2 月とアメジストⅠ(中)
翌夕。
ティアが長椅子の上でまどろみに身を任せていると、ドアの開く音がした。
「そろそろ港に到着するそうだ」
衣類の一式を両腕で抱えながら、ファン・ミリアが部屋に入ってくる。どこかで着替えてきたらしく、動きやすそうな、平民の女性が着るような服を身にまとっていた。特徴的なストロベリーブロンドの髪を隠すためだろう。頭巾を巻いている。
「太陽は沈んだが、まだ起きれないか?」
「いま起きるつもりだった」
起き上がり、眠気を払うように頭を振った。
「ティアを見るにつけ、吸血鬼というのは不便な生き物らしい」
ファン・ミリアが探るような視線を向けてくる。
「──何が?」
ティアが顔を上げると、
「昼間は完全に動けないのだろう?」
「……人だって夜は眠る」
「おまけに海や川の上でも動けない」
「まったく動けないわけじゃない」
「負けず嫌いだな」
ファン・ミリアは苦笑すると、抱えた衣服をティアの膝に乗せてくる。
「動けるなら自分で着られるだろう」
促され、ティアは自分の姿を見下ろした。
毛布を羽織っているが、裸である。ウル・エピテスでの戦闘後、ドレスに姿を変えていたイスラが眠りについたためだ。
「ぜんぶ女性用か」
広げてみると、丸襟に七分袖の上衣に、下は短ズボン、さらに腿丈の
「私は、女物の服は好きじゃないんだ」
ティアの口調は苦々しい。
「しかし、黒いドレスを着ていたではないか?」
「あれは私の趣味じゃない。イスラの趣味だ」
「黒狼の……」
ファン・ミリアは唇に指の腹を当てた。
「つまり黒狼は、ティアに女物の服を着せるのが趣味なのか?」
「全然ちがう」
ティアは大仰に頭を振った。
「あのドレスは昔、イスラが着ていたドレスを似せたものらしい」
「黒狼は人だったのか?」
「私も詳しくは知らないんだ。イスラは自分のことを語りたがらない」
「自分の信奉する神を知らないのか?」
呆れ顔を作りかけたファン・ミリアが、ふと、「そういうものかもしれない」と思い直した様子で、
「我が神、シィン・ラ・ディケーについて、黒狼に聞きたいことがある」
「イスラに?」
「我が星神と黒狼は姉妹らしい」
「それは初耳だ」
ティアは目を丸くさせた。が、言われてみればイスラは月神なのだ。星神と呼ばれるシィン・ラ・ディケーとは何かしらの縁があっても不思議ではないのかもしれない。
そう思ってイスラに呼びかけてみたものの、いっこうに返答がない。
「熟睡している」
あきらめてティアが告げると、「かなり力を消耗したようだからな」と、ファン・ミリアは仕方なさそうに口元をゆるめ、
「そもそも──」
不思議そうにこちらを見つめてくる。
「タオかどうかは別にして、ティアの心は男でいいんだな?」
「……当然だ」
「その身体も自分で望んだものではない?」
訊かれ、ティアは仏頂面で黙り込んだ。ファン・ミリアは苦笑して、
「──では、その身体と心にどうやって折り合いをつけているんだ?」
「つけてない」
ティアはうんざりして溜息をこぼした。
「でも、寝ても覚めてもこの姿だし、慣れるしかない」
「大変な美人だぞ」
望まない賛辞に、ティアは舌の先を噛んだ。
「男の無遠慮な視線に晒されるのは好きじゃない。──貴女こそ、どうやって折り合いをつけているんだ?」
「というと?」
「美しくありたいと思うのが女心なのだろう?」
「まぁ、おおむね間違ってはいない」
「でも、美しければ美しいほど、
「そう思う女性がいたとしても不思議ではないが……」
ファン・ミリアにしては歯切れが悪い。
「だからといって美しくなりたいという女心を
「残念ながら、その女心が私にはない。なのにこの身体だから」
ぶつぶつと、ティアは
「あまり考えないようにするしかない」
吊り紐をベルトに結び、立ち上がると、短ズボンと吊り下げた
「というか、この服はどこから調達してきたんだ?」
「買ったんだ」
商船だからな、とファン・ミリアから説明された。
ヌールヴ川に落ちて意識を失ったティアを抱き、ファン・ミリアは河口へと流されていった。常人であれば溺死して当然のはずが、ふたりとも無事だったのは、ラズドリアの盾のおかげだった。
ファン・ミリアいわく、
「ラズドリアの盾を全開にすると、円になる」
一種の球体になるらしい。そこに入った状態で海へと流されていた時に、たまたま嵐のなか、錨をおろして停泊しているこの船を見つけたのだ。
「必死だった。
まさか海と戦うことになるとは思わなかった、とファン・ミリアは渋い顔つきで語る。
あまりに人間離れした話に、ティアは半ば感心し、半ば呆れた。
「私より、貴女のほうがよほど化け物じみてる」
「冗談ではない」
ファン・ミリアは腕組みをした。深く嘆息して、
「この船を見つけることができなければ、あと数分と
「運がよかった、というわけだ」
「ただ運がよかっただけじゃない、おそろしく運がよかった」
「嵐の夜には出歩かないようにする」
ティアが茶化すと、そうしてくれ、とファン・ミリアが笑うでもなく言った。
甲板に出ると、薄暮に紫雲がたなびいていた。
空が高い。
すっきりとした陸風に誘われて顔を向けると、遠くのほうに島影が見えた。明かりが低く横に連なっている。
「あの島に向かっているのか」
ティアが手すりに寄りかかって見つめていると、
