45 思い出は暗き淵より(後)
はじめは、ただ出かけているだけだと思っていた。
妹が家の外に出ること自体、珍しいにちがいないが、旅立つ前に、村の景色を見ておきたくなったのかもしれない。
そんな軽い気持ちで帰りを待っていた彼女だったが、時間とともにだんだん不安になってきた。
朝のうちに妹は家を出ていったようだが、それが昼になり、夕方になり、そして夜になっても戻って来ない。
――どう考えてもおかしい。
妹には時間を忘れて話し込むほどの友人はいない。買い物なりをするにしても、狭い村なのだ、往復を考えても一刻か、一刻半もあれば十分のはずである。
久しぶりに外に出て、疲れてどこかで休んでいるのだろうか?
叔母夫婦に行先を知っているか訊いてみたが、知らないと言う。
やがていても経ってもいられなくなり、彼女は叔母夫婦に頼んで妹を探してもらうことにした。彼女も恋人の家に走り、一緒に探してほしいと頼んだ。
夜半を過ぎても妹は見つからず、とうとう村人総出の捜索がはじまった。
だが、妹はどこにもいない。
今朝から夜にかけて、妹の姿を見かけた者さえ皆無だった。
彼女は動揺し、そして混乱した。
なぜ、妹は出て行ってしまったのか。
言葉では彼女と村を出て行くと言っておきながら、その実、心の中では嫌がっていたのだろうか。
だが――彼女が一緒に村を出ないかと誘った時の妹の笑顔は、とても嘘だとは思えなかった。
村人たちの捜索は夜通し続いたが、結局、妹が見つかることはなかった。
なぜ、妹は自分に何も言わず……何一つ彼女に告げることなく姿を消してしまったのか。
混乱のうちに彼女は旅立ちの朝を迎えた。
恋人の青年がやって来たが、彼女は部屋の椅子から立つことができなかった。
――見つかったらすぐに知らせてやるから。お前は彼とお行きなさい。
叔母夫婦からも彼について行くよう勧められたが、それでも駄目だった。
今も、ひょっとしたら妹は寂しい想いをしているかもしれない。何かの拍子に足を怪我し、どこかで動けなくなっているかもしれない。
寒い想いをしているのではないか、お腹を空かせているのではないか……。
考えるほどに全身から冷たい汗が吹き出し、心臓を鷲掴みされた心地がする。
明けてからも捜索は続いていた。彼女も皆と一緒に探したかったが、妹が戻ってきたときに安心させてやれるのはお前だけだからと、家で待つよう言われた。
妹のこと以外、何も考えられない彼女に、恋人は「妹が見つかったら、その後に来てくれればいい」と、そう言い残し、先にひとりで村を出ることになった。
だが、二日が過ぎ、三日が過ぎても、妹は帰ってこない。
必死の捜索は続いたが、その痕跡さえも見つかることはなかった。
しだいに村人たちの間に、「妹は自ら家を出ていったのではないか」という暗黙の空気が流れはじめた。これだけ探して手がかりひとつ残っていないのは、かえって不自然だ、そう臆面もなく彼女の前で言う者さえいた。
それでも、彼女は信じられなかった。
――あの子が、自分に何も言わず、出ていくはずがない。
その想いだけが、胸の底に残っていた。
一週間が過ぎても妹が戻ることはなく、捜索は打ち切りになった。
家に立ち寄る村人の数も目に見えて少なくなり、やがて誰も来なくなると、今度は腫れ物を触るように彼女から遠ざかるようになった。
彼女は妹の無事を願うだけの日々を過ごした。
不安や恐怖が募り、自分のなかで処理が追い付かなくなると、彼女は妹の部屋に頻繁に出入りするようになった。
何をするわけでもなく、ただ部屋の中央にぼんやりと立ち、妹の寝台や調度、衣服を眺めた。
そうして「ほら、こんなにもあの子の物があるじゃない」と彼女はつぶやく。
こんなにも妹の物たちが帰りを待っている。
妹が本当に出ていくつもりだったのなら、必要な物はすべて持ち出していったはずなのだ。
――だから戻ってくる。
あの子は、絶対に、戻ってくる。
彼女は何度も自分に言い聞かせた。
そうして気持ちを落ち着かせ、彼女が部屋を出かけた時だった。
ざわり、と彼女の全身から鳥肌が立ち、脳裡に火花のような閃きが走ったのは。
――何……?
