29 遭遇Ⅵ
やや前傾に姿勢を保つ。
周囲の気配に神経を尖らせながら、ルクレツィアは一歩一歩、確かめるように歩を進めた。
――いるわね。
曲がった先。こちらに対して気配を隠そうともせず、ルクレツィアが来るのを待っているようだ。
殺気はまったく感じられない。
曲がり角のぎりぎり手前で、さらに感覚を研ぎ澄ます。
――ふたり。
なにか話をしながら、こちらを意識している。
ルクレツィアは見えない路地の先に立つ、カホカと女のふたつの像を脳裡に描いた。想像ではない。それはたしかに今、存在している現実のふたりの姿と一致している。
――ここまでか。
ルクレツィアは緊張をゆるめ、吐息をついた。
これ以上はどうにもできない、そう判断した。
誘惑を、意思の力によって断ち切る。
この角の向こうに待つふたりに対し、勝機はなさそうだった。隙をつこうにも、ああも見事に待ち構えられてはどうしようもない。
――これが最後ってわけじゃないもの。
素早く頭を切り替える。
いま一番大事なことは、自分が知り得た情報をつつがなく主であるファン・ミリアに伝えること。
そう自らに言い聞かせ、
冷たいものがぞくりと背筋を走った。
「……決して、振り向いてはいけない」
突然、背後から聞こえた女の声。
「――何?」
あわてて回避の動作をしかけるルクレツィアよりも早く、彼女の首筋に、冷たい指先がはりつくように触れた。
――頸動脈……。
急所を完全に掌握され、ルクレツィアの動きは静止を余儀なくされた。
「動いてもいけない」
再び、女の声が耳に届く。
ルクレツィアは驚愕に唇を震わせた。首筋に直接触れられるのは、なまじ刃物を押し当てられるよりも薄気味悪さを感じる。
「なぜ……いつの間に」
まったくわからなかった。ここまで容易く相手の接近を許すほど油断した覚えはない。すると。
「やっぱり、ルクレツィアだったんだ」
もうひとりの声。カホカだ。
袋小路から姿を現したカホカは、憂鬱そうな表情を浮かべていた。
「やっぱ、アタシの言い方が悪かったのかなぁ」
はぁ、と溜息をつく。
「サティアとは、本当に友達になれると思ったんだけどな」
カホカの口調は本音のように聞こえた。ずきりとルクレツィアの胸に痛みが走ったものの、こうなってしまった以上、誤魔化すことはできない。
「……私の尾行に気づいていたのね。いつ?」
ルクレツィアは訊いてみる。
「宿に戻るまでは気づかなかったよ。気づいたのはアタシじゃない」
その言葉に、ルクレツィアは無言のまま意識を背後に向けた。
いまも首には指が当てられている。
「申し訳ないとは思ってるわ」
あきらめ、ルクレツィアはカホカに視線を合わせると、全身から力を抜いた。
「カホカがサティと仲良くしてくれること、嬉しいって言ったのは嘘じゃない」
「でも、気になった?」
「ええ、すごく」
ルクレツィアは認めて笑う。
「あなたたち、いったい何者なの?」
「何者なんだろうねぇ」
カホカはルクレツィアではなく、背後の女に話しかけた。
「決めかねているところだ」
女が生真面目そうな返事をした。
「――だが、場合によってはあなた方にとって、私は好ましくない存在になるかもしれない」
「だってさ」
と、カホカがルクレツィアに話しかける。
「……聖ムラビア?」
思いつくままにルクレツィアが訊くと、「はずれ」とカホカが答えた。
「アタシたちは正真正銘、東ムラビアの出身。愛国心ってやつはこれっぽちも持ち合わせちゃいないけどね」
「カホカ」
女から注意され、「へーへー」とカホカはこうるさそうに手を振る。
それからしばらく誰も話さず、路地に沈黙が訪れた。
ルクレツィアに当てられた手が、いつまでもひんやりと冷たい。
ようやく口を開いたのは、女だった。
「道が生き方によって選び取られるものならば、ファン・ミリアという存在を、避けて通ることはできないのかもしれない」
月が、雲間から姿を現す。「だが」と、女は続けた。
「カホカのためにも、また私自身のためにも、筆頭とは事を構えたくない」
――筆頭……。
ファン・ミリアのことを筆頭と呼ぶのはいかにも不自然である。
そして、だからこそ女があえてその言葉を口にしたのはわかった。
――本当に、何者なの?
ルクレツィアの疑念が極まった時、通りから、何者かが駆け込んでくる足音が響いた。これには女も予期していなかったのか、わずかにルクレツィアから注意がそれた。
――好機。
ルクレツィアはすかさず女の手から逃げるように頭を落とした。と同時に両手で女の手を鋭く払う。身体を逆さにその場で宙返りを打ち、突き出すような蹴りを放った。
「チッ」
舌打ちとともに、女は上半身を後ろに反らしてルクレツィアの蹴りをかわす。
――甘いわね。
着地し、しゃがみこんだルクレツィアの手にはすでにダガーが握られている。
――思った通り、動きはそれほどじゃない。
ルクレツィアの身体が伸び上がり、月の光にダガーの刃が煌めいた。
あくまで威嚇のつもりだった、上半身を反らした女をさらにのけ反らせ、地面に尻持ちをつかせる。
間違いなく成功する。その確信があった。
だが――
「なっ!」
あろうことか女は自分からダガーに飛び込むように上半身を起こしてきた。
「バカな!」
激しく狼狽するルクレツィアの瞳に、フードを落とした女の顔が映る。
あまりに予期せぬ動きにダガーを完全には止められず、勢いに流れた刃が女の額をかすめた。
はじめて見る女の顔に、赤い線が走り、その飛沫が地面に撒かれる。
一方、路地に駆け込んできた者は、まるでこちらを見ようともせず、角を曲がって奥の袋小路へと走っていってしまう。
「なぜ、避けないの……」
ルクレツィアもまた、女から視線を逸らすことができない。
「これを手打ちに詮索を止めてもらえるとありがたい」
息を呑むほどの美しい面を、早くも赤い血が染めはじめている。
「……ルクレツィア、私の頼みだ。聞いてくれないか?」
女の瞳が、じわりと赤く蠢いた気がした。
――この瞳を見るのは、まずい!
ルクレツィアの直観がそう告げている。その時、背後から、
「ルクレツィア。アンタ、調子に乗りすぎだよ」
怒りを宿したカホカの声が聞こえ、ルクレツィアはとっさに身を屈めた。その頭上を鎌のような蹴りが通過する。
「避けないと潰れるよ」
通過したカホカの足がピタリと止まった。そこから弦を引き絞るように力を溜めた踵が、ルクレツィアめがけて急角度で落ちてくる。
「くっ!」
必死の気持ちで横に跳んだ。一瞬前まで自分が立っていた地面を、カホカの踵が打ち砕く。ルクレツィアは壁を蹴り、宙を舞いながらダガーを投擲した。
カホカはそれを難なくつかみ取るや、
「こんにゃろ」
苛立ち、ルクレツィアを見上げて投げ返そうとする。
「よせ、カホカ」
女が制止をかけた。
ルクレツィアはさらに逆の壁を蹴り、建物の屋上へと跳び上がっていく。
最後に路地を見下ろした時、通りからさらに数人が路地へと駆け込んでくるのが見えた。
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