62 ティアの場合

「ティアも浴びてきたら?」

 そうカホカに促され、ティアも水浴をすることにした。

 カホカから聞かされていたとおり、部屋の中に井戸があった。チュニックを頭から脱ぎ、簡単に丸めて隅に置く。すぐ近くの壁際には、破壊された木桶の破片が寄せて片づけてあった。

「……なんで桶が壊れてるんだ?」

 裸のまま、とりあえず椅子に座って考える。

 これでは水を浴びることができない。

 ためしに滑車の綱を引いてみた。井戸はごく単純な造りで、滑車につないだ縄は、一方で水を掬い上げるための桶に結びつけてある。

 このため、水を掬うたびに縄をほどき、結びを繰り返せば桶を確保できたことになるが、どう考えても非効率に過ぎる。

「仕方ない」

 つぶやくと、ティアの身体から数匹の蝙蝠が分離した。桶を綱からほどき、蝙蝠たちに背負わせると、井戸から水を掬って持ち上げてきた。

 蝙蝠たちはきいきいと鳴き声を上げながら、ふらふらと苦しそうにティアの頭の上まで飛ぶと、一気に桶を返した。

 ティアは頭から水をかぶる。水の冷たさは、特に感じなかった。

「ふう……」

 頭を振りながら、これは便利だな、と思った。

 何より好ましいのは、桶を運ぶ蝙蝠の必死さと愛苦しさである。

 健気でたいへん良い。

 蝙蝠たちが、すぐに二杯目を汲んで上ってくる。

 ティアは部屋を見回し、人目がないのを確認すると、

「……がんばれ…………がんばれ……」

 ぽそぽそと小声で、蝙蝠たちに声援を送った。もう一匹か二匹を増やせば簡単に運ぶことができそうだが、あえてそうしない。してはならない。余裕で運ばれてもぜんぜん楽しくない。

 今度の水はかぶらず、床に置いて布を湿らせた。身体を拭きはじめる。

 ――バディスが、起きない。

 そろそろ目を覚ましていい頃合いのはずだった。吸血鬼の本能にちかい部分で理解しているため、なぜ、と訊かれれば、なんとなく、という回答しかできないが、しかしその一方で、バディスは起きない――今のままでは起きることができない、という気がしていた。

 何かが、足りないのだ。

 自分の場合はどうだったかと考えてみる。

 まずイスラから呼びかけを受け、眼を覚ました。それから自分が吸血鬼となり、イスラからの力の流れを感じた。

「呼びかけが足りないのか……」

 そう思ってカホカが水浴をしている間、眠っているバディスに何度も呼びかけてみたが、特に反応はないようだった。

 自分の力がバディスに流れ込んでいく感覚もない。

 そのあたりの細かい仕組みがどうなっているかは、さすがにイスラに訊いてみなければわからない。

 いったいイスラはどこで、何をしているのか?

 他にも、訊きたいことはあった。

 ――ウル・エピテスの、銀髪の化け物。

 あれはいったい、何だったのか。

 仕留めることはできたが、なぜ、あんな化け物が王城に巣くっていたのか。

 帰って来ないイスラが心配といえば心配だが、無事だということだけはわかっている。

 なぜなら、いまでさえ、イスラから闇の力が自分に流れ込んでくるのがわかるからだった。万が一、イスラにもしものことがあれば、自分の身に変調が訪れるのは明らかである。

 自分の存在がイスラに大きく依存していることを、ティアは知っている。

 ふぅ、と溜息をつき、天井を振り仰いだ。

 見ると、天井のひびや石組みの隙間に蝙蝠たちが足をかけ、逆さになってこちらを見つめ返してくる。

「……拭いてみる?」

 ティアが手に持った布を蝙蝠たちに示すと、きいきいと鳴き声を上げながら、こちらに降りて来た。布を手渡すように蝙蝠たちにくわえさせ、自分の髪を背中から前に持ってくる。