自分でもこの感覚の理由がわからない。
彼女は部屋を出るのを止め、あわてて振り返った。もう一度、部屋の中央まで戻っていく。
ゆっくりと。
――何かが、おかしい。
ゆっくりと、妹の部屋を見回す。
頭の中で、激しく警鐘が鳴っている。
……この部屋には、何か異常なことがある。
彼女が気づかなければならない「何か」を秘めている。
カーテンに、西日が強く当たっている。その隙間から差し込んでくる夕日の照り返しに、寝台の奥の床が血のように輝いている。
そこで彼女はあることにようやく気づく。
部屋の中が、あまりに整然と片付けられ過ぎている。
それこそ、寝台の上掛けに至るまできっちりと。数冊の本と筆置き、そして服までもが、完璧とも言えるほど、収まるべき場所に収まっている。
旅立つ前日だというのに、まったく準備がなされていない。
――私と村を出るつもりがなかったから?
自問しながら、ちがう、と彼女は心の中で否定する。
妹は、絶対に自分と村を出るつもりだった。それを疑ってはならない。
その前提を、疑ってはならない。
彼女は妹の衣装棚を探ってみた。捜索のため、当時の妹がどのような恰好で出て行ったか、すでに叔母が調べていたはずだったが、もう一度確認してみると、たしかに妹の外着の一式がなくなっていた。
だが。
――ちがう……ちがう……!
何度も彼女は否定する。
妹は彼女と村を出るつもりだったのだ。そんな妹が何も告げず、家を出ていくわけがない。
もし用事があったなら、彼女に行先を告げたに決まっている。
だから、そう。
妹は、その日、家を出かけるつもりなどなかったのだ。
彼女はてっきり妹が朝方に出たとばかり思っていたが、その姿を村人の誰もが目撃しておらず、かつ、家を出るつもりなどなかったとしたら……。
彼女はそこまで考えると、あわてて衣装棚を漁った。
彼女の予想は的中する。思った通りだった。
――妹の夜着がどこにもない。
もう戻らないつもりだったから? ちがう。もしそうなら、夜着だけでなく、他の服も持って行かなければ不自然だ。
妹は夜着で出かけた? いや、それもちがう。そんな夜更けに出かける理由などあるわけがない。
妹は、夜に連れ出されたのだ。
そしてその事実を隠蔽するため、外着を隠した者がいる。
――他にもなくなっている物は?
彼女は記憶を手繰り寄せながら、部屋の中を見回した。それから机のなか、寝台の上掛けの下などを一通り調べてみた。
特に失くなっているのはない、そう思いかけて、さらに彼女は気づく。
机の上の数冊の本。そして、筆置きと、黒のインク。
……筆が、ない。
筆置きはある、にも関わらず、なぜ筆だけがなくなっているのか。
彼女は机の上と
いよいよおかしい。
――何かがある。
この部屋には、妹の失踪を紐解く何かが必ずある。
確信めいた予感を抱き、彼女は入念に部屋の隅々を探す。
そして、彼女は見つけた。
それは、西日の日溜まりに赤く輝いていた。
入口から見て、寝台の奥の床の木板――その一枚にだけ光が当たり、まるで彼女に気づかれるのを、息を潜めて待っているようだった。
よくよく見ると、その一箇所だけがかすかに汚れている。彼女は床にしゃがみこみ、板と板の隙間に爪を立てる。すると大した力をかけてないにも関わらず、簡単に板が浮いた。
心臓が、冷たく鼓動を打っている。
彼女は赤い光を背に浴びながら、その板をずらした。
板一枚分の、ごく細い空間だった。そこに、一冊の本が縦に差し込まれている。
引き抜くように取り出して見ると、本は妹の日記帳だった。見つからなかった筆も、本のなかに挟んであった。
――これだ!
