85 春宵一擲Ⅲ
「アタシはカホカ。アンタがお頭のレイニーだね」
イスラから降りたカホカが、レイニーに声をかけた。カホカはおもむろにドレスのスカートに手を入れると、金属の棒を取り出した。篭手とは別に、革ひもで結びつけておいたものだった。
「これ、ディータから。レイニーに渡してくれって」
「助かるねぇ」
「あと、サスから伝言」
「なんて?」
「アンタが死んだらギルドは俺のモンだ。だから戻って来なくてもいいぞ――だってさ」
「……あのバカ」
レイニーは嬉しそうに舌打ちをする。
「相変わらず女の喜ばせ方を知らない男だね。あのトウヘンボクは」
言いながら、レイニーが手首を返して棒を振った。いくつもの節ごとに折りたたまれていた棒が、一本の長い棍になる。
レイニーの武器――
棍の感触をたしかめながらレイニーは顔を上げた。
「そっちは? みんな仲間なのかい?」
訊くと、カホカは「まあね」とうなずき、
「この黒い塊みたいなのがイスラ。で、こっちがティア」
紹介しながら、貴公子然とした青年を示す。
「ティア?」
レイニーが、おや、という顔つきをして、それから「ああ」と気がついた声を出した。
「あんた、ティアなのかい。変装してるんだね」
疲労の色が濃いレイニーの顔に、明るい笑みが宿る。
「ずいぶん似合ってるじゃないか」
褒めると、ティアがレイニーを見た。化粧をして男に見えるよう仕上げているが、間違いない。ティア本人だ。
「美人は美男にも通じるもんかね」
感心するレイニーに対し、「そう……」と、ティアはまるで上の空だった。他事に気を取られているのはわかるが、思い詰めているというか、張り詰めているというか、とにかく緊張した面持ちを作っている。
そのティアが、
「イスラ……」
と、黒狼の名を呼んだ。
「イスラは、見えているのか?」
「見えておる」
即答したイスラは、琥珀色の瞳をイグナスへと向けている。その瞳は厳しく、イグナスに対する一切の警戒を解いてはいなかった。
「あの者、お前の連れであった男であろう」
「知っていたのか?」
「いや、知らなかった、と言った方が正しい。私でも見抜くことができなかった」
「あれは……一体なんなんだ……」
ティアの疑問は、この一言に尽きる。
全身から汗が噴き出るようだった。
倒れたイグナスの身体から、黒い何かが発散されている。実際の瞳に映り込む類のものではない。
それでも、見えるのだ。
暗く、黒く……イグナスがまとう暗黒の霧が。
なぜ、これほどの闇をタオ=シフルは見抜けなかったのだろう。
ティアはしたたる額の汗を乱暴に拭った。
足が震えている。
いや、足だけではない。全身が
「オレは……恐れているのか」
これが
震える手に視線を落とした。そのまま、
「――カホカ」
呼ぶと、イスラの尻尾を握っていたカホカが、「ん?」と顔を上げた。
「レイニーを連れて逃げられるか?」
ティアが訊くと、「逃げるつもりはないよ」と、レイニーが口を挟んだ。
「あいつは、蛇のギルドの頭さ。向こうから出てくるなんて、もう二度とないかもしれない。千載一遇のチャンスなんだ。獲物を前に逃げることはできないよ」
「……イグナスが、蛇のギルドの頭?」
聞き捨てならない言葉に、ティアは眉根を寄せた。
信じられない気持ちが強い。
――こんな偶然が、あり得るのか?
驚いた一方で、もしかして、とも思わずにはいられない。
それほどの
不可解さが、ますます募っていく。
「……安心しろ」
廊下に、イグナスの声が響いた。その場にいる者たちの視線が集まる。
「イグナス」
ティアは茫然とつぶやいた。
――あれは、本当にイグナスなのか。
顔は、まったく同じだ。
あの気さくな傭兵が、なぜ蛇のギルドの頭で、闇をまとう者であるのか。
同時に、いま目の当たりにしている男への恐怖。
いくつもの事実が頭の中でまとまらず、ぐるぐると回っている。ひとつひとつがバラバラの状態で、一向につながらず、腑に落ちてこない。
考えがまとまらないうちに、イグナスが起き上がってきた。
「はじめから、逃げるつもりはないぜ。――逃がすつもりもな」
噛みちぎられた喉から、黒い霧状の気体が噴出し、傷が目に見えてちいさくなっていく。
やがて傷口が完全に塞がると、その霧の噴出も止まった。
イグナスは破れて穴だらけになった自分の服を見下ろすと、
「ひでえもんだ」
愚痴っぽい口調で上衣を引き裂いた。あっさり捨て去ると、剣を背負いなおす。筋骨隆々としてたくましい肉体が露わになった。傭兵として鍛え抜かれたものか、それとも人外の者として生来のものか、一分の
「さて、行ってみるとするか」
イグナスが、剣を肩に当てたまま、脱力した。
口の端を上げたまま、ゆらり、と前傾に踏み込む姿勢を取る。
「気をつけなよ」
レイニーが、棍を構えた。
「あのイグナスという男、尋常じゃなく
言った直後、イグナスが床を蹴った。長い距離を一瞬で詰めてくる。
イスラとカホカ、そしてレイニーはそれぞれ後ろに跳んで間合いを取った。
