63 完全なる血脈

 扉を閉じると、店内の喧噪が遠ざかった。

 宵の口の空は、昨日までの嵐が嘘のように、数多の星々が輝きはじめている。

 足早に中庭を回り、扉の前で立ちどまる。軽く深呼吸をしてから扉を叩いた。

「クラウです」

 クラウディア――クラウが自分の名を告げると、すぐに「お入り」という声が返ってきた。

 リュニオスハートの花街である。

 赤色の調度で統一された部屋の長椅子に、ひとりの老婆が座っていた。やや前かがみに両手で杖をついている。いつもの見慣れた姿勢だった。というより、この老婆が別の姿勢を取っているところを、クラウはついぞ見たためしがない。

 マイヨール=ツェン。

 古い、とても古い老樹を思わせる、リュニオスハートにおけるルーシ人の長老であり、群を抜いて最高齢の彼女は、他の街の長老たちからも一目置かれる存在だった。

「イヨ婆」

 クラウの顔には、かすかに緊張が浮かんでいる。

「イヨ婆に会いたいっていうお客さんが来てるんだけど……それも、ふたり」 

「ルーシ人かえ?」

「ひとりは、多分。もうひとりはフードで顔が見えなかったけど、どちらも女ね」

「ルーシ人としか会わないよ」

 口ぶりは実にそっけない。ルーシ人の長老であるマイヨールは、通常、同族としか会わない。

 それはもちろんクラウも承知していた。けれど、何事にも例外はあるものだ。他ならないクラウ自身がルーシ人ではないように。

「私もそう言ったさ。なのにあちらさん、イヨ婆に会えるのを信じて疑ってないっていうか、『シエラザードが来た』って言えばわかるからって言伝を頼まれて」

 何気なくクラウが伝えると、マイヨールのまとう雰囲気が一変した。

「何じゃと?」

 木のうろのような深い眼孔に、驚きの光が灯ったようだった。

 クラウもまたマイヨールの反応に驚きながら、

「だから、シエラザードが――」

「お通し」

「え?」

「早くおし」

「わ、わかったよ」

 しゃがれ声で怒鳴るように急かされ、クラウはあわてて部屋を出た。

「なんなのさ」

 不満げにつぶやくも、マイヨールの様子は尋常ではなかった。

ひょうでも降るのかね」

 嵐が去ったばかりだというのに、天変地異の前触れだろうか。

 ――まったく、洗濯物が乾きやしない。

 そう言えば、雹って濡れるんだっけ?

 つまらないことを考えながら、クラウが踵を返した時だった。

「許可は取ってもらえたようね」

 背後から不意に声をかけられ、クラウは跳び上がった。

 振り返った目の前に、これから呼びに行こうとした、そのふたりが立っていた。

 声の主は、フードをかぶっているため顔を見ることができなかった。もう一方の女も外套に全身を覆ってはいるものの、こちらはフードをかぶってはおらず、切りそろえた黒髪に、深い蒼の瞳を持っていた。『シエラザードが来た』という伝言をクラウに伝えさせたのは、このルーシ人らしき女のほうだ。

 妙齢である。

 静謐な表情に、成熟した女の色香が漂っている。

 けれども彼女は、その艶やかさとは不釣り合いなほどに大振りの剣を背負っていた。クラウの知る一般的な剣とは鞘の形状が異なり、剣身の中あたりが節のように広く、そこからしぼむように剣先にむかって収斂している。

「ちょっと、アンタたち勝手に――」

 文句を言いかけたクラウに、「結果は同じじゃない」と、フードをかぶったほうの女が、明るい声音でクラウの肩を叩いた。

「これはお礼。店の寄付にでもしておいて」 

 そう言って心付けチップらしい硬貨をクラウに握らせてくる。

「お待ちよ、こんなものもらったって」

「通して頂戴ね」

 表情を険しくさせるクラウに構わず、ふたりはさっさと部屋の中へ入っていってしまう。

「……なんなのさ」

 どうすることもできず、クラウは閉められた扉の前に立ちつくした。押しの強い客ならこれまで何度も相手にしてきたが、ここまではぐらかされた気分になったのははじめてだ。

「ていうか、これ」

 クラウは握らされた硬貨をまじまじと見つめた。

「ファーレン金貨……」

 薄闇に黄金の光を弾くそれは、現在の大陸で流通する硬貨のなかで、もっとも価値の高いとされる金貨だった。


 ◇


「久しぶりですね、イヨ」

 まず口を開いたのは、ルーシ人の女だった。深い海を思わせる瞳が、マイヨールへと注がれている。

「ご無沙汰しております。シエラザード様」

 マイヨールが、恭しい口調で返した。

「貴女様と最後にお会いしたのは、もう五十年以上も昔のことでしょうに、まったくお変わりになられない」

 いや、五十年どころか、マイヨールが生まれるはるか以前から、このシエラザードと呼ばれた女は同じ若さを保っている。

 ルーシ人のなかでも彼女は伝説上の、半ば神格化された存在であり、ルーシ人そのものの発祥にさえ関わっていると言われていた。マイヨールでさえ、彼女の全貌を知っているわけではない。

