54 悦楽

 王都ゲーケルン。貴族街にて。

 幾重にも雨雲が重なった夜空に、雷鳴が轟いた。

 ティアの鳩尾みぞおちに、化け物の拳が深々とめりこんでいた。

 食いしばった歯の隙間から、血がこぼれ落ちていく。

「はぁ……はぁ……」

 ティアは全身を回転させて腕を振るも、力も速度も足りず、かすりさえしなかった。化け物は距離を味方につけながら、打っては離れを繰り返す。

 精神と肉体を削られ、ティアは限界を迎えようとしていた。

 ――息が、苦しい。

 立っているのがやっとの状態だ。

 それでも、再び襲ってくる拳に、上半身を反らして避けた。両足で相手の腕に飛びつき、身体を振って脇に挟み込む。その関節を固定した。

「ぬ……あぁ!」

 腕を取ったまま、全体重をかけた。しかし逆に化け物によって軽々と持ち上げられ、そのまま地面に叩きつけられた。

 視界に火花が散った。後頭部が、ぬるりと濡れる感覚がひろがっていく。

 力なく地面に仰向けになったティアの、かすれた視界のなかで、化け物の銀の瞳が冷然とこちらを見下ろしてくる。

「もはや動けまい」

 ひろがっていく血だまりに身を浸しながら、白々と肌理きめ細かな肌が、はだけ、破れた服の裂け目からのぞいている。

 老人の姿をした化け物が、視線を上向かせた。

 周囲には、『城へと続く深い森バール・オズ・ミィ・エルドゥ』の黒い霧が、消えることなく渦巻いている。

 銀の双眸が、ふたたびティアを見下ろした。

「霧の内に閉じ込めところで、何の意味もない」

 理解しかねるといった化け物の足元で、ティアがひゅうひゅうと呼吸を喘がせている。

 誰が見えても、虫の息なのは明らかだった。

「簡単には殺さぬ」

 その言葉に、ティアの表情が歪んだ。身をよじるような素振りを見せる。

「怖いか、子鼠」

 恐怖に慄いている、化け物はそう思った。にも関わらず、不可解にもティアは口の端を上げた。弱々しく、笑ったらしい。

 化け物は屈み、ティアの顔を掴んだ。それを嫌がるように、ティアがわずかに首を振った。男は構わず、掴んだ顔の、後頭部を地面に打ちつける。

 それでも、ティアは笑うのをやめない。

「ア……ハ」と笑い声をこぼし、

「霧……より……」

 ティアはパクパクと口を開く。かすれ、木枯らしのような呼吸音とともに、苦しげな声が漏れて出る。

「蝙蝠に……なる……ほうが……」

 ぎょろり、とティアの瞳が化け物を向いた。

「……力が……いる」

 しかし灰褐色の瞳に力は戻らず、死に体であることに間違いはない。

「何をたくらんでいる?」

「ア……ハァ……」

 訊かれたティアの瞳が、ゆっくりと細まっていく。

「……時間……だ」

 その言葉に重なるように、化け物の耳に、何かが飛来する音が聞こえた。

 ――羽音?

 ふたたび黒い霧を仰ぎ見る。

「あれは?」

 不可侵の黒い霧のむこうから、巨大な羽を持つ黒い影がこちらに飛んでくる。

 それが、化け物の上空でぴたりと止まった。

「蝙蝠?」

 形は巨大な蝙蝠で間違いないはずだが、その顔には眼も、口も、何もなかった。のっぺりとした奥行きのない影が、翼を動かすでもなく宙に張りつくように静止している。

 それが、突如として大口を開けた。化け物めがけて急降下してくる。

「ぬぅ!」

 影のあぎとから逃れるため、化け物は跳んで距離を取った。

 化け物を追い払った蝙蝠は、ギチギチと耳障りな音を立てながら、形を変える。

 次に取った形は、人型の――地に倒れたティアとまったく同じ影だった。

 先ほどの蝙蝠の名残とばかりに、ぽっかりと暗黒の口だけが開いている。

 その口が半円を形作ると、「ギャ、ギャ、ギャ!」と、いかにも陽気な、けれど人ならぬ笑い声を上げはじめた。銀髪の化け物を指さし、これ以上おかしいことはないといった様子で笑い狂う。

