っていたよりは遅かったではないか、昨日はあの後すぐにでもここに来るかと思っていたんだがね?」
声が聞こえる。僕は歩みを止めた。
「色々と下準備があってね? 待っててくれるなんて殊勝じゃないか」
視線の先には巨大なポンプが鎮座している。処理した水か処理する水を貯める巨大なプールがあったが、本来であれば中にある筈の水は全て排水されていた。すさまじい悪臭を放つ血液と体液が、まだ乾ききらずにべっとり付着している。おそらくつい最近『使われた』のだろう。
そして、そのポンプの上にアイが腰掛けているのが見えた。
認めたくはないけど……声の主は間違いなくアイだ。
「お前っ……!」
予測はしてた。だけど実際に目の当たりにすると心の中に暗い焔が灯る。今度こそ人の表情を持って、目の前の悪魔が歪に笑う。
「何……余裕というやつだよ。既に余はこの街に世界最大規模の魔法陣を刻んだ。後は号令一つ、最終段階だ」
深呼吸。燃え上がりそうになる心を、前に飛び出そうとする体を無理やり押さえつけ、代わりに声を絞り出す。
「全く、やられたよ。ちまちまと小さな努力を今日この瞬間まで重ねてきた訳だ……。悪魔って意外に努力家なんだね?」
肩をすくめて面白くも無い冗談を言う僕に、べィが片眉を上げて困ったように笑う。悪魔に体を乗っ取られた後のほうが表情豊かなのは、何の皮肉だろう。
「で? ……お前、この不可能を可能にするために、何年かけて、何百人をお前にしたんだ?」
静かに殺意を込めて、人の殻を得た悪魔を睨む。
僕の言葉の意味を察した悪魔が、満足げな顔で応じた。
「フフ……年月は知らん。過去を変える手段がこの世のどこにもない以上、時の流れなど世にとって些末事だ。まぁ人数であれば……場所を変え、時を変え、手段を変え、此度の遊びの為に、一万人ほどに『余になって』貰った。……下準備は中々苦労したが、それに見合う見事な出来だ、不満は無い」
自慢気に悪魔が言う。一万もの人間の命が、この計画の為に死ぬよりも悍ましい責め苦を受けているという事実に、噛みしめた僕の奥歯がきしむ。
「それにしても……一つ疑問があるけど、良いかい?」
「許す、話してみろ」
横柄な態度でベィが答えた。
「何で昨日……いや、一昨日か、地下の死体を発見させた? これまで一万人を闇の中で取り込み、今回は地下の情報も完璧に遮断して見せたお前が、何で最後にこんなヘマを見せた?」
つまらなそう悪魔が答える。僕の問いは奴を少しだけ退屈させたらしい。いい気味だ。
「ああ、その事か……簡単だよ。
理由は二つ、一つ目計画が最終段階に入り陣も完成した今、以前ほど隠す意味合いが薄い。
そして余は実の所、今主の体と契約を必要とせぬ程度には力を取り戻している。
故に、余はたまたま見つけた玩具で少しばかり遊ぶことにした。その玩具の出来次第で、主を契約を破棄し主を手放す腹づもりでな。
全てが終わる前の最後の戯れ、それこそが二つ目の理由よ」
視線がこちらに向く。成程、つまり原因は……
「僕……か」
僕を焦らせて、アイの地雷を踏むのを見とどめたかった……と。びっくりするほど一貫した行動指針である。巻き込まれるこっちはたまったものじゃ無い。
「その通り、余の所業が知れれば猟犬どもがここに来るのも自明の理……主の為にも事件に固執するお前がどのように行動し、災禍の中心たる主に何を語るか見てみたかった物でな。
フフ、そしてお前は余の思った通り誰よりも先にここに来た、どうする? 人間らしく下らん戯曲の様に主に言葉を掛けて取り戻してみるか?」
アイの皮をかぶった悪魔の目が輝いている。
『さぁ、貴様の行動を余に見せてくれ』
と、その瞳が雄弁に語っている。恐ろしい事に、こいつは本心から僕の事を『面白い動きをする玩具』としか認識していない。
「ふん……それが原因で失敗するかもしれないっての言うのに、人間を舐めて無い? 魔法陣を発動させた所で、この町の魔道猟兵と帝国軍全て敵に回して勝てると思ってるのかい、君は。
ゲームでもしてるつもりなのかもしれないけど、人間をバカにするのも大概にして貰おうか」
安い挑発、悪魔が笑う。
「ふっはははははははははははははははははははははははははははははっ! お前……もしかして頭が弱いのか? コレは遊戯だと言っておろう! 我々にとってこの世界などそれ以外の価値など無い。
余は請われてここに来た。確かにこちらの世で我が軍勢を整え、死沼を広げるのも悪くは無い……が、それだけだ、解るか?
