87 春宵一擲Ⅴ

 雨に濡れている、青よりも深い青。

 伸びやかな肢体に、ドレスが張りついている。

 つばが横に長い十字架型の剣、そしてスピアを両端に携えた神器――星槍ギュロレットをファン・ミリアは軽々と回した。

 星槍の軌跡が、虚空に青光の車輪を描く。

「いったいどうなっている?」

 前方を注視していたファン・ミリアは、カホカに視線を落とした。

 隣のレイニーが、カホカを押しのけて立ち上がってくる。

「ムカつく顔だねぇ」

「ちょっと!」

 カホカが静止するよりも早く、レイニーが棍を繰り出してくる。

 ファン・ミリアは星槍でもって簡単にさばくと、

「レイニー=テスビア、脱獄したのか」

 いくぶん驚いたものの、ここにカホカがいる以上、推量は難しくない。

「……二度も負けるのはゴメンだよ」

 レイニーが続けざまに棍を振ってくる。

 ――恨まれているようだ。

 しかし、それも無理のない話なのだろう。彼女を打ち負かし、捕縛したのは他でもないファン・ミリアだ。

「レイニー、待ってってば!」

 カホカがレイニーの足首を掴んだ――ものの、

「ぐへ」

 振りほどこうとするレイニーの足が、カホカの顔面を蹴った。

「あ、悪い」

「……しんどいんだから……動かせんなよ……」

 謝るレイニーに、カホカはぐったりと顔をうつ伏せた。

 ファン・ミリアはふたりのやりとりを眺めつつ、レイニーが戦える身体ではないと分析を終えている。カホカも同じか、あるいはそれ以上の深手だろう。

 冷静に見定め、視線を転じた。

 黒狼と、最後のひとり……。

 しかし、どちらも脅威には感じられなかった。特に、黒狼は以前の姿からは想像もつかないほど威勢を落としている。

 力がまるで感じられない。

 ――これら全員がギルドの郎党パーティーだとすると……。

 かなり危機的な状況に陥っていると見てまちがいない。

「サティア……」

 カホカに呼ばれ、ファン・ミリアは再び足元へと視線を戻した。

「あいつ……イグナスは?」

「おそらくは、まだ生きている」

 ファン・ミリアが答えると、カホカは黙り込んだ。それからしばらくして、

「……サティアにお願いがあるんだ」

 まるで絨毯にむかって話しかけているような姿勢だった。

「助けて」

 ごくちいさな声で、カホカが言った。

 ――まったく……。

 そのてらいのなさに、ファン・ミリアは内心で苦笑した。

 ――可愛げがある。

 感動を覚えたといってもいい。つい先日の襲撃事件を思い返せば、「どの口が!」と面罵めんばできる立場のファン・ミリアだからこそ、カホカの物言いが、いっそ爽やかで清々しく感じられた。