「子鼠が……!」

 忌々しくも化け物は吐き捨てた。

 自分が馬鹿にされていることはわかっている。

 わかっていながら、化け物は動けなかった。この笑い狂っている影から、自身をはるかに凌駕する黒い力を感じたからだった。

 ――逃げねば。

 逃げることをまったく恥としない、獣に近い防衛本能がそう告げている。

 ――この影を相手にするのは危険すぎる。

 後ずさった化け物の背を、周囲の黒い霧が壁となって弾く。

 ……逃げることができない。

 ここでようやく化け物は気がついた。ティアが霧を張ったのは、すべてこの時を見据えた上での行動だったのだと。

 どうすることもできず、ただ呆然と立ち尽くす。

 一方の影はいつの間にか笑うのをやめ、ティアの傍らで手をかざしていた。

 その指先から、どろりと粘着性のある黒い液体が滴りはじめた。液体は長く、細い糸のように垂れると、その下で口を開いたティアへと注がれていく。

 ゴクゴクと喉を鳴らしならが、ティアはその黒い液体を飲む。

 乾ききった身体に、これこそを待ち詫びていたのだといった様子で、ただ無心に。ひたすら貪欲に。

 黒い液体を飲み続けるティアに対し、影はティアに分け与えるほどに小さくなっていく。

 これが何を意味しているのかは明らかだった。

 ――補給している。

 影が持つ力を、ティアへと移し変えているのだ。

 やがて、飲むのが追いつかず、ティアの口から黒い液体があふれはじめた。顔面が黒い液体にまみれ、白い肌が、黒に浸食されていくようにも見えた。

 ――早くなんとなかせねば。

 焦りが募る。今のうちに、どうにかして活路を見出さねばならない。

 わかっているのに、どうすることもできなかった。

 そうこうしているうちに、人影がすべて黒い液体となり、ティアへと注ぎ尽くされた。見えない誰かに抱き起されるように、ゆらりとティアが起き上がってくる。

 顔にあふれた液体も、肌に滲み込むように消えていく。

 立ち上がったティアの瞳は、妖しい紅玉の光を宿している。口からちろりと舌を出し、その舌先でもって、口元についた最後の一滴を舐め取った。

 そして、化け物に告げる。

「私が城へと続く深い森バール・オズ・ミィ・エルドゥを張った時点で、お前は終わっていたんだ」

 ティアは化け物を見もせず、たしかめるように両手を開き、そして閉じた。すでに噛まれた右肩と左手の傷は癒え、問題なく動く。

「城で蝙蝠に化けた時、追いかけて来てくれて助かった。お前に逃げられてしまうと、後事に障るから」

 自分の手のひらから瞳を持ち上げ、黒い霧を背にする化け物を見た。

「一部の蝙蝠を、別の場所に行かせていた。血を得るために。お前は、私の身体がちいさくなったことに疑問を抱かなかったのか? ただ、弱っているからとでも思ったのか?」

 化け物は、何も答えられない。何も考えられなかった。

 ティアが、歩き出した。

 化け物へと向かっていく。真っ直ぐ歩いているはずが、足元が軽くよたついた。強い昂揚を感じながら、ティアは笑う。

「やはり、飲み過ぎには注意だな」

 笑いながら、ふらふらと近づいていく。

 化け物が、ティアの接近から逃れるため、跳ぼうとした。だが――

「これは……」

 銀髪の化け物は驚愕した。

 背後の霧が腕を伸ばしたように化け物を捕捉し、四肢を縛っている。

「手遅れなんだ、すべて」

 こみあげてくる笑いを隠すこともなく、ティアは自分の指を唇へと持っていく。口角を横に引っ張ると、そこから鋭く光る牙がのぞいた。

「……お前は、噛むのが大好きなんだろう?」

 黒い霧によって動きを封じられた化け物を見上げ、ティアは腰に手を当てた。服からのぞく肌が、白く艶めいている。

「いま、とても酷いことをしてやりたい気分なんだ」

 ひたひたと化け物の頬を叩く。

 化け物は全身に力を込め、霧の拘束を引きちぎろうと躍起になっている。

「切れないよ。お前に私の闇は切れない」

 ティアが、化け物の胸元に掌を押し当てた。ピリピリと、その黒髪が逆立ちはじめる。

「暴れちゃダメだ。もう、諦めないと」

 言った瞬間、化け物の全身に電流がかけめぐった。

「グォォォ!」

 化け物の全身から、ぶすぶすと煙が立ち昇りはじめる。肉の焦げる臭いが、ティアの鼻腔をくすぐった。

「いい匂いだ。このまま焼いてやってもいいが」

 くすくすと、ティアは笑い声を漏らす。胸元から手を引くと、がくりと銀髪の首が落ちた。

 ティアは爪先立ちになると、自分の顔を化け物の顔に接近させていく。

 精気のみなぎる赤い瞳と、かすかな輝きのみを残した銀の瞳。

「快楽が欲しいのか、お前は?」

 ティアは両手を伸ばし、するりと化け物の首裏に通した。指先が、ずぶずぶと溶け入るように化け物の体内へと侵入していく。

 その体内にあって、ティアは自分の指先を消滅させた。自分の血を化け物の身体のなかへと流し込みながら、同時に化け物の血を取り込みはじめる。

「お……おお……お……」

 化け物が白目を剥いた。恐怖で引きつった顔が、悦びに歪みはじめる。全身がガクガクと痙攣しはじめ、しまりの効かなくなった口元からは涎が垂れ落ちてくる。

「どうだ? 気持ちがいいか?」

 ティアもまたうっとりとした瞳で、化け物を見つめる。

「気持ちがいいのか? 三下ァ!」

 我慢しきれず、ティアは叫んだ。

 化け物の顔を両手で掴むや、大口を開け、その首筋に思い切り牙を突き立てた。

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