その中で、ティアだけが動けずに立っていた。足が震えている。
「待て、イグナス!」
叫んだ直後、ティアは眼を見張った。
「さっきから、お前さんだけ様子がおかしいな。俺を知っているのかい?」
目に前に、イグナスが立っている。
「イグナス……」
ティアは動揺を隠せぬまま、
「オレは……」
胸に去来する想いに、なぜか言葉が詰まった。
――恐怖。
それもある。
でも、それだけではなかった。
ティアは、タオ=シフルとしての短い生涯の最後に、イグナスと故郷への旅をした。ともに過ごした時間はけっして長くはなかったが、不安で押しつぶされそうだった自分を、ずいぶんと救ってもらった。
その想いは今もティアの胸に残り続けている。
「オレが、わからないか?」
震える声でイグナスを見上げた。
いま感じている恐怖が半分。かつてのイグナスに対する親しみが半分。
「オレを、よく見てくれ」
だが、このイグナスという男に、どう伝えればいいのだろう。
自分が元タオ=シフルであることを伝えるべきか、否か。
「ティア、あんた……」
レイニーが、ふたりのやり取りを唖然として見つめる。
「そいつは、化け物だよ! 蛇の頭だと言ったろう!」
声を荒げるレイニーを、ティアは見返した。
「……化け物なら、オレも化け物かもしれない」
ぽつりとこぼすと、「ティアか」と、イグナスの声が聞こえた。
名を呼ばれ、ティアがゆっくりと顔を上げた。すると。
「……わかるさ。お前さんが誰かくらいな」
剣を肩に乗せたまま、イグナスが答えた。屈託のない、人懐っこい笑みだった。そうやって笑いながら無精髭をなでさする仕草を、ティアは何度も眼にしていた。
「――イグナス」
驚きとともに、ティアの顔にわずかな希望がよぎる。イグナスが機嫌よさげに、くんくんと鼻を嗅ぎ鳴らした。
「男みたいにしてるが、極上の女だな。匂いでわかる。新鮮な甘いミルクに
表情を強張らせるティアに、「クク」とイグナスは笑いかけ、
「おいおい、冗談だ。そんな怖い顔をするもんじゃないぜ」
がっしりとして節くれ立つ手を、こちらに差し出してくる。ティアの頭を一掴みにできそうなほどの大きな手だった。同時に、銀の瞳の奥から、妖しい光が浮かび上がってくる。
ティアを凌駕し、覆いつくすような闇が近づいてくる。
「ティア、離れな!」
業を煮やしたレイニーが声高に叫んだ。だが、ティアは動けない。目の前の男が危険だとわかっているにも関わらず、影を縫われたように、その場を離れることができなくなっていた。
「怯えているな。安心しろよ」
イグナスが、せかすように手を振った。
「握手だ。できないのか?」
「……」
ティアは
「……お前は、イグナスなのか?」
緊張し、かすれた声で尋ねる。
「多分な」
「なぜ、イグナスが蛇のギルドの頭領などをしている?」
「さて、なぜかな」
イグナスが、どこか遠くを見るようなまなざしを作った。
「人はすぐ己の闇に理由を求める。『これは己が生み出したものではない』と。そう思わないか?」
「……どういう意味だ?」
「お前さんは、どうやら闇を覗き、魅入られた者らしいが」
言ってから、イグナスは黒狼を見た。
警戒するイスラを軽く笑い飛ばすように、
「出会いは神の御業だと人は言う。――であれば、引き寄せる力であるところの闇もまた、隠された神の奇跡と言えはしないか」
自分自身に問いかけるように言うと、突然、イグナスは握手をしたティアの手を高く引き上げた。ティアは抵抗を試みるも、震える足に力は入らず、簡単に持ち上げられ、つま先立ちになった。
身体の前後を回され、イグナスに寄せられる。
「黙って見てりゃ、何してんだ!」
見かねたカホカが飛び出しかけたものの、その足がぴたりと止まった。
いつの間にか、カホカの首筋にイグナスの剣が突きつけられている。
「まったく、
イグナスが余裕たっぷりの笑みを浮かべる。
「てめぇ……!」
歯を食いしばりながら、それでもカホカは動けずにいる。
「おいおい、嬢ちゃんまで怯えてちゃ世話ねえな」
イグナスは剣を突きつけたまま、
「さて、話の続きだが」
その双眸が、蛇の瞳に変じた。
「……闇と闇は互いに引き寄せ合う。――こんな感じにな」
剣の柄を握ったまま、イグナスの指がティアの顎を掴み取った。
「そして、重なった闇はどうなると思う?」
カホカを、イスラを、そしてレイニーを
ティアの首がぎりぎりと悲鳴を上げた。なんとかイグナスから逃れようとするも、恐怖に捉われた身体は思うように動いてはくれなかった。
「闇と闇は、共食いをはじめる。より深い闇を求めて」
自分の唇をティアの唇に重ねる。
二股に別れたイグナスの長い舌が、ティアの舌に巻きつき、顔を上向かせた。強引に喉をこじ開け、
蛇と蝙蝠。
捕食者と被食者。
捕えた獲物を離さぬ、生物の本能がそこにはあった。
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