78 嵐の中でⅧ

 コツリと、ファン・ミリアの足に何かが当たった。

 晩餐室の大窓には、垂れた雨水が波模様を描いている。

 三十名ほどが長卓を囲っていた。いくつもの枝を伸ばしたような燭台には蝋燭が飾り立てられ、宮廷料理人が腕をふるった食事の数々を照らしている。

 出席者は宰相府に所属し、ふるくから続く家柄を持つ上級貴族ばかりである。

 ――国の貴顕者たち……。

 それも、早くからウラスロの王位継承を支持する者たち。

 列席しているネオン=アービシュラルもまた同様のはずだ。

 彼がどのような思惑でウラスロを支持しているか、ファン・ミリアには知る由もない。ウラスロ以外に王になり得る人物がいないから、という消極的な理由からかもしれないし、そうでないかもしれない。

 現王のデナトリウスが存命中のため、表立って支持を明らかにしない者もいるが、ファン・ミリアの知る限り、今夜の出席者のみならず、ウラスロの王位継承に反対する者はいない。

 同じ王家に名を連ねる者でさえも。

「食事が合いませんか?」

 左前に座る貴婦人から、ファン・ミリアは声をかけられた。

「そのようなことは――」

 ファン・ミリアはあわてて首を振り、

「あまり、このような豪華な食事をいただく機会がなかったものですから」

 語尾を弱くさせて言うと、「そうですか」と、貴婦人は静かに微笑んだ。

 婦人の名を、ニネヴェという。

 ニネヴェ・ナミ・エルテーシュ=ディーネ=ムラビア。デナトリウスの長女であり、ウラスロの姉に当たる女性である。

 正式な晩餐会において、主人と女主人を置くことが基本的な作法とされている。

 その女主人役がニネヴェだった。

「聖女殿の奥ゆかしいことよ」

 さらにニネヴェの右隣、ファン・ミリアと向かい合って座るネオンが言った。

 そして――。

「ファン・ミリアは、こういった食事にも慣れておく必要がある」

 上機嫌に言ったのは東ムラビア王国の第一王子、ウラスロである。

「……はい」

 かろうじて笑顔を保ちながら、ファン・ミリアはちいさく返事をした。

 会食がはじまる前、晩餐室の扉から、ファン・ミリアはウラスロのエスコートを受けた。手を取られ、用意されたファン・ミリアの席は、ウラスロの隣だった。

 予想していなかったわけではないが、それでもウラスロのすぐ側に身を置くのは、不快を感じずにはいられない。

「なに、ファン・ミリアの不足分は余が引き受けよう」

 ぎこちなく食事を口に運ぶファン・ミリアが、ウラスロには楽しくて仕方がないらしい。

 鷹揚な笑みを浮かべるウラスロに、「それは安心ですな」と、周囲の者がもてはやそうとする。

 不快なのはそれだけではない。

 また、ファン・ミリアの足に何かが当たった。

「殿下……」

 ウラスロにだけ聞こえるよう言いかけた言葉を、ファン・ミリアは呑み込んだ。

「どうした? 緊張が過ぎて気分が優れぬか?」

 ワインの杯を傾けたウラスロが、白々しく訊いてくる。

「いえ」とファン・ミリアは目を伏せた。

 テーブルクロスに隠れた長卓の下で、ウラスロが、靴の先でファン・ミリアの足をつついてくる。

 意味深に、そして、困惑するファン・ミリアの表情を楽しむように。

 慣れない作法に集中したいファン・ミリアが銀器を取り落としそうになるのも、こうしてウラスロがいちいちファン・ミリアに触れようとしてくるからだ。

「今宵の殿下は、実に楽しそうですな」

