55 覚悟

 一所にかたまっていた黒い霧――『城へと続く深い森バール・オズ・ミィ・エルドゥ』が四散していく。

 ティアは夜空を見上げた。

 ぽつり、ぽつりと、降り出した雨が、ティアの顔に落ちてくる。

「降ってきたか……」

 視線を足元に転じた。地に臥した銀髪の化け物――そのからだが、黒い泥のように崩れ、土の上に広がっていく。はじめ、泥は煮立ったようにボコボコと気泡を作っていたが、すぐに鎮まると、やがて黒色を失い、本当の泥と見分けがつかないくらいになった。

 化け物が、この世から消滅した。

 遺された従者風の衣裳だけが、化け物の存在を証明しているようだ。

 ――いつか、自分もこうなる。

 一抹の寂寞さびしさを覚えた。

 そんな自分の弱さを誤魔化すように、乱暴に口元をぬぐう。

「服もずいぶんと汚れてしまった」

 つぶやいた時、庭先から人の気配を感じた。

 素早く気配の元をたどると、夜着をまとった貴族の子女らしき少年が、ランタンを片手にこちらをうかがってる。

「子供か……」

 ティアは瞬時に黒い霧へと変じた。少年の前に移動する。

「ひっ!」

 再び姿を現したティアに、脅えた少年の手からランタンが落ちていく。

「恐がらなくていい」

 静かな口調で、ティアは話しかける。

「夜分、邪魔をしたな」

 言いながら、ティアの瞳が赤く輝く。

「大人しく言うことを聞いてくれれば、危害は加えない。いいか?」

 安心させるように、優しく話しかける。少年は、何度も首を振った。

「今夜、お前は何も見なかった。雷の音にたまたま目が覚めて起き出したが、何も見なかった」

 ティアの言葉に、少年はただうなずき返す。

「いい子だ……」

 ティアは微笑みかける。赤い光が強まった。

「おいで」

 ティアが誘うように手招きすると、「はい」と、少年は魂を奪われたような表情で、ティアの腕のなかに入ってくる。

 抱きしめた少年のやわらかい髪から、子供特有の甘い匂いが漂ってくる。

 唇から牙がのぞいた。唾を飲んだ喉が、ごくりと愉しげに鳴った。

 ティアは思う。

 ――自分のこの見目みめは、獲物を誘い込み、安心させ、効率的に捕食するためにあるのかもしれない。

 その時、屋敷の囲い壁のむこうから、複数の足音があわただしく響きはじめた。

 ハッとして、ティアは正気に戻った。

「オレは……」

 己の行為に、愕然とする。

 年端もいかない子供に、何をしようとしていた?

「近いぞ、こっちだ!」

「気をつけろ、どこに潜んでいるかわからん!」

 声は、間違いなく自分を探している。複数の足音と、そこから感じる力。

「……聖騎士団か」

 苦々しくつぶやくと、ティアは腕のなかの少年を離した。

 解放された少年の膝が折れ、その場に倒れ込む。

 ティアは自分自信の行いから目を背けるように、もう一度、雨粒をこぼす夜空を振り仰いだ。

 ――夜は、まだ終わっていない。

 ティアの身体から、霧が立ち上った。



「ようし、テメェら! 覚悟決めろよ!」

 ディータは周囲に潜むギルド員たちに声をかけると、

「行くぞオラぁ!」

 鬨の声を上げ、一斉に物陰から飛び出した。

 軍港から森を抜けた、王城へと至る道の途中である。

 ――ここでサスの兄貴を助け出す!

 二段構えの襲撃。

 それがディータとカホカの考えた作戦だった。

 まず、カホカが敵の主力であるファン・ミリアを護送の一団から脱落させる。同時に兵士たちの数を減らし、その上で襲撃の第二段をかける。

 まさに、鷲のギルドの総力を挙げての奪還作戦である。

 護送車を先導する聖騎士のひとり――ゲットーの馬の胴体に、ディータは戦斧を叩き込んだ。

 断末魔の雄たけびを上げ、馬が横倒しになる。ゲットーが地に放り出され、転がった。

「貴様ら!」

 膝立ちに叫び、抜剣した。

「邪魔だぞ官憲が!」

 飛び上がったディータが、聖騎士めがけて戦斧を振り落とす。

「ごろつき風情が……!」

 ゲットーが膝立ちで斧を受け止めた。怒りをあらわにして立ち上がると、剣に力を込めてディータを押し返した。

「ぐ……囲めオラァ!」

 ディータもまた怒声を張り上げる。

 その声に反応し、他のギルド員が短剣でもってゲットーを横から狙う。

 ゲットーは剣を滑らせ、身を引いた。ディータの身体が前のめりに流れる。その隙に、ゲットーは短剣をかわし、剣を閃かせた。剣が円の軌跡を描くと、ギルドの男の手首から先が宙に飛んだ。

