6 月と狼
体内で、何かが引っかかるような手応えを感じた。
……来たか!
教会の屋根の上で影が瞬時に狼を形作り、イスラが
「まったく、冷や冷やさせおって」
深く安堵の息を吐く。まるで
雲ひとつない夜空に完全な月が上っている。
瞬きひとつせず、イスラは月に鋭い視線を投げやった。
その白銀の月に異変が起こった。
「良い目が出てくれよ」
これで全てが決まる。
夜の女神たるイースラス・グレマリーは月へと祈りの力を注ぐ。
やがて、月が完全に光を失い、新月のように夜に隠れて見えなくなった。
「赤じゃ! 赤を出せ、……出さぬなら貴様を
月に脅しをかけるように、イスラが猛々しく命じる。
風が巻き起こった。
まだ春先にも関わらず、風は真夏のような熱と湿気を
一転して風が止み、静寂が世界を支配する。
その時、どこからか羽音がした。はじめは虫の音かとも思われた羽音は、森全体に波紋を描くように、いたるところから聞こえはじめる。
一匹の
大量の蝙蝠の群れが、夜空の中天を目指して次々と飛び立っていく。
その先には、赤い、
堂内に、絶叫が響き渡った。
「こいつ、クソッ! 指を噛み切りやがった!」
別の男が叫ぶ。両手が離され、ティアは頭から床に落下した。
抗う術もなく脳天を打ちつけ、うつ伏せになる。血が髪を濡らし、顔をつたって流れ落ちていく。
「ふざけやがって」
指を噛み切られた男が激高し、ティアの腹を蹴り上げた。宙に飛ばされ、床をはずみ、ティアは信者席につっこんでいく。
「……ぅ……」
ごろりと仰向けになったティアの口から、こぼれるように親指が吐き出された。唇が、口紅を塗ったように赤い。
盗賊たちのうち、禿頭の頭領が歩いて来て、ティアを見下ろしてくる。
「……ざまぁ……みろ……」
負けじと見返し、ティアは笑ってやる。
――どうだ、タオ=シフル。
もうひとりの自分に話しかける。
ただで死んでなんかやるものか。お前がそうしたように。ボロボロになったとしても、オレは負けやしない。
「女の割にはいい根性してやがる。だが、もう容赦しねぇ」
両膝をつき、頭領がティアに覆いかぶさってくる。
中央を縦に切り裂かれた服に頭領の手がかかった。
その時、突如としてティアの身体が大きく跳ねた。
「なんだぁ?」
たじろぎ、男があとずさった。ティアは二度、三度と
「……ァ」
焦点の合わない瞳が、不気味に縦横に揺れた。
「アァァァァァァァァ……ッ!!――」
闇が、迫ってくる。ティアという重力に引かれ、闇が隕石となって落ちてくる。
隕石同士がぶつかり合い、脳内で激しい明滅を繰り返す。
自分の手足が伸び、どこまでも遠ざかっていくような感覚があった。熱病にうなされた時のように、自分の周囲の空間が膨張を続けていく。足の下が、底の見えない深い井戸のようにぽっかりと黒い口を開けている。
その暗い井戸から、どろりとした軟質の黒い液体がゆっくりと上ってくる。
襲来する敵。
乙女の祈り。
守るべき領民。
貴族の務め。
串刺しの人々。
黒い夜。
朽ちた教会。
開かれた棺。
血を
それは言葉となり、明滅とともにティアの意識の底に刻み込まれていく。その度に耐えがたい頭痛が襲ってきて、気を失いそうになる。
逃げることもできず、ティアは叫び続けた。
「なんだってんだ……」
盗賊のうち、指をなくした男が顔を蒼白にして、苦悶の表情でのたうつティアを見下ろしていた。
「おい」
と、別の男が、さらに別の男に話しかける。
「なんかやばそうだ。逃げた方がいいんじゃねぇか?」
男が、禿頭の頭領に言った。けれども話しかけられた頭領は、ぼんやりとした表情でティアを見下ろしたまま、何も答えない。
「おい!」
肩を叩かれ、頭領ははっと気づいたように振り返った。
「あぁ、そうだな。よし、お前らは先に行っていいぞ」
「残るのか?」
「……何か文句があるのか?」
腰に佩いた剣を抜き、仲間の首元につきつける。
「な、何すんだよ!」
「さっさと行きやがれってんだ!」
怒鳴りつけられ、頭領をのぞいた四人が足早に教会を出ていく。
禿頭の頭領はひとりティアを見下ろす。
何もせず、ただじっと見下ろしている。
もっと早く気づくべきだった、と男は思う。
こんな山奥の森にある教会に、血だらけの服を着た娘が棺の中に入っている。
明らかに異常なことなのだ。だが、男はそれに気づかなかった。いや、気づいてはいたがこの娘の美しさに欲望がうずき、頭の片隅へと追いやってしまった。
足が、動かない。
もう、眼をそらすことさえできなくなっている。いますぐにでも逃げなければならないのがわかっているのに、それができない。まるで全身を見えない縄で縛り上げられたように、動くことができない。
視線の先の娘から発せられる叫びが、唐突に止まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます