1 月とアメジストⅠ(前)

 雲ひとつない夜空は、海とつながって見えた。

 水を切る船の舳先へさきから、白波が舷側をつたってともへと流れてくる。

 船窓から外をのぞくファン・ミリアの目元を、いくつもの微細な光が照らしていた。水粒みつぼのうちに舞い上がる夜光虫の光と、天から注ぎ落ちる星々の光が、青となり、緑となり、ファン・ミリアの瞳を輝かせている。

 月のない、ひそやかな夜。

 かすかに響く波音の底に、規則正しい寝息が聞こえる。

 ファン・ミリアもならって目を閉じてはみたものの、

「眠れない……」

 溜息まじりにつぶやいた。

 自分が、自分でもわからない。

 ファン・ミリアは青いドレス姿のまま、長椅子に腰かけていた。

 疲労が濃い。いまは見えないラズドリアの盾が、全身に圧し掛かるようにファン・ミリアの動作を億劫にさせていた。

 それなのに、ひどく神経が昂っている。深く眠ることができなかった。

 理由はわかっている。


 ――私は、会えたのだろうか。

 

 かつて、ファン・ミリアはひとりの少年の最期を看取った。

 タオ=シフルという名の、聖騎士見習いの少年を。

 聖騎士団筆頭として、ファン・ミリアは現場の責任を負う者ではあるものの、タオとは立場において大きな隔たりがある。報告書によって名前は知っていたが、面識はなかった。

 取り立てて特筆すべき能力があるわけでもなかった。そもそも、ファン・ミリアがシフルに向かったのも、タオ個人に対する意識というより、見習いとはいえ彼も団に属する者にちがいなく、それゆえに見届けてやらなければ、という仲間意識に依るところが大きい。

 そのタオが、これほど自分の心に深く食い込んでくるなど、想像さえしていなかった、だけでなく、無断で団を離れるという愚挙さえ起こさせている。


 なにより、この特異な状況がファン・ミリアを混乱させていた。


 タオ=シフルだった少年は、ティアという名の少女に生まれ変わった。生まれ変わった、という言葉が正しいかどうかはわからないが、ティアがタオだった、という事実は間違いのないことで、そうしてみると。


 ――私はこの者に対して、どう接し、どう振る舞えばいいのだろう?