 ――得な性格をしている。

 ファン・ミリアはどうにも、飾らない性格のこの娘が嫌いになれない。

 きっと、と思う。

 ――私は、カホカのことが羨ましいのだろう。

 つらい時、素直に「助けて欲しい」と言える彼女の性格が。

 そして、カホカを羨ましいと思える自分が、すこしだけ嬉しい。

「……あの黒き狼は、敵ではないのか?」

 念のために訊くと、すぐにカホカから「味方」と返ってきた。

 黒狼は、離れた壁際の近くで、手負いらしい娘の傍らに座っている。彼女が蝙蝠の女であり、ユーセイドであることは間違いないだろう。

 ファン・ミリアは棍を構えたままのレイニーを一瞥した。

「お前たちからは多くを聴かせてもらう必要がある。が、まずはカホカの手当てをしてやれ」

「あんたの指示を受けるつもりはないね」

 レイニーが不機嫌顔で返してくる。

「……いや、しろよ。手当て……」

 うつ伏せたカホカの抗議に、ファン・ミリアはちらりと微笑みをのぞかせた。そして、大股で黒狼に歩み寄っていく。

 無言の琥珀の瞳が、じっとこちらを見上げていた。

 ファン・ミリアはひるむことなく黒狼を見つめ返したまま、両膝を落とした。

 娘に手を伸ばしかけると、

「触らぬ方が良い」

 黒狼から告げられ、一度、ファン・ミリアの手が止まるも、構わず娘を抱き起こした。

 破られた服の腹あたりに、黒い蛇の刺青いれずみがのぞいている。抱き起されたにも関わらず、娘の瞳が、ファン・ミリアに向いていない。虚空を眺めるように、瞳の色が赤くなり、灰色になりを繰り返しながら、顔中に大量の脂汗をかいていた。

「なぜ放っておく。この者はお前の仲間ではないのか?」

 ファン・ミリアが、責めるように黒狼を見つめた。

 黒狼はしばらくの間、ただファン・ミリアを見つめ返していたが、やがて諦めたように、

「これは、我が巫女である。半身と言ってもよい。だが、手の施しようがない」

「なに?」

「こやつ自身が、負けを認めておる」

 淡々とした口調が、かえって事の重大さを感じさせた。

「この程度の異物、本来であれば拒絶できぬわけがない。私がこの娘――ティアに与えた力は、それほど脆弱なものではない」

「ティア……」

 それが娘の名前か、とファン・ミリアは思う。いつかカホカから聞いた通り、たしかに自分の名に似ている。

 そして。

 ――この黒狼は、自分の力のほとんどを彼女に譲ったのか。

 黒狼の話を聞くにつれ、ファン・ミリアはティアが何者であるかの確信を強めていく。

「私は――」

 ファン・ミリアは、瞳の力をゆるめた。汗に濡れるティアの額を、手のひらで優しく拭う。

「この者を、救いたい」

 紫水晶アメジストの瞳を持ち上げる。

「助け得る手段はないのか?」

「問題は、ふたつ」

 黒狼がファン・ミリアを見た。

「ひとつは、私がこの娘に目をつけるよりも早く、あのイグナスという男に、すでに目をつけられていたこと」

「どういう意味だ?」

「わからぬが、私とティアの関係に瑕疵きずがあったらしい。この腹の紋……これが呪詛のようなものだとして、事前に印をつけられていた、ということじゃ」

 ファン・ミリアは黒狼の話に耳を傾ける。

「もうひとつは、この娘の心の隙を突かれたこと。むしろ、こちらの方が深刻とも言える」

 その言葉の意味を探り、ファン・ミリアが黒狼をうかがうと、

「天敵じゃ」

「……天敵?」

「ティアとあの男との関係が、まさしくそれに当てはまる。蝙蝠と蛇では、相性が悪すぎる。いまこれが感じている怯えは、健全な本能に根差しておる。むしろ、あの男がいるこの場に来たこと自体、生物の行動としてはおかしい」