 蝙蝠たちが、ティアの背中を拭きはじめた。

 膝の腕で頬杖をつき、ぼんやりと、見るともなしに壁を見る。

 ――このままではいけない。

 何もかもが、中途半端になってしまっている。

 人である自分。吸血鬼である自分。

 血を飲む、ということ。

 ウラスロに対する復讐。

 王都に来たのは、何かを知り、そして得るためだったはずだ。

 自分の曖昧な態度がそのまま、人として、吸血鬼としての在り方を迷わせ、血を飲むことをためらわせ、バディスを人ならぬ道に誘い込んでしまった。

 ティアの意図がどうであれ、引き起こしてしまった結果は、ただの吸血鬼と何ら変わるところがない。

 焦りが、じりじりと胸を焼くようだった。

 たまらず桶を掴み、ティアは頭から水をかぶった。水がかかるのを嫌がるように、蝙蝠たちがティアの頭上を旋回する。

 水は、冷たさを感じさせない。

 ――早くしなければ。

 自分の道を、自分がなすべきことを、見据えなければ。

 苦しい苛立ちが、そのままティアの身体を貫き、足から地面の水につたわった。バチリ、バチリ、と黒い電光が迸り、痺れる力が床に置いた桶に触れる。

 瞬間、桶が爆発した。

 ティアは無言で立ち上がると、床に散乱した桶を静かに見渡した。

「……やってしまった」

 ぽつりとつぶやいた。

 つい力が漏れてしまった。

 仕方ない、後で謝ろう――そう思って破片を集め、壁際の、もともと壊れていた桶の破片とまとめる。

 どうすることもできないので、部屋を出ようと服に手を伸ばしかけた時だった。

 ガチャリとドアが開いた。

「くそ、ひでぇことをしやがる……」

 ぶつくさと文句を言いながら入ってきたのは、ディータだった。裸のまま、腰に布を巻いただけの恰好で、木桶を脇に抱えている。

 そのディータと、服を拾いかけたティアとの目がぶつかった。

 ディータが一瞬、ぽかんとした表情を作り、

「う……おっ!」

 あわてて後ろを振り向いた。

「すまねぇ、入ってたのか! すまねぇ!」

 こちらに背中を見せたまま、平謝りに謝ってくる。ディータが急いで部屋から出て行こうとするのを、

「別に構わない。もう出るところだから。――見られて困るものでもないし」

 ティアは身体の水気を切りながら、ディータに声をかけた。

「いや、こ、困るもんだろう、普通?」

 こちらに背を向けたまま、上擦った声でディータが訊いてくる。

「なぜ?」

 見ると、巨漢だけあって、ディータの背中は大きい。自分もあのぐらいの体格だったら、もっと力が出るのだろうか、なんてことを考えていると、

「なぜっつーか……普通、女は裸を見られたら、キャーとか、イヤーとか、言うもんだろう?」

 普通の女なら、そうなのだろう。

 普通の女なら、である。

 しかし、ティアは普通の女には該当しないし、ディータがわざと入ってきたのではないくらい、反応を見ればわかる。必要以上に自分の裸をジロジロと見られたり、触れられたりするのは勘弁してもらいたいが、ディータがそれをするとは思えない。

「目に毒なら、出ていってもらってかまわないが」

 ティアとしては何の気なしに言ったつもりだった。

 だが、こう言われてしまえば、ディータとしては出るに出られない。出ていけば、ティアには魅力がないとディータが認めてしまったことになる。

 さすがに恩人でもあり、年頃の乙女心を踏みにじるわけにはいかない。

 が、しかし、である。

 ――なんなんだ?

 ディータは、わけがわからない。

 ――誘ってんのか?

 ティアの年齢をディータは知らないが、少女とはいえ立派な女である。ティアぐらいの年頃で結婚している女などいくらでもいる。

 そんな彼女が裸で、ディータと同じ部屋にいることを許しているのなら、

 ――これはもう、アレをああしろってことじゃねぇか。

 という勘違いをしてしまうのが男のさがである。

 ちなみにディータも独身だった。

 ティアは肝も座っているし、見てくれも悪くない。いや、悪くないどころではない。人とは思えぬ美しさを持っている。ギルド内では硬派を通してるディータだったが、女に興味がないわけはない。こっそり王都の娼館で女としとねを共にすることもある。

 それこそティアが人ではないのは昨夜、翼を生やして空を飛んだことからも想像がつくが、だからなんだと思っている。人だろうが化け物だろうが恩人は恩人だ。自分たちに危害を加える存在ではないのはわかりきっている。

 だからこうなってくると、据え膳喰わねば男の恥、清濁併せ呑んでこそ男、という思いがムクムクと鎌首をもたげてくる。

 ――いいだろう、望むところじゃねえか!

 ディータは肚を決め、

「おんどりゃぁ!」

 満を持して振り返ると――。

 そこには誰もいなかった。


 ◇


 すでにティアは服を着て部屋を出ていた。

 ――呼びかけの問題でないのなら、なんだ……?

 バディスのことを考えながら廊下を歩いていると、

「くそったれ! これじゃあ水が掬えねえだろうがぁ!」

 背後から、ディータの絶叫が聞こえてきた。

「……ごめん」

 謝りながら、ティアは早歩きで立ち去った。

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