「レム島だ」
隣のファン・ミリアも手すりに腕を置いている。目を閉じ、風を楽しんでいるようだった。
「レム島……ということは、ここはエギゼルの海か」
東ムラビア王国に接する内海である。
王城ウル・エピテスはネブ海峡に突き出た岬の上に建てられているが、そのネブ海峡を北に超えるとエギゼルの海に入る。
ファン・ミリアから聞いたところ、この船は西側の沿岸部をぐるりと周航しているらしい。
「東ムラビアとノールスヴェリアの交易船だ」
聖ムラビア領邦国家とは戦争状態にある東ムラビアだが、ノールスヴェリアとは平時の貿易が続いている。
現状、ノールスヴェリアは両ムラビアのいずれにも加担していないらしい。
「ノールスヴェリアは北の大国だからな。
「戦争か……」
ティアは空を仰いだ。月は細く、雲間に星々の明かりが散り広がっている。まとまってけぶるように光る星もあれば、群れから離れ、ひとり寂しく輝く星もある。
「空には
「だが、争いを嘆いてばかりでは誰も救うことはできない」
「争いを失くすため、貴女は槍を取ったのか」
「そうだな」ファン・ミリアは声を落とした。「矛盾しているな」
髪をおさえるファン・ミリアの面は、紫の空を映じている。さらに濃いアメジストの瞳が憂いを帯びるようだった。
島影が徐々に近づいてくる。話の接ぎ穂を探すでもなく、どちらともが押し黙って景色を眺めていると、
「いやはや、我が目を疑うほどの美しい女性がおふたりも」
背後から声が聞こえた。ティアが振り返ると、身なりの整った中年の男性が立っていた。陽気そうな笑みを浮かべ、背後には水夫たちが控えている。
「船長だ」
ファン・ミリアから小声で教えられた。
「私の名は明かしてある。その上で、何も訊かずに船室を貸してくださった」
ティアは神妙にうなずく。ということは、この船長は自分にとっての恩人になりそうだ。
「ティアーナです。心から感謝を」
礼を言ってティアが手を差し出すと、
「モシャンです。この世でもっとも賃金が安いと言われる雇われ船長を務めております」
握手をするつもりだったのが、モシャン船長はティアの手を取ると、その手に口づけをした。悪寒が走りそうになるのを、ティアはぐっとこらえる。
──こういうことをするから男は嫌だ。
礼儀に
「本当にお美しい。ティアーナ嬢の美しさにエギゼルの海も驚いております。私の給料がもう少し高ければ、あなたを
船長はやれやれと頭を振った。冗談好きな性格らしい。肌はカラリと日に焼け、動作もきびきびとしている。
何より、
「セイレーンはその歌声によって船人を惑わすと言いますが、ティアーナ嬢は声さえも必要としない」
こちらに向けてくる視線が異常に熱っぽい。
──情熱的というか。
かといって、バディスのような不器用な必死さが伝わってこない。
──単純に女好きか。
思いながらファン・ミリアを盗み見ると、彼女は無表情を作ってはいるものの、かすかに口の端が震えていた。ティアの反応を楽しんでいるのかもしれない。
「ええっと……」
困ったようにティアが笑うのを見て取ると、船長はすぐさまファン・ミリアに向き直った。
「レム島で降りられますか?」
「とりあえずは。ただ、その後どうするかはティアーナと話して決めようと思っています」
ファン・ミリアは言って、
「行先によってはまたこの船を使わせていただくかもしれません」
「お待ちしております。すでにお代金は頂戴しておりますので、もし当船をお使いにならないのであれば、余った分は返金いたしますよ」
「いえ、それよりも──」
言葉を濁したファン・ミリアに、船長はしかつめらしい表情を作った。
「わかっております。貴女様が当船をご利用になられたことは、いっさい他言いたしません。そうでなくとも我々はお客様の情報を明かしたりはしません」
「助かります」
ファン・ミリアが頭を下げると、「お安い御用です」と、モシャン船長は気さくに笑う。
「私ども海の者は縁起を担ぎたがる生き物ですが、それゆえおふたりのような女神にご乗船いただいたこと、掛け値なしに喜んでおります。本音を言えば、船賃などいただかなくても結構なのですが」
「そういうわけにはいきません」
「──と、貴女様はおっしゃられる」
船長はちらりと海を見た。すでにレム島は視界に収まりきらない距離にまで迫っていた。
「それでは、私はこれにて失礼いたします。もしお戻りになられるのであれば、早朝には出立いたしますのでご注意を」
「わかりました」
「また、おふたりにお会いできることを楽しみにしております」
言い残し、船長が入港の準備に取り掛かりはじめる。
水夫たちがあわただしく動きはじめた船上で、
「やはりティアも気に入られたか」
楽しげにファン・ミリアがつぶやいた。どうやら、すでにモシャン船長から口説かれていたらしい。
「手に口づけされた時、悪寒が走った」
「わかる。私もされたからな」
ファン・ミリアが力強く同意した。
「わかっているなら、なぜ教えてくれなかったんだ?」
「これで公平だと思ったからだ」
「……聖女とか言って」
「だから、なぜ私にケチをつけたがる?」
そんなやり取りを繰り返すうちに、辺りに投錨する音が響き渡った。
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