 話しながら、ふと、黒狼が視線を落とした。

「……筆頭……?」

 意識の混濁から覚めたのか、ティアの瞳が、ファン・ミリアを映している。

「そうだ。私がわかるか?」

 抱き上げる腕に、我知らず力が込められた。

 けれど、ティアは弱々しく顔を逸らした。覚束ない手の動きで、ファン・ミリアを押し返してくる。

「ぅ……」

 声を出さぬよう、きつく口を閉じ、手を突っ張ってファン・ミリアから逃れようとする。

「……離れ、て」

「え?」

 既視感を覚えた。前も、同じようにこの手を拒まれた。

「オレから……離れ……て……早く」

 腹の蛇が、にわかに蠢きはじめた。歯を食いしばり、耐えていたティアの口が開いた。うめき声がしだいに大きく、悲鳴へと変わっていく。

「これは……!」

 刺青だったはずの蛇が、現実のものとなって鎌首をもたげてくる。牙をのぞかせ、ファン・ミリアに噛みつこうとするのを、ラズドリアの盾が即座に反応し、弾いた。

 蛇特有のきしむような威嚇音を発しながら、その長い胴が太くなっていく。

「くっ!」

 星槍を手に、ファン・ミリアは蛇を根元から両断した。だが――

「無駄じゃ」

 黒狼の言葉を証左するように、またぞろ刺青から蛇が浮き出てくる。

「恐怖の隙を突いて、ティアの魂に食い込みはじめておる。宿主から力を得ておるゆえ、どれだけ潰そうと意味がない。かえってティアを弱らせるだけじゃ」

「あのイグナスという男を滅ぼすことができれば、ティアは助かるのか?」

「わからん。私自身、奴と向かい合ったが、まったく底が知れぬ。滔々とうとうと湧き出る泉のようなものじゃ。その無尽蔵とも思える力が、奴を不死に仕立てておる」

 黒狼はティアに視線を落としている。そのまなざしは、ファン・ミリアが知る獰猛な狼とは似ても似つかない。

「――私は、この娘にすべてを賭けておる。この娘が使えぬであれば、是非もない。私の命脈も長くはつまい。であれば、せめて我が信民たみのために一矢報いてやるくらいか」

信民たみ?」

「とうの昔に力を失った私を、飽きもせず信奉し続ける愚かな者たちがおる」

「それは――」

 訊きかけた時、黒狼が鼻に皺を寄せた。耳を立て、警戒を示す。

 ファン・ミリアもまた、背後に立つ気配を感じ取っていた。

「……隠れているつもりか?」

 振り返ることなく、ファン・ミリアが言った。

「さすが神託の乙女だ」

 声とともに、何もないはずの空間が波打つように歪んだ。鏡のように周囲の景色を映したかと思うと、イグナスが姿を現す。

 ファン・ミリアが放った光の奔流に呑み込まれ、焼けただれた皮膚が、再生をはじめていた。古い肌を鱗のように削ぎ落としながら、新たな肌がその隙間を覆う。

「こう見えて蒸風呂が好きでね。あの程度の光じゃ、俺を殺すことはできんぜ」

「不死者か……」

 ファン・ミリアは労わるようにティアを寝かせ、

「だが、時間稼ぎには十分だったようだ」

 意味ありげにイグナスに告げた。さらに、「どうした?」とファン・ミリアにしては珍しく挑発するように笑う。

「私はいま背を向けている。隙だらけの状態だぞ?」

「……」

 薄い笑みだけを残し、イグナスが剣を構えた。

 ファン・ミリアは、ゆっくりと顔を持ち上げていく。

「お前は、許さん」

 柳眉を逆立てる。

「これより、我ら聖騎士団がお前を打ち滅ぼす」

 その言葉とともに、横の壁に亀裂が走った。体当たりする恰好で、聖騎士グスタフが廊下に飛び込んでくる。手持ちの剣が閃き、イグナスの身体を袈裟に斬った。さらに逆の手を高く掲げる。手のひらから放たれた無数の光弾が、イグナスの身体を乱れ撃った。

「ぬ、ぐッ――」

 押し込まれつつ、しかし、イグナスはにたりとわらう。

「こいつが切り札か?」

 難なく持ち応えた時だった。

「いいや、ちがう」

 腑に響くほどの低い声が、上から聞こえた。天井が抜け、巨体が瓦礫とともに落ちてくる。

「――まさか……!」

 イグナスの蛇の瞳が、驚愕に見開かれた。

 分厚い紫紺のマントをはためかせ、その巨人とも呼べるほどの偉丈夫が、剣を握るイグナスの拳を掴んだ。その手もまた、イグナスの拳を覆い、まるまる押さえつけるほどの大きさがあった。

「切り札は、俺だ」

「……英雄ジルドレッドか」

 はじめて、イグナスの表情から余裕が失せた。

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