56 ユーリィとキバルジャナⅠ

 王都ゲーケルン。深更。

 外門をくぐって北、雑多な建物が無秩序に立ち並ぶ北西地区。

 とある集合住宅アパートの三階部屋にて、控え目にドアを叩く音が響いた。

「開いてますよ」

 机に広げた本から顔を上げたトゥーダス=トナーは、部屋に入って来た人物を見た時、

「これは、これは」

 穏やかではあるものの、この男にしては珍しく――いくぶん驚きの色を含ませながら眼鏡をはずし、笑う。

「ご無沙汰しております、トナー先生」

 三十歳に届くか届かないかといった年齢の、痩身で背の高い男が立っていた。

「まさか貴方が訪ねて来てくださるとは思いませんでした。王都には、いつ?」

「つい今しがたです」

 男の声は低く、眼つきは鋭い。日に灼けた肌に、オレンジに近い明るい茶の瞳。癖のない、こげ茶色の髪を後ろに流している。

 男は肩あたりについた雨粒を手で軽く払うと、その鋭い瞳でトナーを見た。

「宿を探していたのですが、部屋がどこも空いておりませんでした。おまけに雨まで振ってきてこの始末です。申し訳ありませんが、今晩、泊めていただけないのでしょうか。――私と、もう一名ほど」

「もう一名?」

 この男に連れがいるのが、トナーにとっては意外だった。

 すると、長身の男の陰に立っていたらしい、ひとりの少女が姿を現した。

「キバルジャナです」

 男に紹介された少女は、溌剌はつらつとした笑顔を浮かべ、元気よくお辞儀をした。

「トナー先生ですね、はじめまして。キーファとお呼びください」

「はじめまして。これはまた、利発そうなお嬢さんだ」

 清々しいほど爽やかなキーファの挨拶に、トナーもつい笑みをこぼして返す。

 健康的な褐色の肌。赤というよりは紫味のある、臙脂えんじに近い長髪には、いくつもの髪飾りをつけている。瞳は男と同じ、オレンジに近い明るい茶色。

 トーガ風のゆったりとした服を着た男とは対象的に、少女の服は裾も袖も短く、二の腕、腹、腿と、肌を多く露出している。ぴたりと巻いた黒布からのぞく首筋も、すっきりと細い。

「これは私の甥です」

「おや?」 

 これまた意外な言葉に、トナーは二度、三度と目を瞬かせ、「ああ、なるほど」とようやく合点がいったらしく、うなずいた。

「そういえば、貴方の部族では、成人前の男性は女性の恰好をするのでしたね」

「おっしゃる通りです」

 男の返事に合わせるように、「そうです!」とキバルジャナ――キーファも笑顔を絶やさず返してくる。

「いやはや、やはり知っているのと実際に見るのとでは大違いですね」

 成人前だけあって、キーファはまだ声変りもしていない様子だ。

「ここまで見事に少女の姿に化けられてしまっては、疫神えきじんも悪魔も、あなたが男性とはけっして気づかないでしょう」

「ありがとうございます」

 目を細め、くすぐったそうにキーファは笑う。右手を後ろ手に、左の肘に添える仕草など、どこからどう見ても少女のそれにしか見えない。

 男は南方の、東ムラビアを含めた大陸中央以北に住まう者たちから『蛮族』と蔑まれる部族の出だった。

 もちろん、トナーはそういった認識で男を見てはいない。むしろ、この大陸において、彼ほど明敏な頭脳の持ち主が他に何人いるのか、とさえ思っている。

 男の名はユーリィ=オルロフ。

 知と仁とを兼ね備えた、知る人ぞ知る傑物である。

 一応、トナーとユーリィとは師弟の間柄になるが、彼がトナーに師事したのはごく短い期間だったし、それも十年ちかく前の話だ。現時点においては、まちがいなくユーリィはトナーを超えているだろう。

 とはいえ、見たところキーファは純粋な南方出のようだが、ユーリィの出自はいささか込み入っており、半分は大陸中央の血が混じっている。

「しかし、身内とはいえ、貴方が共を連れて旅をしていたとは思いませんでした」

 トナーが部屋のなかへ招いて言うと、

「失礼します」

 ユーリィが進み入ってくる。すでに聞いていたのか、きびきとした動作でキーファが本の椅子を作りはじめた。まずユーリィの椅子を作り、それから自分のを作る。さりなげく自分の席はユーリィの斜め後ろに作るあたり、礼儀に関してもよくしつけられているようだ。

