46 壁
夢を見た。
遠い昔の夢を。
ウル・エピテス尖塔群。
空に高く伸び出た尖塔のひとつ、その暗い牢獄の中で、彼女は目を覚ました。
ずっと、浅い眠りを繰り返している。
部屋の暗さとも相まって、時間の流れがひどくわかりづらい。
ファン・ミリアに打ち負かされ、この牢獄に囚われてから、何日が過ぎただろう。とても長い時間のようにも、昨日のことのようにも思えた。
「……ざまぁないねぇ」
口から流れ出た一筋の血が固まって、糊のように貼り付いている。
両腕は斜めに持ち上げられた状態で鎖に繋がれ、わずかに動かすのさえ、億劫になっていた。
あれから十年。
妹を探す旅はまだ続いている。
行方の手がかりさえ掴めず、こうして囚われの身となっている。
垂れた首の、薄緑の瞳を自嘲に濁らせた。
――あたしもヤキが回った……。
妹の手がかりをと焦り、蛇を潰そうとした結果、まさか神託の乙女が出てくるとは思わなかった。
藪をつつき過ぎた。
それほどに蛇とウル・エピテスの繋がりは強い、ということなのだろう。
だが、ここで朽ち果てるわけにはいかない。
ここで容易く死ねるほど、自分の業は軽くない。
「エルベ……」
生き別れた妹の名を口にする。
その呼びかけに応じるように、檻の向かい壁に影が映った。
詰め所のほうから明かりが漏れている。それがゆらり、ゆらりと影絵を作り出していく。
彼女は、この影たちを知っている。
これらはきっと、自分が傷つけ、殺めた者たちの影。
影は
――お前の妹など、とうの昔に冷たい
人殺しのお前の手では、妹には届かないと。
だからお前もこっちに来い。影たちはそう言っているようだった。
「……あんたたちなんぞ、かまうものか」
彼女もまた無数の影にむかって笑い返す。
恨みたければ、好きなだけ恨めばいい。
「エルベ。必ずあたしが見つけ出してやる」
彼女は決意を込めてつぶやく。
「お姉ちゃんが、必ず助け出してやる」
さらに言うと、影は徐々に薄まっていき、元の壁の色へと戻っていく。
入れ替わるように意識が
「……旅」
ふと、耳にかすかな声が聞こえた。一瞬、夢かと思いかけたが、間違いなく現実の声だ。
あわてて周囲に視線を走らせたものの、牢屋の中にも、檻の向こうにも人の姿はない。
「旅」
繰り返し、先ほどよりもしっかりした声が聞こえた。女の声だった。
――後ろ?
彼女はようやく気がついた。
声と気配は、背後からだった。だが、壁の向こうは外のはずだ。しかも一階や二階の高さではなく、高層である。とても人が登ってこれるような場所ではない。
「一尾」
疑問に思いながらギルドの合言葉を返した。すると――
「……鷲の頭目、レイニー=テスビアだな」
自分の名を呼ばれた。人違いではないらしい。
「誰だい?」
彼女――レイニーが小声で訊くと、
「鷲のギルドに味方する者」
女の声がすぐに返ってくる。
「私の名はティア。縁あってあなたを助けに来た。ディータたちはサスを助けるため、港を襲撃する手はずになっている」
壁越しに、ティアと名乗る女が話しかけてくる。それから――大きく息を吐いたようだった。よくよくレイニーが背後に意識を集中させると、女はずいぶん呼吸を荒くしていた。
どうやってここまで来たかはわからないが、相当の苦労をしてくれたらしい。
「いま、そちら側に兵は何人いる?」
ティアが、ごく抑えた口調で訊いてくる。
「……囚人はあたしだけだ。入口の詰め所に必ずひとりが常駐している。腕は、そこそこってところかね。交代時間は真昼と真夜中と、その間の計四回。時間に狂いはないと思う。あたしから向こうの姿は見えない。向こうからも同じさね。ひとりにつき八回から十回、確認のために牢の前まで来る。来る時間はバラバラだ」
レイニーが素早くティアに情報を伝えると、
「……わかった」
どうやらティアは理解してくれたらしい。
「壁を破壊したい。避けれるか?」
「無理だね。あんたと挟んだ壁に鎖で繋がれてる」
「わかった。いまそちらへ行く」
「どういう意味だい?」
