44 思い出は暗き淵より(前)

 ノールスヴェリア王国とクォーリス大森林地帯を隔てるホッター山脈。

 霞をまとい、雪の帽子をかぶった山々の峰は、高く高く神の衝立となって人類の北上を阻んでいる。

 山脈南部の、とある麓の村に彼女が訪れたのは、かれこれ二十年以上も前のことだった。

 幼くして両親を失い、妹とともに叔母夫婦を頼って移り住んできたのだった。夫婦には子供がいなかったため、姉妹を引き取りたいとの申し出があったのだ。

 まだ村にやってきたばかりの頃、彼女は常に暗い雰囲気を漂わせていた。

 両親を失った悲しみから立ち直れなかった、ということもあるが、それ以上に『死』に対する恐怖に脅えていたからだった。

 他の多くの子供がそうであるように、彼女にとって、『誰かが死ぬ』という考えは、恐怖以外の何者でもなかった。

『死』とは何なのか。

 ずっと、眠っているときのような状態なのだろうか。

 ――でも、と彼女は考える。

 寝ている時は夢を見ることがある。夢を見ている、ということは自分が生きている証拠のはずだから、『死ぬ』ということは、夢を見ずに眠る、ということになるのだろうか。

 ――永遠に。

 眠っているときはあんなに心地がいいのに、死ぬのはとても怖い、なぜだろう。

 死と眠りを分かつ境界には、いったい何が横たわっているのか。

 死は黒いもの、彼女は漠然とそう考えていた。永遠に醒めることのない眠りが死であるなら、やはり眠ることに似ていて、夜を連想させるからなのかもしれない。

 その死が両親を襲った。

 強制的な永遠の眠りにつかされてしまった。

 畏れと悲しみに心を支配される日々。

 そんな暗い日々のなか、妹の存在だけが、彼女を慰める唯一の救いだった。

 妹は白く、ただ白かった。

 青緑の瞳と赤い唇だけを残し、髪も、肌も、眉も。その心もまた……。

 白すぎる妹は、黒とはあまりに程遠く、それゆえ彼女にとっての『生』の象徴だった。

 妹がいる、ただそれだけのことが、彼女を死の恐怖から遠ざけてくれた。

 妹とともに故郷を離れ、叔母の家で暮らすうち、彼女は徐々に両親を失った悲しみと、死への畏れから立ち直っていった。

 そうして両親の死から十年ほど経った頃である。

 その頃にはもう、彼女は本来の気質を取り戻し、誰とでもすぐに打ち解ける、活発で気さくな娘になっていた。

 恋人もいた。年上で、寡黙だがよく気がつく青年だった。お喋り好きな彼女には不満がないわけでもなかったが、それ以上に自分を好きになってくれたことが嬉しかった。

 だが、そんな彼女とは異なり、妹はいつまで経っても前向きな性格には戻らなかった。

 妹はもともとの優しい性格を残しながらも、成長するにつれ、より内に篭もりがちな性格になっていった。

 とはいえ、両親の死を悲しんでいる様子もない。

 その白すぎる容姿によって周囲から奇異の視線で見られたり、からかわれたりすることも少なくなかったため、人づきあいに嫌気がさしてしまったのだと、妹を見ながら彼女はそう思っていた。

 だから彼女はせめて自分だけはと、何かにつけ妹に話しかけるよう努めていた。

 しかし彼女の努力も虚しく、妹の性格はより内向きに進み、しだいに彼女との会話さえ拒むようになっていった。妹は自分の心のみと対話するようになり、表情を隠し、瞳は時間とともに輝きを失っていくようだった。

 彼女はそれを、自分に恋人ができたからなのではと考えた。

 時期的にも一致しているような気がした。

 一日の大半を自室で過ごす妹に対し、彼女は家の外に出る時間がずいぶんと長くなっている。

 妹を大切に想っていないわけがなかった。けれど、ずっとふたりだけで人生を過ごすことはできない。

 自分もそう。妹もそうだ。

 いまは家に篭もる妹だって、いつかはどこかの男に貰われていくのだろう。

 むしろ自分がいない方が、妹にとってはいいことなのかもしれない。

 そんなふうにさえ考えていた。

 だが、現実は彼女の期待を裏切り、妹はますます孤独を好むようになっていった。どれだけ彼女が熱心に話しかけても、無視をする、というより終始上の空の様子だった。

 ――このままではいけない。

 徐々に危機感を膨らませていく日々に、転機が訪れる。

 ある日、彼女は恋人の青年から呼び出され、こう告げられた。

 ――自分と村を出てもらえないか、と。

 恋人はノールスヴェリアの公職に就くことを志望していた。彼は貴族でこそなかったが、若い上に頭も良かったため、上級職に就けずとも、下級職ならば十分に可能性があった。

 しかし公職に就くためには、規模の大きい都市にある大学に通う必要がある。

 そのための「村を出て一緒に暮らしてほしい」という誘いであり、同時にそれは実質的な求婚でもあった。

 彼女に断る理由はなかった。むしろ、そうなることを夢見ていた。

 その一方で、家に残していく妹のことが気がかりでならなかった。妹は叔母夫婦にはもちろん、姉である彼女にさえ、興味を失くしてしまっているようだった。

 彼女は悩んだ末、妹も一緒に連れて行くことはできないか、と恋人の青年に相談してみた。

 妹は陰気な性格と思われても仕方ないかもしれないが、本来は優しい子だし、人に対して悪さをするわけではない。妹の分の生活費はぜんぶ自分が稼ぐ――そう伝えると、彼は「君がそうしたいのなら喜んで」と快諾してくれた。

 彼女は嬉しく、そして安堵したが、悩みはまだ残されている。

 ――妹は、首を縦に振ってくれるだろうか?

 嫌だと断られてしまえば、彼女には他に術がなかった。嫌々連れて行ったところで、妹が元気になるとは思えない。

 ――もし断られてしまったら、私と彼はどうなってしまうのだろう?

 自分は恋人か、妹かの二択を迫られるのだろうか。

 妹に話を切り出す勇気が持てず、不安を抱えて数日を悶々と過ごしていた彼女だったが、いつまでも放置して彼を待たせておくことはできない。

 彼女は勇気を振り絞って妹に訊いてみた。

 ――私と、私の恋人と一緒に村を出ないか、と。

 すると妹は、訊いた彼女の方が驚くほどあっさり、「いいよ」と即答した。聞き間違いかとも思い、何度も確認してみたが、返ってくる言葉は同じだった。それだけでなく、最後は「私も行きたい」と笑顔まで見せてくれた。

 とても久しぶりの笑顔だった。気がつけば、ここ数か月、いや数年という単位で、彼女は妹の笑顔を見てはいなかった。

 叔母夫婦に旨を伝え、話が決まったその日から、妹は目に見えて明るくなっていった。

 旅立つまでの準備の間にでさえ、妹はぽつりぽつりと彼女に話しかけてくれるようになった。

 彼女にはすべてが順風満帆に進んでいるように思えた。

 だが――。


 村を旅立つ前日に、妹は忽然と姿を消してしまった……。

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