この世界において余は己の愉しみ以外の全てがどうでも良いのだ! 成功も、失敗もな!
失敗したら巣を変えてもう一度群れを成せばよい。この世で死しても所詮は余の一部、余が死に絶える訳ではない!
遊戯だよ遊戯……この世にて何が死のうと、どれほどの悲劇が起ころうと、今この世界に余が存在する事さえも全てが遊戯なのだ! なればより見応えのある迷いや狂気、足掻きを見る為なら余は喜んで手間と不利を蒙ろうではないか!」
にわかに熱を帯び、悪魔が狂喜する。
異なる世界に居を構え、こちらの世界に干渉する超存在にとって、僕達の生も死も世界そのものも、等しく面白おかしいゲームに過ぎない。
不利になるような行動も、やりがいを求めてゲームの難易度を多少いじっただけに過ぎず、結果として失敗し死んだ所で、それは残気が一つ減っただけ。
吐き気を催す様ほどふざけた存在が僕の目の前で僕らの生きる世界を哄笑する。
「さて、では始めさせて貰おうか? 幕開けだ! 門を開き幕を開け、狂い死ぬまで踊り明かそうではないか!」
アイの体で両手を掲げる。小さな体の周りに立体多重に魔方陣が大量展開。
魔術師でなければ思わず嘆息してしまうほど美しいけど、魔術を識る者にとっては背筋に嫌な汗を感じずにはいられない冒涜の星図を描くプラネタリウムが、白いヒトガタを中心に際限なく広がっていく。
その瞬間、背筋に悪寒が走った。具体的な術式も、その効果もここからでは観測できないが、それでも全てが始まった事を理解する。
「さぁ、余の軍勢が来るぞ? どうする人間? このまま放っておくのか? そんな訳はあるまい! さぁ! 何を見せてくれる? その様な手段で余の行く手を阻むかね?」
足元、床の中から僕の腕程の大きさの芋虫が顔を出した。それだけでは無い、子供の体程あるが蜚蠊が、三メートルはありそうな蜈蚣が、ワインボトル程もある蛭が、他にも名前も聞きたくない気色の悪い虫たちが……床と言う床から悪魔達が這い出してくる!
「言ったろう? 人を舐めるなってさ!」
啖呵を切り、背中の『粉砕する者』を引き抜く。ここならどこに撃ったって敵に命中する。柄を握りしめ、銃弾を大量にばら撒く。一キロ先のコンクリート壁をブチ抜く超大型銃弾が虫の群れに襲い掛かり、食いちぎる。
五、六匹の虫をまとめ粗挽き肉に変える鉄の暴力と、地面すら見えないほどの数の暴力が正面から激突。蟲どもの大海嘯が仲間……いや、自分自身の死体を踏み越えて僕に向けて襲い掛かる。
「おっ……あああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!」
津波に向け、刃を一閃!
