30 旅立ちのエルフⅤ《外伝》

 さっきから、隣の牢屋のエルフが妙にそわそわしている。

 気のせいだろうか?

 いや、気のせいではない。

 北国ノールスヴェルリアの港町キトーにて、エルフの第三皇女と名乗る娘と人買い船で同乗することになったサスは、寝転びながらエルフの奇妙な動きを見守っていた。

 エルフの娘――シィルは舟板の床に座ったかと思うと、なにやら落ち着かなげに身体を揺すり、数分もするとまた立ち上がって牢屋のなかを歩き回る。そうして数分後、また同じように座り込む。

 ひたすら無言で。

 そのくせ、表情はやたらと強張っている。

「おい、なぁ」

 いい加減、不審に思ったサスが声をかけた。

「さっきから何やってんだ、お前」

 横になって頬杖をつきながら尋ねると、シィルは「知りませんわ」と苦しそうな表情で答えたきり、またそわそわと身体を揺すりはじめる。

「うう……」

 と、シィルはいかにも苦しそうな呻き声を出す。

「いったい、船はいつ到着するのかしら」

「さぁな。東ムラビアのゲーケルンに向かっているはずだから、もうすぐといったところだろうよ」

 もうすぐといっても船の旅である、あと一日、二日はかかるだろう。

「早く着いていただきたいものですわ」

 苦しげな表情を浮かべながら、それでも口調だけは平静さを取り繕っている。が、よくよく見ると、シィルの額には玉のような汗がびっしりと張りついていた。

「お前、体調でも悪いのか?」

 さすがに心配になってサスが訊くと、

「いいえ、な……なんのことですの?」

 その言葉とは裏腹に、シィルは汗を滴らせ、表情を引きつらせている。

「せ、正常ですわ。むしろ正常すぎて困っているところですわ」

「はぁ?」

 理解しがたい返答である。シィルはあきらかにやせ我慢をしていた。

「けどお前、辛そうだぞ」

「つ、つらくなどありませんわ!」

 言いつつも、シィルは次第に呼吸を乱しはじめる。シィルはまた立ち上がると、ぐるぐると牢屋のなかを歩きはじめた。

 まるで檻に閉じ込められた熊のような動きに、サスは「もしかして、お前……」とようやく気がついた。

「我慢してんのか?」

「お馬鹿!」

 歩き回りながら、シィルは顔をこちらに向け、怒声を放つ。

「おしっこなど我慢していませんわ!」

 どうやら小便がしたいらしい。

「我慢しぎると身体に毒だぞ」

 親切心で言ってやったのに、「何のことしかしら」と、シィルはあくまでシラを切っている。

「いや、そうは言ってもよ」

 サスはだんだんこのエルフ娘のことが憐れになってきた。

「そこに壺があるだろうが。さっさとしろや」

 垂れ流しならともかく、牢屋には用を足すための壺が置かれている。すでにサスは何度もしているが、そういえばシィルは一度も利用していなかったと、ようやく思い至った。

「エルフの……」

 シィルは歩きながら、

「皇女たる私が、このような場所で用を足すなど……しょ、笑止ですわ。いいえ、そもそも……エルフは、そういうことは、いたしません」

「嘘つけ」

 種族が異なるとはいえ、女であるシィルに抵抗があるのはわかるが、状況が状況だ。サスもそれを当たり前のことだと思っているし、恥ずかしいことではない。

 そう説得してやっているのに、

「人間族の言葉なんぞさっぱりわかりませんわ」

 などと言いはじめる始末である。その癖、「ああ」とか「もう」とか、「スゥスゥカッ」とかを言いながら、シィルはその場に座り込んだかと思うと、

「……おしっこ……が……したい、ですわ」

 消え入りそうな声音でようやく白状した。

 ほれ見ろ、と言いたくなるのをサスは我慢して、

「オラ、そっち見ないでやるから、さっさと済ませちまえ」

 余計なことは言わない方がいいのだろう。もしシィルが本当にエルフの皇女なる存在だとするなら、彼女の言う通り、誇りだの名誉だのがあるのかもしれない。

 見てないことを伝えてやるために、サスは大きく寝返りを打った。

 なのに、いつまで経ってもシィルは立ち上がる気配を見せない。

「うっ……うう……うっ……」

 しまいには泣き声が聞こえはじめた。

 ――コイツ、漏らしたか?

 とうとうやっちまったかと、サスが気の毒に思っていると、

「誰か! 誰かおりませんか!」

 最後の力を振り絞って、なのかはわからないが、シィルは突然、船室の入口側の格子に取りすがった。

「出しなさい! 誰か私をここから出しなさい!」

 なりふりかまってはいられない、といった剣幕で、シィルは精一杯に声を張り上げる。

「早く! 時間がないのです、早く!」

 うわぁ……、とサスが苦りきった表情を作るも、切羽詰まったエルフ娘はそれに気づく余裕さえない。

「魔法石の原石も、シルビィハールも差し上げますから、ですから早く来て!」

 シィルは泣きながら檻の格子をがしゃん、がしゃんと揺するも、誰かが現れる気配はない。

「お花を……お花を摘ませてください!」

 もじもじと内股に腿をこすらせながら、すがるような声音で叫び続ける。

「お、おい」

 たまらずサスは起き上がった。背後からシィルに声をかける。

「いいから気にすんな。しちまえって! ほら、な!」

 必死で説得を試みるも、シィルは聞こえてさえいない。

 がっちゃん、がっちゃんといっそう激しく檻を揺すっている。

「紅茶なんて……紅茶なんて二度と飲むものかぁ!」

 わけのわからないことまで叫び出しはじめている。と、その時。

「来る!」

 くわっ、とシィルの濃緑の瞳が見開かれ、その動きが止まった。

 船室が静寂に包まれる。

 ――お、まじで誰か来たのか?

 これには内心で驚いたサスだったが……しばらく待ってみても人っ子一人でてくる気配はない。

 再び檻のなかのシィルが暴れはじめた。

「ああああ、来る! 来てしまいますわ!」

 来たのは限界らしい。

「バカ野郎! だったら早くしろ! 壺だ、壺!」

 語気を荒げ、思わずサスも格子を掴む。

「早く早く早く、開けて開けなさい開けて!」

「壺だっつってんだろうが!」

「だめ、来ちゃう! あああああああ!」

「壺にしろっつってんだろうがぁ!」

 室内は絶望と絶叫に包まれていた。

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