 ファン・ミリアは、タオ=シフルに恋をした。

 同時に、人外の存在を滅ぼさなければならない聖騎士でもあった。


 私人の自分として接すればいいのか、公人の自分として接すればいいのか……。

 ピクピクと、目を閉じたファン・ミリアのまつげが震えはじめた。

 感じはじめた視線に、自分でも緊張しているのがわかる。

 視線はじっとファン・ミリアに留まり、無視することができない。

 あきらめ、ファン・ミリアは薄目を開いた。

「……何を見ている?」

 やや硬い口調で訊くと、

「ファン・ミリア=プラーティカ」

 返事があり、瞳があった。

 開かれた灰褐色の瞳が、まっすぐにファン・ミリアを見つめていた。

 ファン・ミリアが着ているドレスのスカートはところどころが破れ、白い脚が見え隠れしている。

 そのファン・ミリアの膝を枕にして、ティアが長椅子に横になっていた。身体には粗末な毛布がかけられている。

「目覚めたのか」

「……身体の動きがにぶい」

「疲れている?」

 自分の疲労をよそに、ファン・ミリアはうつむいてティアを見下ろした。寝起き直後のぼんやりした表情はうかがえるが、体調の良し悪しまではわからない。

「いや」

 と、ティアは瞳を窓の外へと向けた。ファン・ミリアに膝枕をされているのを驚く様子もなければ、警戒する様子もない。

「海……ここは船の中か。しかも、新月」

「海の上では、動けない?」

 ファン・ミリアが訊くと、

「さぁ」

 ティアはひとしきり船室の様子を見回した後、こちらへ視線を戻し、

「――だが、私を仕留める気があるなら、いまが好機にちがいない」

 その言葉に、ファン・ミリアは不愉快そうに眉をひそめた。

「私が寝首を掻く者に見えるのか?」

「見えない。貴女あなたが本気になれば、私が勝てるとも思えないし」

「そういう意味で言っているんじゃない」

 ファン・ミリアは苛立つようにティアを睨む。

「滅ぼすつもりなら、はじめから助けたりしないと言ってるんだ」

「うん……知ってる」

 間近に向かい合うティアが相好を崩した。

「ファン・ミリアという人は、そういう人だ」

 はっと、ファン・ミリアは言葉を呑み込んだ。罪悪感を覚えたからだった。場合によっては、助けた者を殺めなければならない。

 ――ずっと話してみたいと思っていた。

 どんな笑顔で笑う人なのだろうと、想い続けていた。

「……ありがとう。私が目を覚ますまで側にいてくれて」

 それに、とティアは付け加えた。

「私が蛇に操られていた時も、貴女の声が聞こえていたように思う」

 ティアが、ぎこちない動きで両手を伸ばしてくる。ファン・ミリアの顔に触れ、その輪郭をたしかめるように指でなぞっていく。

「なぜ、いつも私の顔に触れる?」

「美しい彫像を見れば触れたくなるのは、私だけじゃない」

「他人が気軽に触れていいものではない」

「もっともだ」

 投げ出すように、ティアは両手を毛布の上におろした。ちいさく喉を鳴らして、

「はじめて貴女を見たのは、聖騎士団の本部で仮採用を受け、見習いになった日だった」

 と、静かな口調で話しはじめた。

「貴女は部下の聖騎士たちを従え、ちょうど本部に入ってきたところだった。――あれは、訓練か何かの帰りだったのだろうか」

「……かもしれない」

「私が一階の部屋を出て、廊下を玄関ホールに向かって歩いていたその先を、貴女が横切り、階段を上っていった。ほとんど一瞬の出来事だった」

「呼ばれれば、振り返るくらいはしただろう」

 ファン・ミリアが口を挟むと、「そんなことはできなかったし、考えもしなかった」とティアは笑った。

「ファン・ミリアというひとりの英雄を見て、ここが聖騎士団なんだ、と思った。そして、タオとしての私が貴女を見たのは、あの時が最初で最後だった」

「タオ=シフル……」

 思わずつぶやいたその名に、「そう」と、ティアはうなずいた。

「その名は、かつて私であった者の名だ」

「いまはちがうと?」

「ちがうと思う。ティアーナ=フィール、それがいまの私の名だから。ウル・エピテスの地下墓所カタコンベ目醒めざめる前に、私は、タオが棺の中に納められているのを見た。夢だったのかもしれないが……あの棺は、きっとどこかにあるのだろう」

「棺……」

 ファン・ミリアはタオが納められているというその棺を想像してみた。冷たい場所にあるのか、温かい場所にあるのか。明るい場所か、暗い場所か……。

「しかし――」と、ファン・ミリアは腑に落ちない。

「前に私を筆頭と呼んだのも、過去を語るのも、タオ=シフルの記憶があるからだろう?」

「それも、そう。でも、いまの私は、タオができないことができるし、タオが考えもしなかったことを考えている。逆に――タオができたことができなくなってもいる」

 そこでふと、ティアは冗談めかして言った。

「もし私がタオなら、きっと貴女には触れられなかった。見習い程度では、筆頭に触れることは許されないだろうから」

「見習いでなかったとしても触れさせはしない。人外の者にも」

 ファン・ミリアが真顔で告げると、ティアは気づいたように、

「貴女の目に、私は人外の者に見えない?」

「……見えないで欲しいとは思っている」

「うん」と、ティアはゆるく長い息を吐いた。

「私も、できればそうありたかった。私自身、化け物ではなく、人でありたいと望んだのは、私のなかでタオの心が息づいているからだと思う。だが……私は確かにタオから大切なものを託されたが、託されたものをどうするかはティアである私が決めることだ。そうでなくては、私がタオではなく、ティアとしてこの世界に戻った意味がなくなってしまう」

「……」

「私はどうしようもなく人外の化け物で、吸血鬼なんだ。それでも……」

 続く言葉を押し留め、ティアは身体をよじり、ファン・ミリアの視線から逃げるように顔を横に向けた。

「……私のせいで、貴女は仲間を失った」

 言って、ティアは目を閉じた。痛みをこらえるように、強く。

 ――グスタフをいたんでいるのか……。

 ファン・ミリアは思いつつ、ティアに毛布をかけ直してやりながら、

「死の間際、『気にするな』とグスタフは言ったはずだ。彼の死には、彼の意思があった。私はそう信じている」

「……強い人だな」

「強く、正しい人だった。我々が誇るべき戦士だ」

「私は、聖騎士団の記章を受け取ることができなかった。タオは――かつてタオであった私は、聖騎士団になる夢を叶えることができなかった。彼の助けを借りてもだめだったんだ」

「……」 

「私は、私の夢を叶えてはやれなかった……それが、やはり悲しい……」

「……私も悲しい」

 ファン・ミリアは、そっとティアの髪を指でいた。癖のない、ファン・ミリアの指の隙間をすべり抜けていくような黒髪は、タオ=シフルの栗色の髪とは似ても似つかない。

「私の手は、タオ=シフルが冷たくなっていく感覚を覚えている。とても悲しかった。彼と話してみたいと、ずっと思っていたんだ」

 ティアが目を開いた。驚いた表情でこちらを見上げてくる。

「どんな笑顔を見せてくれる人だったのだろうか、と」

 微笑み、ファン・ミリアがティアの顔を覗き込もうとすると、ティアはあわてた様子で顔をそらし、再び横向きになった。おや、と思ってファン・ミリアが見ていると、

「……タオは、貴女が気にかけるほどの者ではなかった」

 小声でぼそぼそと言ってくる。

「死んだ者を悪く言うのはよせ」

 真面目ぶってファン・ミリアが告げると、

「自分のことだから……」

「ついさっき、自分はタオではないと言ったばかりだ」

「でも、この世で一番タオに近いのは私だ」

「だから、そのつもりで見ている」

 膝をゆすると、ティアがチラリとこちらを見た。

 ん? と、ファン・ミリアが目を細めて笑いかけると、ティアは上目遣いにそろそろと毛布で顔を隠そうとする。

「人が嫌がることをするのは、よくない」

 その言葉に、ファン・ミリアはくすくすと笑い声を漏らしながら、

「私こそ、ティアにはさんざん嫌なことをされた。覚えているだろう? 人前に連れ出された挙句、ダンスまで踊らされてしまった」

「……覚えていない。あれはユーセイドのしたことで、私がしたことではない」

 とうとう、頭の上まですっぽりと毛布にかぶってしまった。

「まさか見習い団員に口答えされるとは思わなかった」

 ファン・ミリアはわざとらしく目を丸くさせた。むくむくと、胸にいたずら心が起こっていた。

「おまけに、ティアは十六歳なのだろう? 私は十七歳だ。年上だ」

 すると、引きこもった毛布の下から、ティアの声がくぐもって聞こえてきた。

「一歳くらい……ぜんぜん年上には見えない」

「なんだと?」

「聖女とか言って」

「待て、いま私にケチをつけたのか?」

「つけてない」

「私の膝を借りておいて、よく言った」

「……貸してくれとは言ってない」

「なら返せ」

「返さない」

 そんなやり取りを繰り返すうちに、どちらともなく寝入ってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る