86 春宵一擲Ⅳ

 まぶしい陽の光に包まれ、爽やかな風が吹いた。

 葉擦はずれとともに、エメラルドグリーンの影が軽やかに踊る。

 あれは、タオがシズ村を出て、明けた朝だったか。

 その前夜、タオは討伐隊と称する兵たちと戦い、気を失った。はじめてイスラと出会った夜のことだ。

 気を失ったタオが眼を覚ましたのは、イグナスの背の上だった。

 信用しかけていた。

 いや、信用していたのだ。

 自分は、軽率だったのだろうか。

 怪我をしたタオを背負うイグナスは大きく、力強かった。一度、降りて早瀬で水を飲んだが、その後もしばらくは背負われていた。タオは必要ないと言ったが、「雇い主に死なれては困る」と、イグナスは引かなかった。

 減らず口ばかりの傭兵だった。だが、憎めない男だった。

 ……感謝していたのだ。


 ――イグナス……。


 蛇の瞳が、薄く眼を開いたティアに気づいた。

 笑ったらしく、生暖かい呼気が口に入ってくる。当てつけるように、舌先で水音を立ててくる。

 ザラつく悪寒が首の裏を這った。

 頭ごと髪を掴まれ、金髪のかつらがずれた。地毛に太い指が差しこまれ、乱暴にくような動きに、鬘が絨毯の上に落ちる。長い黒髪が広がった。

 ようやく、イグナスがティアの唇から離れた。

「こっちの方が好みだ」

 手を取られたまま、ティアはイグナスの足元に突っ伏した。

「ぐ……」

 イグナスから流し込まれた『何か』が、早くも体内で暴れはじめている。

 吐きたいのに、吐けない。何度も嘔吐えずいた。

「苦しむ女を見るのは、いいもんだ」

 イグナスがしゃがみ込んでくる。その手が、ティアの腹に置かれた。すこしずつ、力を込めて押してくる。

「やめろ……」

 ずきりと痛みが走った。

「やめてくれ……」

 のたうち、何度も頭を振った。

 腹に疼痛とうつうがあった。痺れるように、熱い。不自然な痛みだった。

「……気持ち……悪い……」

 それだけを言った。わけもわからず、痙攣するようにティアの睫毛が震えた。

 イグナスが、ただ愉快そうに笑う。

「いい表情だ」

 ティアの足を掴み、

「返すぜ。これは、お前のだろう?」

 言って、軽々と投げ飛ばした。

 イスラは自分の体躯からだでティアを受け止める。

「ティア!」

 カホカが駆け寄った。

「馬鹿! こんなとこで日和ひよんな!」

 心配そうにティアを抱き起そうとするカホカに、

「触れるな」

 イスラが、ティアの服を噛み切った。

「これって……!」

 カホカは絶句した。イスラが噛み切ったティアの服の下、その腹あたりに、蛇の刺青いれずみが浮き上がっていた。

 ティアの呼吸が浅い。その呼吸に合わせて、刺青が膨張と収縮を繰り返しているようにも見えた。

「熱い……」

 瞳が虚空をさまよっている。

「力が……変……なんだ……」

 瞳の色が一瞬だけ赤味を帯びるも、すぐに元の灰褐色に戻ってしまう。

「これ、どうすりゃいいの?」

 カホカが顔を上げると、

「気を抜くでない。来るぞ」

 イスラの瞳の動きに、カホカは跳び退いた。一瞬間後に、イグナスの拳が床に突き刺さる。拳を引き上げると、絨毯もろとも床に穴が開いていた。

「嬢ちゃんにゃ、さっきのお礼をしないとな」

 イグナスが剣をふるう。鋭く、速い。動きが読みづらい。

「いらねーよ」

 それでも、カホカは剣を避けた。イグナスの筋肉の動きや癖を見抜き、遅れを取らぬよう神経を研ぎ澄ます。

 一方、満身創痍のレイニーも、

 ――動いてくれたね。

 棍に力を込めた。構えて待たれるより、動いている最中のほうが隙を狙いやすい。

 レイニーは気力をふるって飛び出した。イグナスの右側面に回り込み、

「はぁっ!」

 肩の関節部に棍を突き入れた。

 ――手応えあり、だけど……。

 イグナスの肩が外れる感触が伝わってくる。が、イグナスは痛がるどころか、すぐに剣を返してきた。

 ――やっぱり止まらないね。

 棍で受けるも、力が強すぎる。防御した棍が弾かれた。

「ふざけた話だねぇ」

 レイニーは吐き捨てる。やはり、萎えた足腰では受け流せない。

「クク……」

 イグナスが左の拳を放った――瞬間、ばしゃり、と。レイニーの目の前で黒い水が飛び散った。

「――なんだい?」

 驚いたレイニーがよくよく見ると、自分と、イグナスの拳との間に、水の膜が浮かんでいる。

「……狼か」

 イグナスが横目にイスラを見やった。

 その隙を見逃さず、カホカがイグナスの左手首を掴んだ。

「調子に乗りやがって、こんのド変態が!」

 イグナスの肘関節に掌底を叩き込む。ごきり、と関節が粉砕される音が響いた。止まらず、カホカは踏み抜くように膝の膝蓋骨さらを破壊する。逆の足で刈り取るように両すねを蹴り、イグナスに尻もちをつかせた。

