33 介抱

 鷲のギルドの青年を背負い、宿に戻ると、部屋の窓が開けっ放しになっていた。

「イスラ?」

 留守番をしていたはずの黒狼がどこにもいない。青年を寝台に寝かせ、もう一度その名を呼んでみたが、やはり返事はなかった。

「どっかの影で寝てるんじゃない?」

 カホカの言葉に、「いや」とティアは頭を振った。

「イスラの気配がまったく感じられない」

 ティアは窓を見やる。

 風に、カーテンがはためいている。それが持ち上がるたび、隙間から夜の闇がのぞいて見えた。

「出かけたらしいな」

「どこに? 散歩?」

「わからない」

 イスラの外出先など、ティアには知る由もない。

 カホカとファン・ミリアの出会い、自分の死の状況、そしてルクレツィアの件など、色々と話したいことがあっただけに肩透かしをくらった気分で、ティアは青年に視線を戻した。

「さっきよりも顔の腫れがひどくなってきているな」

 まぶたも腫れてしまっているため、右目は塞がって見ることはできないだろう。

 上着を脱がせると、首から下のいたるところに殴られた痣ができていた。

「肩も脱臼しているな」

 ティアが言うと、「どれどれ」とカホカが寄ってきた。

「こんなもん、大したことないって」

 カホカは鼻歌交じりに青年の肩と腕を掴むと、「おら」と、はずれた肩を一瞬で嵌める。

「慣れたもんだ」

 ティアが感心するよりも呆れて言うと、「シダに稽古してやってる時に覚えた」と、おそろしい答えが返ってきた。

「気を失ってくれていて助かったな」

 起きていれば、かなりの痛みを感じたはずだ。

「シダは我慢してたよ。んじゃ、アタシはお婆ちゃんから薬と包帯をもらってきてあげる」

 事もなげに言って、カホカが部屋を出ていく。

「シダ、大変だったろうな」

 カホカの弟分のことを想いながら、傷だらけの青年の身体をじっと見下ろす。

 ふたりきりになると、カーテンのひるがえる静かな音だけが聞こえはじめた。

 青年の殴られた痣の、ところどころから血が滲んでこびりついている。

 ――血……。

 その、赤に対する意識がゆっくりと這い登ってくる。

 先ほど、ルクレツィアの首筋に触れた感触を思い出す。

 ――とても、うまそうだった。

 ルクレツィアの首に触れたのは、特に考えてのことではなかった。彼女の動きを制するため、無意識にティアが選んだ身体の部位だった。

 生きている証。

 脈打つ、心臓の鼓動。

 その血の流れ。

 彼女が逃走した後も、かすかに芽を出した欲望は、いまも糸を引くようにティアの渇望を疼かせている。

 ――カホカは……?

 足音は聞こえない。まだ戻ってくる気配はなさそうだ。

 ティアは、指先を青年の身体に触れさせた。労わるように軽く……けれども傷跡から滲む血がより指に付着するよう、ゆっくりと動かす。

 そうして血になじんだ指を、ゆっくりと自分の口に運んでみる。

 独特の香りと、鉄のような味。

 これが、自分の食糧。自分が、求めているもの。

「……おいしい」

 思わずつぶやく。

 どうしようもなく、そう感じてしまう。カホカの血を飲んだ時の、脳髄に一撃を喰らったような恍惚と陶酔ほどではなかったが、それでもティアの期待に応える程度には美味である。

 ――もっと……。

 自分の唾液で濡れる指を、気を失っている青年の傷跡に触れさせる。固まりはじめた血をふたたび溶かすように、指ですくって舌で舐め取った。

「ふふ……」

 嬉しくて、美味しくて、つい口元がゆるんだ。

 ゆらり、とティアの円らな瞳が右から左へと流れる。

 整いすぎた顔立ちの、その眉が楽しげに開く。

 繰り返し青年の血を指につけて舐める。そうしているうちに、

 ――噛みつきたい。

 より強い血への衝動に駆られていく。

 ……この男の血を飲み干し、他者の血を全身に行き渡らせたい。

 そう思った瞬間、ティアはとっさに青年から視線をそらした。

「……だめだ!」

 しっかりと声に出し、自らに言い聞かせる。

『ふたたび化け物になりたくなければ、腹を満たすのは少しずつにせよ』

 イスラからよくよく言い聞かせられた言葉を、頭の中で何度も反芻する。

 間の悪いことに、いまイスラはいないのだ。もし自分がリュニオスハートでの洞窟の時のようになってしまったら、きっと周囲の者たちを傷つけてしまう。

 誘惑と戦っていると、青年が「う……う」と、苦しそうに身じろぎした。

 はっとしてティアが見ると、青年の片目がゆっくりと開いていく。

「ここは……?」

 痛みに顔を歪めながら、青年がつぶやいた。

「安心しろ」

 青年に負担をかけぬよう、ティアは寝台の上に身体を乗り出し、その顔を真上から見下ろす。

「誰、だ」

 かすれた声で訊かれ、ティアは表情を和らげた。

「お前たち鷲の仲間だ。安心して眠れ」

「仲間に……」

 青年は譫言うわごとのようにつぶやく。

「伝えなければ……」

「わかっている」

 ティアはすべてを知っている風を装い、青年の額にそっと手を乗せた。

「何も心配はいらない……仲間のためにも、お前は眠らなければいけない……」

 ティアが優しい声音で話しかけると、青年は安心した様子で瞳を閉じた。

「それでいい」

 ティアが手を離したときにはもう、青年は安らかな寝息を立てている。

 ――眠ったか。

 ティアが身体を起こした。そうして部屋のドアを見ると、カホカが薬と包帯を手に、不機嫌そうな表情で立っている。

「そんなところで何してるんだ?」

 ティアが訊くと「別に」とカホカが唇を尖らせた。

「勘違いするなよ」と、先にティアは言っておく。

「彼を寝かせていただけだ」

「それは見てたからわかる。いま寝かせたの、吸血鬼の力ってやつ?」

「なに言ってるんだ。力なんて使ってないぞ」

「ふうん……」

 カホカは釈然としない表情で部屋に入ってくると、青年の介抱をはじめる。

「オレも手伝おう」

 ティアが申し出ると、

「アンタは絶対に手伝うな」

 断固として拒否されてしまった。

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