間違いなかった。
すべての秘密が、この本にあるに違いない。
彼女は木板を元通りにすると、急いで部屋を片付け、自分の部屋に移動した。
家には、彼女ひとりしかいない。叔母夫婦は妹の捜索を伸ばしてもらおうと、村長の家に出かけていた。
自室の椅子に腰かけ、彼女は本の頁を開いた。
今、思う。
あの日記を読み終わった時、自分は別の人間になったのだ、と。
彼女は慟哭した。
自分を殺してやりたいと思った。
日記には、妹の苦悩に満ちた日々が綴られていた。
妹は、ずっと脅されていたのだ。
自分と妹を家に置いてやるかわりにと、妹は叔母の夫から脅され続けていた。
その対価として、妹が払い続けてきたもの。
すべてが赤裸々に語られていた。
畜生にも劣る男によって妹が汚されたのは、一度や二度ではなかった。夜ごと
死にたい、と書かれてある日も少なくなかった。
ずっと、気の遠くなるような長い時間を、妹は耐え忍んで生きてきたのだ。
ただ姉の幸せを祈って。
妹の日記には、彼女を恨む言葉は何一つ書かれていなかった。それでも、妹は耐えがたかったのだろう。彼女が青年と恋仲になった頃から、文面はさらに重く、苦しい心境が綴られていた。
自分と青年との関係が進めば進むほど、妹は嬉しく、そして辛かった。姉の幸福を祈りながら、妬まずにいられない自分があさましい、そう書かれていた。
それが一転して、彼女が村を出ようと誘った日付には、妹の踊り上がるような嬉しい心境が書かれていた。――ようやく家を離れることができる。新しい家ではきっと自分も働こう、そんな明るい決意にあふれていた。
そして旅立つ日の前日。
その頁には、さらに楽しい未来を夢見る言葉、そして最後の行に『お姉ちゃん』とだけ走り書きがされ、そこで唐突に終わりを告げていた。
筆を挟み、日記を床の下に隠す時間があった以上、押し入り強盗の類ではないのは明らかだった。そもそも、彼女と妹の部屋は隣り合っているのだ。その夜は彼女も自分の部屋で寝ていたし、不意の物音がすれば気づくことができただろう。
では、いったい誰が妹を連れ去ったのか。
答えは、明らかだった。
黄昏に染まる部屋の中で、彼女は絶望に濡れる瞳を、ゆっくりと持ち上げた。
部屋には、片付け途中に使ったままの
――あれがいい。
彼女は立ち上がると、箒を手に取った。いささか軽すぎる気がしたが、痛めつけるには十分だと思った。
刃物ではいけない。
――刃物では、苦しみが短すぎる。
それでは妹の味わった苦しみに見合わない。
彼女は準備を済ませると、灯をつけずに叔母夫婦の帰りを待った。しばらくして家に帰ってきたふたりを後ろから襲った。布袋に銅貨を詰め込み、後頭部を叩いてふたりを昏倒させると、妹の部屋に運んだ。四肢をきつく縛り上げ、猿ぐつわを噛ませた。それが終わると箒を掴み、ふたりの頭から水をかけ、意識を回復させた。
――私がなぜ、このような目をお前たちに遭わせるのかわかるか?