「貴女様のような方が、なぜこのような場所に?」

「人を探しています」

 シエラザードは瞬きひとつすることなくマイヨールを見つめ返す。

「と、おっしゃいますと?」

「今から伝える言葉を、最近になって聞いたことはあるかしら?」

 そう言ったのは、シエラザードの隣に座る女だった。彼女の手が、フードを無造作にめくり上げる。

「紫の魔女。イスラ。そして、ケセド」

 露わになった顔は、まだ二十歳前ほどの娘だ。

 娘は明らかにルーシ人ではなかった。髪の色は金を基調としながらところどころに黒い毛が混じり、その勝気そうな瞳には、見る者の角度によって変化する六色の虹彩が輝いている。

 マイヨールにとって、この娘と会うのははじめてである。しかしながらこの特徴的すぎる容姿を持つ娘を、マイヨールは知っていた。

 いや、むしろ――この大陸において、その名を一度でも聞いたことがない者がいようか。

「貴女は――」

 マイヨールがその名を言いかけたのを、娘は自分の唇に指を当てた。

「申し訳ないけれど、いまはただのリーザ。そういうことにしておいてもらえると助かるわ」

「……承知しました」

 マイヨールとしてはそう答えざる負えない。浮世の権威には一切の興味を持たない彼女だったが、シエラザードと同行している以上、非礼な態度を取るわけにはいかない。 

「さて、話は戻るけど」

 六色の瞳を持つ娘、リーザが話の先を促してくる。

 マイヨールはうなずきつつも、

「ですが……」

 ためらいがちにシエラザードをうかがう。すると。

「心配には及びません。私とリーザの関係は古い盟約に基づいています」

 言われ、「わかりました」と、マイヨールはリーザに視線を戻した。

「イスラという名でしたら心当たりがありまする」

 ぴくりと、リーザの肩が反応した。

「しかし、人ではありません。黒狼でした。いや、神と言ったほうがよろしゅうございますな」

「詳しく聞かせてもらえるかしら?」

 マイヨールはやはり、シエラザードをちらりと一瞥した。

「私からもお願いします」

 重ねて請われ、マイヨールは息を吐き、それから話しはじめた。イスラについてだけでなく、ティアと、そして玄孫であるカホカのことも包み隠さず伝えた。


 半刻後、マイヨールがすべてを語り、いくつかの質問に答えると、

「ありがとう、よくわかったわ」

 リーザが礼を言い、席を立ち上がりながら、

「やはり、震源はゲーケルンのようね」

「そのようです」

 同じく立ち上がったシエラザードが無表情に認めた。

「何が起こっているのです?」

 早々に部屋を出ていこうとするふたりに、マイヨールが声をかけると、

「……ときが迫っています」

 振り返ったシエラザードが静かな声音で告げた。

「私たちの求めるイスラがその神であるかはわかりません。ですが、すくなくともこれまでの兆しとはちがうようだ、ということはわかりました。あなたがたルーシ人にも変化が訪れるかもしれません」

「おお、それでは――」

 思わず昂奮した声をあげるマイヨールを、「早計は禁物です」と、シエラザードが遮る。

「変化は徐々に、そして唐突に訪れるもの。備えなさい、イヨ。すべてのルーシ人のために」

 そう言い残し、シエラザードはリーザとともに夜のなかへと消えていった。

 残されたマイヨールはひとり、同じ姿勢を保ち続けていた。

 杖を掴む手が、かすかに震えている。

「……完全なる血脈メグゼリック・ベルボナール

 リーザを指しての言葉だった。この大陸において、もっとも古く、もっとも尊いとされるふたつの家系が、長い歴史の果てにたどり着いた、奇跡の血脈。

 その彼女が、ルーシ人の守護者とも呼ばれるシエラザードと行動を共にしている。

 ――歴史が動きはじめた。

 ルーシ人だけではない。

 大陸全土を巻き込むほどの大きな動きが。

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