「あ~ら、ごめん遊ばせ」

 息つく暇を与えず、手首の関節をめながら背後を取った。

「ぶ ざ ま」

 にひ、と凶悪な笑みを浮かべ、容赦なくイグナスを壊しにかかる。後頭部を膝蹴りで割った。さらに両足でイグナスの腕を挟むと、

「せぇのぉ……」

 真上に跳び、躊躇なく床に倒れ込んだ。

 にぶい音とともに、イグナスの腕から骨が皮膚を突き破って出てくる。

「うっそぉ~!」

 と、カホカは内股を作り、いやいやをする。

「あの人、腕から骨出してる! ヤバイ、すっごく痛そう! ザマミロ、死ね!」

 しかし、すぐにイグナスの身体のあちこちから、黒い霧が立ち上りはじめた。

「……かわいい顔して、えげつない真似してくれるじゃないか」

 跳び起き、こちらの顔めがけて剣を突いてくる。けれども、遅い。カホカが難なく見切ると、イグナスの口の端が不気味に持ち上がった。

 ――なんだぁ?

 カホカが思った時、イグナスの肘から突き出た骨が、蛇になった。

「あ、この――っ!」

 蛇はカホカの首をぐるりと一周し、締め上げてくる。

 ――炎神アイム・フューリクス

 カホカが唱え、蛇から脱出を試みるも、

「……なんで!」

 魔法ちからが、発動しない。

「……ぁう……ッ!」

 カホカは悲鳴を上げた。脇腹を、イグナスの太い指が掴んでいる。

「ここが一番効くよな?」

 ドレスの上から傷口を広げるようにえぐられた。

「うぅあぁ!」

 激痛に悲鳴を上げた。

 イグナスに頭を掴まれた。ティア同様、カホカは無理やり顔を上向かせられた。

「嬢ちゃんにも埋めてやるか」

「やめろ、変態!」

 カホカの拳が、イグナスの身体を打つ。確実に急所を捉えているにも関わらず、イグナスはひるむ様子さえ見せない。

「やめろってば!」

 必死になって抵抗するも、力で抑え込まれてはどうしようもない。イグナスの舌が、べろりとカホカの頬を舐めた。

「やだって――!」

 きつく閉じたカホカの唇を、イグナスの舌がこじあけようと迫る。

 なんとか拒もうとするカホカの背後で、ダークブロンドの髪が舞った。

「カホカ、じっとしておいでよ」

 何度も棍を握り直し、レイニーが鋭い眼光を放つ。

「ケェッ!」

 渾身の力を込めた棍が、イグナスに突き出された。

 イグナスの両肩、そして両脇腹に四連の突きがほとんど同時に着弾する。間に挟まれたカホカを避けるため、せつが折れて山なりを作っていた。

 イグナスの身体がのけぞった。

 レイニーは蛇を巻き取ると、イグナスの腕から引きちぎった。

「クソ蛇が!」

 蛇を壁に叩きつけながら身を翻し、遠心力を加えた棍が、イグナスの分厚い胸筋を刺し貫いた。

「悪くない。が、惜しいな」

 それでも踏みとどまったイグナスが、レイニーの首をねようとする。

「こっち」

 レイニーの腕を、カホカが掴んだ。自分の身体と入れ替える。

 イグナスの剣がカホカの首を刎ねた。その首が残像となって消える。

「――捕まってる時だけか……」

 どうやら、イグナスに直接触れられていると力が使えなくなるらしい。

 カホカは間合いを外した位置から現れ出た。

 はぁ、と大きく溜息をつき、

「しんどい……」

 押さえた脇腹から、再び出血がはじまっていた。

 よろめき、崩れ落ちそうになるのを、レイニーに抱き止められた。

「ま、よく頑張ったほうだろうぜ」

 対するイグナスは、やはりダメージがなさそうだ。裸の上半身は、かすり傷ひとつない状態に戻っている。

 ――うぅむ……。

 カホカは薄れゆく意識のなか、

 ――これ、やばいな。

 ファン・ミリアと戦った時よりも、希望が見当たらない。

 ――死ぬかも。

 そう思った。

 死ぬなら死ぬで、仕方ない。

 すくなくとも以前とはちがうと思えた。リュニオスハートの洞窟の時のような、戦うことをあきらめ、何もしなかった自分ではない。

 レイ二―をウル・エピテスから救出できなかったのは残念だが、胸を張れるくらいには頑張った気はする。

「目が、しぱしぱする……」

 霧がかかったように、視界が薄くなっていく。

 レイニーに抱かれているため、イグナスの立つほうではなく、廊下の逆側が見えた。あらためて見る廊下の幅は広く、大人が三人ほど、手を伸ばして立つことができそうだ。

 そして、長い。絨毯の敷き詰められたその先は、かすむ視界とも相まって、どこまでも続いているような錯覚を覚えた。

 ――あれ……なんだ……?

 その霧の向こうから、誰かが歩いてくる。

 朝霧のように周囲を染め上げる青い光とともに……。

 その鮮やかすぎる光が、カホカに意識を取り戻させた。

「レイニー、伏せて!」

 カホカは叫ぶと、レイニーに足をかけた。

「カホカ?」

 驚くレイニーもろとも、ふたりの身体が絨毯の上に投げ出される。

「あんた、何を!」

 言った直後、仰向けに見上げるレイニーの視界を、まばゆい光の奔流が通過していった。

「おお? おおおお!」

 直撃を受けたイグナスが光の奔流に吞み込まれ、吹き飛ばされていく。

「……これは?」

 事態が把握できないレイニーの隣で、

「サティア……!」

 驚きのままに、カホカはその名を口にした。

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