 ネオンから話しかけられ、ウラスロの足が引いていく。

「わかるか?」

 ウラスロが認めると、別の離れた席から声がかかった。

「殿下の御心が浮き立っておられますな」

「余とて童心に返りたい時もある」

 ウラスロが冗談めかして言うと、周囲からどっと笑いが起こった。何がおかしいのかさっぱり理解できないファン・ミリアだったが、合わせて笑みを浮かべるしかない。

「殿下は、この国の行く末を案じるお立場であらせられる」

「まさに」

 そこで、ウラスロはやや憂鬱そうな顔を作った。

「長きにわたる戦乱により、国は疲弊している。餓えて苦しむ民も多いと聞く」

 ウラスロがつぶやくように言うと、「仰る通りです」と誰かが相槌を打った。

「王都はまだよい。病に臥せっておられるとはいえ、陛下のご威光が届いている」

「殿下の眼差しは、王都の外にも向いておられるようだ」

 ネオンが言うと、「当然だ」とウラスロはしたり顔でうなずく。

「ゲーケルンだけが国ではない。王都だけを見て、東ムラビアを知った気になるのは浅慮というものだ。余は、民はすべて等しく見なければ、と常々思っている」

さらに別の者が言った。

「殿下ほど下々の心にしき御方は他におりますまい。――私も殿下を見習わなければと思うのですが、やはり民草の心を知るのは難しい」

 その言葉に、室の誰もが大きくうなずいた。

 ――何が!

 ファン・ミリアは胸のうちで叫ばずにはいられない。

 シフルでこの非道な王子が行ったことに、民への慈悲があったというのか。

 引きつりそうになる顔を、やっとの思いで笑顔に変える。

 ――ここにいる者たちも、そうだ。

 民が貧しく、餓えているのなら、この豪華な食事はなんだというのか。食べきれぬほどの食事を並べながら、誰もそれを指摘する者はいない。

 ――そして、この場にいる私も。

 同時に、ファン・ミリアは自身さえもが不愉快でならなかった。

 無意味であるばかりか、害悪でさえある美辞麗句に、笑顔を浮かべて追従している自分。

 醜く笑う自分が……。

 ファン・ミリアが自己嫌悪に陥っていると、

「今宵、余がファン・ミリアを是非にと誘ったのも、その見聞を聞くために他ならぬ」

「――と、仰いますと?」

 ネオンが興味深そうな顔を作る。

 ウラスロが、ファン・ミリアを見た。

「ファン・ミリア、其方そなたは元々、農民の出だと聞いているが」

「はい」

「余が民に対して分け隔てない心を持つ者であることを、自らの行動でもって示さねばならん」

「……民も、それを望んでいることでしょう」

 他の者に倣い、ファン・ミリアがなんとか返すと、

「是非とも余に其方の見聞を教えてもらいたい」

「……御意」

「そこで、余は考えた」

 ウラスロが、不気味な笑みを浮かべる。ファン・ミリアの胸に不安がよぎった。

「シフルを、余と共に治めてみてはどうだろう」

「……」

 ファン・ミリアの顔が、みるみる青褪あおざめていく。

 笑顔を作ることさえ忘れ、ファン・ミリアが隣のウラスロを凝視していると、、

「其方が望むほど、シフルは魅力のある土地ではあるまい。余は、神託の乙女たる其方に、更なる重要な地を、とも考えている。具体的な選別は調整が必要ゆえ、いまここで軽々しく伝えることはできぬが、反対する者はすくないだろう。いや、反対者の意見を封殺するためにも、余の手ほどきが必要ではないか、と思ったまでのこと」