 絶叫が、あたりに響いた。

「クソがっ!」

 やはり、得物の腕ではかなわない。横に身体をずらしたゲットーに、ディータは体当たりを喰らわせた。戦斧を手放し、ゲットーの剣を持つほうの腕を両手で掴みかかる。

「離せ!」

 ディータに右腕を掴まれ、剣の動きを封じられたものの、左腕は自由に動かすことができる。

 ゲットーは拳を作ると、ディータの腹を殴りつけた。

「離すか、ばぁか!」

 ディータは腕を掴んだまま、ゲットーから背を向けた。全身を固く、亀のように丸めて取りすがる。

「お前ら、さっさとサスの兄貴を助けやがれ!」

 大声で叫んだ、その股の間を、ゲットーの足が蹴り上げる。金的だった。

「てめぇ……オレのムスコに何してくれやがる」

 激しい痛みに脂汗を浮かばせながら、離すものか、とディータは心に誓う。ここで手を離せば、鷲のギルドは終わりなのだ。

 ――玉のひとつやふたつ、くれてやらぁ!

 殴られ、蹴られながら、それでも掴んだ腕を離さない。

 頭の裏に、ガツンと衝撃を受けた。ゲットーが籠手を武器にして打ったのだが、ディータは背を向けているため、何が起こったかはわからない。

「……蚊が飛んでんじゃんねぇのか?」

 一瞬、視界が黒く染まり、飛びかけた意識の中で、ディータはつぶやいた。

「いつまでも付き合っていられるか!」

 業を煮やしたゲットーが、右腕を掴まれたまま、左手で自らのマントを掴んだ。それをディータの首にかけると、一気に絞め上げる。

「カッ……ハァ!」

 首を締められ、ディータが口を開けた。呼吸を求めるが、一向に入ってこない。

 ディータの禿頭が、茹で上ったように赤味を帯びはじめた。酸欠状態になる。

「離さねば窒息死するぞ!」

 声を荒げるゲットーの声が、遠くのほうから聞こえるようだった。

 それでも。

 ――離すか……ボケが……!