「旅の途中、故郷に立ち寄ってみたところ、私ひとりでは危険だとついて来てしまったのです。見た目に反して頑固者です」

 抑揚のない声音で言い、ユーリィが振り返ると、

「ユーリィ先生はウカツなんです」

 キーファは不満げにユーリィの視線から顔を逸らした。どうやら、ユーリィは弟子としてもキーファを育てているらしい。あえて『先生』という言葉の前に『ユーリィ』とつけたのは、トナーと区別してのことだろう。

 ――よく頭の回る子のようだ。

 好感を抱きながら、トナーはキーファの腰元を見た。透けるほどに薄い布地の長帯を、段々になるように腰に巻き、中央で大きな結び目を作っている。その下から小ぶりの曲刀がのぞいていた。弟子兼護衛といったところだろうか。

「それに、頑固者は僕じゃなく、ユーリィ先生のほうだと思います」

「まあまあ」

 トナーが間に割って入る。

「天候が崩れはじめた上に、王城で大きな催しがあるようです。宿が取れなかったのはそのためでしょう。見ての通り狭苦しい部屋ですが、好きなだけ滞在していただいて構いません。貴方と話す時間は、私にとってこの上のない歓びですから」

「恐れ入ります」

 ユーリィが、深々と頭を下げてくる。当然のように、キーファもそれに倣った。

「それにしても、このところ珍客が続いています」

「――と言うと?」

 ユーリィが、顔を上げた。

「つい先日、故郷を失った若者がここに訪ねてきたのです。彼と言えばいいか、彼女と言えばいいか、会ったのはずいぶん昔に一度だけでした」

「複雑な事情がありそうですね」

「珍しく、私の思考が尾を引く若者だった、と言えばいいかな」

 トナーは顔を上向かせ、ひとりごちた。

「人はさまざまな星の下に生まれついている」

 詩のような言葉とともに、トナーは穏やかな笑みをユーリィに向けた。

綺羅きら、星の如く高い才知を持ちながら、どの国からの仕官の誘いも受けず、ただ見識を広げるために旅を続ける者もいるでしょう」

「……お誉めの言葉と受け取っておきましょう」

「私は皮肉のつもりで言ったのですが?」

 トナーが冗談まじりに言うと、ユーリィは口元に苦笑をにじませた。

「お言葉を返すようですが、それは先生についても同じでしょう」

「私、ですか?」

 トナーはとぼけた様子で自分を指さし、

「いえいえ、私は単なる世捨て人です。貴方とは決定的にちがう」

「先生が世捨て人と自称なさるなら、私も同じです」

「ちがいますよ」と、トナーは軽く笑う。「大志を胸に秘めた者を、世捨て人とは言いません」

「大志、ですか?」

「ええ」

 ユーリィからの質問を、トナーは直截には答えず、

「それにしても、この度はどうして王都まで? ようやく仕官する気にでもなりましたか?」

「――え?」

 と、その言葉に反応したのはユーリィではなく、キーファだ。

「そうなんですか?」

 本の椅子に両手をつき、キーファが身を乗り出した。その声音には、明らかな期待がこもっている。

「ちがう」

 あっさりとユーリィが告げた。

 キーファは見るからにガッカリした様子で、「なあんだ」と、浮かせた腰を、すとん、と本の上に戻す。

「いい加減、ユーリィ先生には落ち着いてほしいのにな」

「……余計な世話だ」

 むっつり顔のユーリィに、キーファは「ええ、余計なお世話をしてます」と、負けじと言い返す。

「ユーリィ先生はもういい歳なんだから、早くお嫁さんをもらわないと。僕、知りませんよ? 先生がヨボヨボのおじいさんになって、ひとりきりで寂しい老後を送っても」

「お前の知ったことではない」

 キーファが熱弁をふるうも、ユーリィはにべもない。

「僕をアテにされても困りますよ?」

「死んだ方がマシだ」

 そんなふたりのやり取りを聞きながら、

 ――若いのに所帯じみているなぁ。

 すくなからずダメージを受けたトナーは思った。トナーも独り身である。

 どうやら少年はユーリィの弟子であり、護衛であり、目付役でもあるらしい。

「まあまあ、キーファ君もそうムキにならず。これから時間をかけて、ふたりでユーリィ先生を説得するとしましょう」

「……何を仰っているんです?」

 相変わらずの鋭い目つきのユーリィに、トナーは「お茶でも淹れましょうか」と逃げるように立ち上がった。

「あ、お手伝いします」

 キーファも立ち上がり、嬉々とした表情でトナーを追いかけてきた。

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