牢には明かり採りさえ備え付けられていない。ティアという女がどれだけ小柄だったとしても、壁をどうにかしなければ、こちら側に回って来るのは物理的に不可能だ。
それとも別の意味で言っているのか。
考えていたレイニーは、鋭く息を呑んだ。
黒い霧が、壁をすり抜けるようにこちらに流れ込んでくる。
霧はレイニーの前で一塊にまとまってその密度を高めると、みるみるうちに人型を形作っていった。すらりと細い手足と、驚くほど小ぶりな顔立ち。暗闇のなかでなお黒く光る長い髪。
黒いヴェールを剥ぎ取るように、ひとりの少女が姿を現した。
「あんた、人かい?」
おそるおそるレイニーが訊くと、
「どう取ってもらってもかまわない。だが、いまは怖がって騒がないでもらえるとありがたい――動けるか?」
少女の瞳は薄く赤い。
「あたしを助けてくれるなら、どっちだっていい。御覧の通りピンピンしてるよ」
その言葉とは裏腹に、両腕を鎖で繋ぎ留められたレイニーは身体中に傷を作っていた。
「多少、痛めつけられはしたがね。こちとら頑丈にできてる」
言い、にやりと笑うレイニーに、ティアはちいさくうなずいた。
「あんたのほうこそ、ずいぶん疲れてるみたいだ」
黒衣を羽織るティアの肩が、呼吸とともに大きく上下している。
「あなたを見つけるのにずいぶん手こずった……」
ティアはぐいと額の汗をぬぐう。それから、はぁ、と声を押し殺しつつ、息を吐いた。
「だが、この
ティアはよほど消耗しているらしく、傍目にわかるほど覚束ない足取りで鎖に触れた。がしかし、どういうわけかとっさに手を引っ込めてしまう。まるで、迂闊に熱い物に触れた時のような反応だった。
「銀、か」
ティアがつぶやいた。苛立つような口調だった。
「問題かい?」
「どうやら私は銀が苦手らしい。それだけならまだいいが、この鎖にはとても嫌なものが塗り込められている」
ティアは恨めしい目つきで鎖を見つめる。
「どうするんだい?」
壁を破壊してからの逃げる手段があるのなら、枷さえ外してくれれば何とかする、そうレイニーがティアに告げた。その時だった。
階段を、複数の足音が駆け上ってくる。
「気づかれたか」
ティアは舌打ちするように言って、銀の枷を掴んだ。その手が、じゅう、と焼けるような音がした。端正な顔立ちが苦痛に歪む。
「肌が……焼けている?」
レイニーは茫然とつぶやいた。ティアは歯を食い縛って細腕で鎖を強く引く。
「まさか、引きちぎるつもりかい?」
信じられないことに、ギリギリと鎖が悲鳴を上げはじめた。
その間にも足音が迫って来る。
――もう少し。
「頼む、頑張っておくれ」
次の瞬間、レイニーは驚愕に目を見張った。
突然、背後の壁から二本の腕が生えるように伸び出てきた。そうかと思うや、ティアの両手首を掴んで締め上げはじめたのだ。
「これは……!」
ティアにとっても予想外のことらしく、レイニー同様、驚きで瞳を大きく見開いている。
「ぐっ……」
そのまま正体不明の不気味な手が、ぐい、ぐいとティアを壁際に引っ張って来る。その力に抗えず、ティアの身体が前のめり、間のレイニーとぶつかった。
「こいつ……強い……!」
レイニーにもたれかかりながら、ティアが呻き声を発した。
階下からの足音が止まり、詰め所で話し合う声が聞こえてきた。短い会話が終わると、すぐこちらに向かって一直線に歩いてくる。
「……力が、足りない」
吐息を漏らしながら、ティアの無念そうな声が落ちてくる。こちらに覆いかぶさる恰好になっているため、レイニーにその表情を見ることはできなかった。
ティアの両手首を掴んだうち、片方の手が彼女の胸倉を掴み直した。
半身がのけぞったところを再び引っ張られ、ティアが頭から壁に激突しそうになる寸前――。
「必ず……助けに戻る」
それだけ言い残し、ティアの身体が一瞬にして黒い霧と化した。引っ張られる力そのままに、霧は壁の外へと流れ出ていった。
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