 サスの兄貴を助ける。そう覚悟したのだ。

 次第に薄れゆく意識のなかで、大音声の声が張り上がった。

「ディータ! 肘を曲げて思いっきり右腕を振り上げろ! そいつは首を痛めているぞ!」

 兄貴の声が――。

 理解するよりも早く、反射的にディータは右腕を上げた。ちょうど曲げた腕が、肘鉄となってゲットーの首を鋭く打つ。

「ぐぉ!」

 激痛に、ゲットーがのけぞった。

「まだだ! 抱え上げろ! そいつをこっちに投げてこい!」

 さらにサスの声が聞え、ディータはほとんど無意識にゲットーに向き直ると、肩と、腿を掴んで抱え上げた。

「なにぃ!」

 持ち上げられたゲットーが暴れるように剣を振った。二の腕当たりを切られたものの、深い傷ではない。ディータは力任せにゲットーを放り投げた。

「うぉぉぉ!」

 ゲットーは頭から檻に激突した。

 サスが、すかさず鉄格子の間から手を伸ばした。ゲットーの胸倉を掴んで引っ張り上げる。

「いらっしゃーい、ってな」

 手馴れた動作で、サスは髪の中から一本の細長い針を取り出した。

「イタチの最後っ屁ってやつさ」

 ゲットーの首に、ぶすりと刺した。

「ぐ……」

 刺された箇所から全身に痺れが広がっていく。身体を動かすことができなくなり、ゲットーはずるずると地面に落ちていった。

「よく効くだろう? 腕のいい薬師に作らせた一品物だ」

 サスは含み笑いを漏らす。

「だが安心しな、塗ってあるのはただの痺れ薬だ。殺すつもりはねぇ。聖騎士団の報復ほど恐ろしいモンはねえって話だしな」

 それからサスは「おい、お前ら!」と、周囲の兵士に一喝を浴びせた。

「お前らの聖騎士サマは、俺たちが仕留めたぜ! オラ、逃げなくていいのか? グズグズしてると、俺たちの仲間がどんどん集まってくるぞ!」

 格子に閉じ込められているのを忘れさせるほど、サスは堂々と胸を張り、虚言ハッタリを言い放った。

「俺たちに捕まったらどうなるか、お前ら知ってんのか? 家族を吐かせて、皆殺しにしてやるぞ。楽には死なせねぇ!」

 ゆるぎない自信を語気に乗せ、これ以上ないといった酷薄な笑みを浮かべた。

 すると。

 ――おーおー、これまたよく統率の取れた兵隊さんたちだこって。

 見ていて面白いほどに、兵士たちの間に動揺の波が伝播していく。

 ――しょせん、腐敗した国の兵隊なんぞこんなもんだ。

 サスは内心で嘲りながら、

「さっさと逃げろ逃げろ! 聖騎士サマはもういねぇんだ。いまなら全員、お咎めなしだ!」

 不安と安心を誘い、煽動する。

 みるみるうちに戦意を喪失していく兵士たちに対し、鷲のギルド員たちは意気を得、いよいよ勢いを増している。

 何より幸運だったのは、タイミングよく、一回目の襲撃で無事だったギルド員たちが合流してきたことだった。けっして数は多くないが、兵士たちにそれがわかるはずもない。

 サスの虚言ハッタリが現実となったのだ。

 戦局は明らかだった。兵士たちのある者は倒れ、ある者は武器を捨てて逃走をはじめた。



 数分後――。

「手間、取らせちまったな」

 開いた格子の扉から、サスが地面へと降り立った。

「やっぱ、シャバの空気はうめえな」

「兄貴、無事なんだな」

 ディータの眼が、はやくも潤みはじめている。そのディータの足元には、鍵を奪われた馭者が気絶していた。

「ったく、相変わらず暑苦しいな、お前は」

 サスは苦笑いを浮かべた。言葉は乱暴だが、見た目に反して人情に篤いこの弟分が、サスは嫌いではなかった。

「喜び合いてぇところだが、ここでグズグズしてるわけにはいかねぇ」

「だな」

 うなずいたディータに対し、「だがよ」とサスは鋭い視線を民間用の港へ投げかけた。

「まだ、帰るわけにはいかねぇ。さっき盗み聞きした話だが、蛇の船はまだ港に停まっているらしい。奴らは今夜、俺たちが壊滅したと思って油断しているはずだ。この好機チャンスを生かさない手はねえ」

「まさか」

 サスは「おうよ」と笑みを浮かべた。

「これから船を襲いに行く。奴らにゃ、ちぃっとばかし聞きたいこともあるしな」

「……そうか」

 ディータの表情が曇った。意外な反応に、サスは「どうした?」と怪訝な表情を浮かべる。

「いや――」

 と、禿頭の大男は申し訳なさそうに頭を振った。

「船を襲うのは大賛成だ。兄貴の言うことに間違いはねぇんだろう。だが、悪いが俺は行けねぇ」

 ディータは森へと顔を向けた。

 そういうことか、とサスも納得した。

「そういや、あの娘っ子、まだ戻ってきてねぇな。なんで俺を助けようとしたのかわからなかったが、ファン・ミリアと張り合うなんざ、大したもんだ」

「……兄貴を助けた後はすぐに逃げろって言われたんだがよ」

 ファン・ミリアと戦って、無事でいられるはずがない。

「わかった」

 サスはふっと笑みをこぼすと、ディータの肩を叩いた。

「俺も行く」

 その言葉に、「待ってくれ!」と、ディータの顔が跳ね上がった。

「――と言いてぇところが、そういうわけにはいかねぇ。助けられた俺がノコノコと戻って行ってまた捕まったんじゃ、何のためにお前らが苦労したのか、それこそわかんなくなっちまう」

 すまねぇ、と、ディータの肩を掴むサスの力が、強まった。

「あの娘っ子は、俺の――いや、俺たちギルドの恩人だ。礼がしてぇ。どうにか無事に連れ帰って来てくれ」

「任せてくれ」

 ディータが胸を張って答えた。サスも満足そうにうなずいた。

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