剣風が巻き上がり、血風が飛び散る。
決して手を緩めず刃を振るう。今この瞬間に、荒れ狂うだけのただの力となる。
「ふふふ……やるなぁ、人間よ」
そんな僕の戦いを睥睨しながら、べィが嘲笑う。
「だが、どれほど貴様が強力でも、それは個として荒れ狂う力にすぎない。この世で一番恐ろしいのは自分一人では止まる事すらできない弱者の群れであると知れ」
「はっ、バーカ! ほざいてろ!」
体にまとわりつく虫を引きはがし、笑ってやる。腰ほどまで虫の群れに飲まれている、感触と粘液が気持ち悪いったらありゃしない。
「教えてやるよ! この世で最も恐ろしいのは意思のない群れかもしれないけど、この世で最も強いのは、いつだって意思を持って戦うやつだ!」
ピッタリ図ったかのように、同時に相棒が行動を開始。
僕の声とほぼ同時に、悪魔を押しとどめる様に、天上から光が差した。
光が回りを昼間の様に明るく照らす。光と共に、僕と悪魔の元に声が届く。
それは、歌。あらかじめイリスに頼んで準備してもらっていた反撃の合図だ。
歌が響く、地下に反響し響き渡る。不思議なことにどれほど反響しても、はっきりと聞き取ることができ、少しも不快に感じない。
響く歌声に、悪魔もまた、苦々しそうに唇をゆがめる。
「そうかそうか、居たなぁ……余の半身を消し飛ばした天使が」
歌声による変化はすぐに表れた。
光と歌声に捉えられた悪魔達が体を光にほどかれ、元這い出して地の底に消えていく。反響する歌声と、そのたびに強くなる光によって、あれほど増殖していた虫の群れが見る間に消滅し、血の跡一滴すら残っていないコンクリートの地面が覗く。
虫の襲撃も一段落ついたので『粉砕する者』を地面に刺した。ちょっとストレスに突き動かされて暴れすぎた。少し息を整えないと、本番前にへたってたら笑えない。
「そう? 馬鹿話に油断してて全く気が付かなかったって言うんなら、気を逸らす為にお話に付き合った甲斐もあったね。この施設を出てすぐそこの場所で彼女はずっと準備してたんだよ」
少しは悔しそうな顔をしてくれれば僕の溜飲も少しは下がったかもしれないけど、当然目の前の相手にそんな事は無かった。
そんな会話の中、歌は響き続ける。
透き通っている訳でも無く。神々しい訳でも無い、ただ声を上げ、楽しげに、だけど必死に歌う声が僕達の耳に響く。
見える訳じゃないけれど、相棒は全力で歌ってるんだろうなぁ……と想像させられる。そんな声だった。
やがて光の中に、エーテルで形成された暖かな羽毛が舞い踊る、地の底にそぐわない、儚く清らかな輝きの羽毛が僕の体をくすぐり、疲れを癒す。
明るい、そしてとても暖かい。まだ数えるほどしか見ていないが、見れば見る程不思議だなぁ、コレ。
何はともあれ、作戦の第一段階は成功だ。
「僕の相棒自慢の天術の一つ、『
イリスの使用したこの天術は、周囲一帯を結界で囲い、彼女にとって都合の良い世界に書き換える術式だ。
とはいえ、言葉ほど大それた術式と言う訳では無い。この結界の中に居る限り、彼女が行う魔法行使や天術の能力が上がり、敵対する敵の魔法行使や挙動に負荷がかかると言うそれだけの術式だ。
しかし、悪魔を相手とする今回はそれだけでは済まない。周囲に満ちた光は敵対する『悪』を許さず、眼前の悪魔が自らの魔法陣に向けて垂れ流す魔力を軒並み撃ち祓い、外に力が流出するのを防ぐ。
外周や魔法陣がどれだけ大きく完璧だろうが、中心であるここを押さえられたら作動しない。ここに結界がある限り、しばらくは時間を稼ぐことができる。
現に、周辺の魔法陣は鈍く光りこそしている物の、次が出てくる兆しは無い。
今僕の周囲に居るのは元凶のベィと、結界を力で押し破る事の出来た数体の巨大な虫だけだ。
「くっははははははは! 面白い! 面白いなぁ! お前、周りと出口を塞いだか? 成程、確か此処、陣の中心から流れる余の力と号令を聖域で遮断されれば、召喚陣も本来の十分の一も開かんな」
王者たるベィが回りの臣下を睥睨する。悪魔たちが答えるかのように蠢き、満足げにベィが微笑む。
「しかしそれだけでは足りん、この程度の聖域では残念ながら余を追い出せぬぞ? この程度の時間稼ぎで終わりか? ん?」
その期待を込めた笑みで悪魔が見つめてくる。
返答は、一筋の光。