 貴族たちが、お互いに顔を見合わせている。彼らは、ファン・ミリアがシフルを望んでいることを知っている。が、それ以外の領地については何も聞かされてはいない。

 当然である。ファン・ミリアもそんなことを一言も口にした覚えはない。

 望んでさえいない。

「……私は、それ以上のものを望んではおりません」

 なんとかウラスロの気が変わるよう、ファン・ミリアは必死で考える。

 もしウラスロがシフルの統治に関わったらどうなるか。

 白絹をまとうファン・ミリアの手が、震えた。

 ――これでは、逆効果だ。

 主を失った憐れな民を慰撫いぶすることがファン・ミリアの目的なのだ。それなのに、ファン・ミリアがシフルを手にした結果、苛政かせいを呼び込んでは意味がない。

 自分の行動が、最悪の状況を作り出そうとしている。

 ――なんとかしなければ。

 焦るファン・ミリアをよそに、ウラスロが出席者たちに告げた。

「心配せずともよい。卿らの利を損なうようなことはせぬ。余はただ、聖女たるファン・ミリアが余の片腕となってくれることを望んでいるだけだ」

「であれば、妙案ですな」

 周囲から、無責任な賛意が上がりはじめる。自分たちの権益さえ確保できれば、他事には興味のない連中である。ファン・ミリアの懊悩など露ほども思ってはいないのだろう。

「――私は……」

 言葉を絞り出そうとすればするほど、頭が動かなくなる。

 ドレスのスカートを掴む手が震え、じっとりと冷たい汗が溜まった。

「いますぐに答えを出せとは言わぬ」

 ウラスロが、ファン・ミリアの動揺を楽しむように告げてくる。

「しかし、ファン・ミリアよ。其方は知っておかねばならん。領地を得るということは、個人に留まる問題ではない。シフルのためにも、其方には今後もこういった会には顔を出すことを命じるぞ」

 ファン・ミリアは視界が暗く閉ざされていく感覚を覚えた。

 ウラスロに、シフルを人質に取られたようなものである。

「ですが、ファン・ミリア殿には聖騎士団の任務がありましょう」

 疑問が口をついて出た、といった様子のネオンに「もっともだ」とウラスロはうなずいた。

「ファン・ミリアにおいては、聖騎士団の任務が優先する。余に異論はない」

 ネオンが黙って頭を下げたことで、会話は次の話題へと移っていった。

 貴族のひとりが、身振り手振りを使って話しはじめる。

 室内にどっと笑い声が上がった。

 ファン・ミリアはただ、茫然と眺めることしかできない。

 会話が、頭に入ってこない。

 それ以降も足をつつかれる感覚はあったが、ファン・ミリアが気がついた頃には晩餐会は終わりを告げていた。

 続々と席を立つ出席者たちのなかで、ようやく我に返ったファン・ミリアが椅子から立ち上がりかけると、

「ファン・ミリア」

 ウラスロから、二の腕を掴まれた。

「余は、まだ酔いが足らぬ。其方にはまだこの室に居残ってもらいたい」

「ですが……」

 ファン・ミリアは力のない瞳で口ごもる。

 ――これ以上、この男と話したくない。

 一瞬、ファン・ミリアの頭に、この手を乱暴に振り払ったらどうなるか、という考えがよぎった。が、よぎったものの、ここでウラスロへの反発を明らかにしたところで得られるものは何もない。

 どう断ればいいかわからず、ファン・ミリアがただ顔をうつむかせていると、ふたりの間に誰かが入ってきた。

「僭越ながら、殿下のお耳に入れたい儀がございます」

 抑えた声音にファン・ミリアが顔を上げると、そこにネオンが立っていた。

「何だ?」

 ウラスロが不快そうな表情を見せるも、ネオンは特に怯んだ様子もなく、

「火急の件でございます。――人払いを」

 その言葉にウラスロも只事ではないと思ったのか、ファン・ミリアを掴む手が離れていく。

 そこでファン・ミリアは気がついた。ネオンが片方の手を後ろに、こちらにだけ見えるような所作を取っている。

 その手が、室から出ていくよう示している。

 ファン・ミリアは自分を逃がそうとしてくれているネオンの意図を悟り、

 ――アービシュラル元帥、ありがとうございます。

 心の中で礼を言って立ち上がった。

「失礼いたします」

 ウラスロが、もの言いたげな表情を作っている。ファン・ミリアはそれに気づかぬフリをして、逃げるように晩餐室を出た。

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