そう問うたところ、獣は首を横に振った。なので、彼女は手始めに獣の股間を滅多打ちにしてやった。死なぬよう、手加減をしながら。
そうしてもう一度同じ質問をすると、獣はあっさり首を縦に振った。
彼女は男の手足の骨を折った。猿ぐつわを通して絶叫が聞こえたが、かわいそうだとも、ざまあみろとも思わなかった。当然すぎる報いに、彼女の感情が動くことはなかった。
その間、叔母はただ怯えた瞳で震えているだけだった。
叫んだら殺す、助けが来るまでにお前を殺すは簡単だ。そう前置きして、彼女は獣の猿ぐつわを外した。
獣は泣きながら、許してくれと命乞いをしてきた。彼女は「命だけは助けてやる」と約束した上で、獣から話を聞き出すことに成功した。
妹は人買いに売った、と男は言った。
妹が村を出れば、いつか自分の悪行を漏らすかもしれない。そうなっては自分はこの村で生きていくことができない、と。
肌も、髪も、眉も、すべてが白い妹は、その道では非常に珍重され、高値で売れる、とも。
虫唾が走った。この獣はこの期に及んで己の保身と金のみを考え、口封じのため彼女の最も大切なものを人買いの手に委ねたのだ。
それから彼女は叔母に振り返った。
彼女は叔母に、この獣の行いを知っていたのか、と問うた。
叔母は首を横に振った。なので、獣同様、彼女は叔母の四肢の骨を砕いた。やめてくれと泣く獣を、彼女はせせら笑った。
獣には獣なりの愛情があるらしい。
そう思うほどに、より激しい憎悪と殺意が胸に込み上げてきた。
――ならばなぜ、妹にはあれほどの酷い仕打ちを重ねてきたのか。
痛みで床に這いつく叔母を、彼女は虫けらを眺めるような眼で見つめた。
叔母は、確実に知っていた。
知らぬわけがない。妹が外着で出かけたことを村人に告げたのは、他ならない叔母だったのだ。いや、それ以前に夜ごと寝台を出ていく夫に不審を抱かないわけがない。
率先して関わることはなかったのかもしれない。だが、見て見ぬ振りをしていたことにちがいはない。
彼女の眼には叔母も同罪に映った。
それにもし、もし仮に叔母が本当に何も知らなかったとしても、それが何だと思った。
すでに彼女はこの叔母夫婦に対し、一片の憐れみさえ残してはいなかった。
血の繋がりを信じてこの村にやってきたことが、すべての間違いだったのだ。
血の繋がりなど、何の保証にもならぬものだったのに……。
彼女は叔母をさらに打ち続けた。獣が何か言おうものなら、ますます強く痛めつけた。
――お前たちがずっと、妹にしていたことだ、と。
ひたすら、叔母を打ち続けた。
動かなくなるまで。
叔母が意識を失うと、また彼女は獣に質問した。
妹は誰に売られたのか。
どこに連れ去られたのか。
いまどこにいるのか。
だが、獣はほとんどのことを知らなかった。どれだけ脅しつけ、痛めつけても詳しいことはわからないと泣きながら答え続けた。
わずかな手がかりだけを得ると、彼女はさらに気が済むまで獣を打ち続けた。
いや、気が済むことなどなかった。
打ち続けることが、彼女の妹にできる懺悔だった。
――打っていたのは、自分自身だ。
箒を持つ手の皮が剥け、血が流れた。彼女は何度も箒の柄を握り直し、獣を打った。耐えきれず箒の柄が折れたが、折れたままに打ち続けた。
――獣は、自分自身だ。
何も知らず、自分だけがのうのうと幸福を手にしようとしていた。妹の苦しみに気づかず、日増しに塞ぎ込んでいくその様子に、自分は何を思った?
守らなければいけない妹に、ずっと守られ続けていた。両親を失い、死の恐怖に怯えていた幼少の頃から、今日に至るまで、ずっと。
それさえ気づけなかった自分の愚かさ、その馬鹿さ加減。
すべてが赦せなかった。
赦してたまるものかと思った。
彼女は意識を失った獣と叔母に、油をかけた。そして家中に油を撒くと、ためらうことなく火を放った。
その晩、彼女は燃え上がる家を振り返ることもなく、村を出た。
妹の日記と、折れて血まみれになった箒だけを手にして。
――妹の日記の最後。
『お姉ちゃん』と書かれた言葉。
その呼びかけは何を意味していたのだろう?
その続きを、彼女は知らなければならない。
叶うことならば、続く言葉は自分に対する呪詛の言葉であってほしかった。
叶うことならば、死ねと言ってほしい。
愚かな姉を恨んでいて欲しい。
使えなくなった箒の柄は、削って
いつか妹を助け出す日が来たら、この杭で自分の心臓を刺し貫いてもらおう。
それだけが、彼女の唯一の夢であり、生きる希望だった。
妹の名はエルベゼーテ=テスビア。
そして彼女の名は――。
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