悪魔への直撃コースを辿った光は、周りを囲む悪魔の一体を吹き飛ばし、ベィの眼前で奴の展開した防御術式に遮られた。
成程、聖域化して、力を幾分か制限されている筈なのにコレか、どうやら向こうもフードコートの時より力を取り戻しているらしい。
「ありゃりゃ、やっぱり同じ手段は二度通じないか」
残念そうな声を上げて、一仕事終えたイリスが施設に侵入。光を纏いながら僕の傍らに舞い降りた。
「お待た、始まっちゃてる?」
「いいや、これからさ」
軽く言ってくる相棒に、同じくらい軽く返す。視線を交わしてから、悪魔の方へ。
一方の手元でも戦いの準備、僕は懐を漁り、一本のアンプルを取りだした。
「さて、じゃあ後は簡単だ。この町の為、世界の為にも、実力で君を排除する」
思った以上につまらない言葉だったからだろう、目の前の悪魔の表情が冷却され、少しつまらなげな物になる。
「ふん、そうなった、か。もう少し面白い物を期待したが、まぁ及第点の答えだろうよ。
他の猟犬を頼らず、己の手で、と言う分まだ興は乗る。
良かったなぁ……今度は誰も、お前のことを責めないだろうよ。まして余ごと主を切り殺した所で、負い目に感じる事もあるまいな」
さぁ、下らない余興に時間を掛け過ぎた、もう、言葉は不要だ。
アンプルの先端部分をへし折り。中身を嚥下する。
アンプルの中身は特殊な薬剤。僕とセットで作られた、回復能力や身体能力を底上げする効果のある魔法薬だ。
「が……あ、ぐうぅ」
口から呻きが漏れた。薬効はすぐに現れ、体中に過剰再生の痛みが襲う。
「ほう? 成程、それが貴様の力か?」
全身の細胞が暴れ狂う。薬品の効果で身体の至る所が勝手に破壊されていく、急速に造血された血液が血管を突き破りそうになり、それを同じく強化された筋肉や骨が無理矢理止めていく、血圧や血流の流れが不規則に、ただし激流の様に全身を駆け巡り、意識が何度かブラックアウトしかける。
相変わらず酷い効果だ……常人なら身体が爆発するという劇薬の作用に、声を上げて泣きたくなる。
だけど、ここまでやって、ようやく僕の体の七割以上に移植された実験結果、悪魔の体細胞達が目を覚ます。
全身の筋肉が膨張する。自分で見た事は無いが、瞳孔が縦に切れ、肌にうっすら紋様が浮かぶ様は、悪魔そのものだと、誰かが昔に言っていた。
覚醒するに従って、悪魔の特徴の一つである、血流と思考を介して魔法が自動発動する。
普段は詠唱を介して行う『
僕が呼吸し、血液が身体を巡るたびに身体強化の術が上書きされ続ける。目には『
そんな僕の変貌を見つめる悪魔の目には、確かに憐憫があった。
「哀れな……人の肉すらも失ったその姿、正に悪鬼、正に修羅よな。
それでなお、
貴様にとっては周りの有象無象の人類より、余や主の方がよほど近しいと言うのにな」
声を無視し、僕は『粉砕する者』を構える。
傍らのイリスも戦闘準備として『
その細い指には、指先が出るグローブが。
その頼りない腕には、大きな翡翠飾りに彩られた袖が。
その小さな肩には、小さな体を脅威から守る、防御術式の編み込まれたケープマントが。
その華奢な身体には、大きな十字を描く修道女にも似た青と白の術式衣が。
その薄い胸には、可愛らしくも術式の代理演算を総括する大きなリボンが。
その未熟な足腰には、動きやすさを重視したミニのスカートと、前を開く形で彼女の脚を覆う、防御を担当する魔法陣の織り込まれたロングスカートが。
その力強い手には、彼女の魔法の全てを補佐する魔杖とEパッド、宝珠『サリエルⅨ』と『
その穢れ無い背には、彼女の全力に答えて輝きを増す、三対六本の翼が。
最後に、清廉な純白と透き通るような青を組み合わせた術式衣に、一見装飾にしか見えない植物の蔦の様な金色の魔法陣が服に描かれる。
双方それぞれの戦いの準備が整う。殺意を込めた瞳で、僕が悪魔を睨んだ。
「その通りだ。行くぞ悪魔、一人の人間として僕達の世界から居なくなってもらう」
挑戦者の声に、悪魔が応じる。
「ふふっ……その意気や良し! さぁ来るが良い! 世界の終りを止めて見せろっ!」
悪魔が僕達の元に降りる。『粉砕する者』を握りしめ、前進!
戦闘が開始された。
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