7 ティア

 稲妻のような閃光が走り、すべてが暗転した。

 ティアはゆっくりと眼を開く。

「ぅ…く」

 心臓が暴れるように全身を揺らしている。名残りのような頭痛に、ティアは顔をしかめた。

 苦しい身体のなかで、それでも感じるものがある。

「わかる……」

 それは、心臓の鼓動とともに全身の隅々にまで送り出されていく、ティアがはじめて経験する力の流れだった。

 ティアは確信した。

 その流れを辿り、り合わせるように指先に意識を集中させる。力を込めると、ゆっくりと指が曲がっていく。

「動く……!」

 興奮気味につぶやいた。

 指が動く、ただそれだけのことがひたすら嬉しかった。

 あとは同じ要領だった。指先から掌、掌から手首、そして腕へと。関節がきしむような感覚はあるものの、それでも確実に動いてくれる。

 どこかを動かそうとすると別の部位の動きがおろそかになる。全身に汗をにじませながら両腕を動かし、時間をかけてごろりとうつ伏せに反転した。両の掌にありったけの力を込めて身体を浮かし、膝をつっかえ棒のように立てる。

 頭痛に息を喘がせながら、震える脚に力を込めた。転び、また四つん這いになり、何度も起き上がろうとする。まるで自分が生まれたての馬か何かになったような気がしたが、実際そうなのだろうと思った。

 まだ、自分は生まれたばかりなのだ。

 ――それでも、ちゃんと……。

 ずるりと、裂かれた服の右半分が落ちた。白い肩が剥き出しになる。

 紅い満月の光が、教会の屋根の穴からティアへと落ちてくる。

 半立ちになり、かすかに微笑を浮かばせ、血に濡れた前髪から、その赤い瞳がゆっくり、ゆっくりと持ち上げられていく。

 瞳の先に、金縛りにあったように男が棒立ちになっている。群れからはぐれた仔羊が狼に見つかった時のように……恐怖で涙を流しながら。

 ティアは悦びで赤い唇を震わせた。恍惚こうこつに脳味噌がとろけそうになる。

 ――ご褒美は、ちゃぁんと、待ってくれているから。

 

 

 よろよろともたつく足に注意を払いながら、ようやくティアは男の前に立った。

「……た、助けてくれ」

 男は涙を流しながら命乞いをする。

 ティアはカクンと首を横に倒した。興味深そうに男を眺めながら、男の頬に指先を当てる。涙の湿り気と、その体温を感じた。心臓の鼓動が早く、異常な緊張状態に陥っている。

「よく、思い出せ」

 ティアは男に話しかける。

「お前は助けてくれと言われて、助けたことがあるか?」

 男が、ごくりと唾を飲み込んだ。ティアは男の頬に爪を喰い込ませた。爪に血を載せ、それをこぼさぬよう、ゆっくりと指先を男の口に差し入れる。

「自分の血を味わいながら、よくよく言葉を選べ。真実か、嘘か」

 指を抜くと、男は涙を流しながら、「ない」と答えた。

「それでも助けて欲しいと?」

 返事はなかった。男は言葉を忘れたように、ひたすら恐怖に打ち震えている。

「……わからない」

 ぽつり、とティアはこぼした。

「オレは、お前を助ければいいのか、それとも……」

 狂おしいほどの喉の渇きを感じていた。カラカラに乾いている。今すぐこの男の腹を十文字に切り裂き、血にぬめる生暖かい臓物を引きずり出し、血を啜って喉を潤したい。

 想像するだけで、甘く陶酔した気分になる。

 誘惑にてず、思わず手を伸ばしかけた時、ズキリと頭にきりを打ち込まれたような痛みが走った。また頭痛がぶり返したようだった。

「なぜ、自分は殺されたくないのに人を殺す?」

 なぜ、そんな理不尽な考え方ができる?

 頭を押さえ、苛立ちを募らせながらティアが睨むと、男は弾けたようにまた命乞いをはじめた。「もうしない」「これからは人のために生きる」「奪った金は貧しい家族に配って回る」など、思いつく限りの綺麗事を並べてはティアに許しを請う。

 一瞬だ、と思った。

 いまなら一瞬でこの男を殺すことができる。首の動脈を断ち切り、全身に血を浴びることができる。造作もないことだ。

 それなのに。

 本当にそうしていいのだろうか、という疑問がくびきとなってティアを押し止めようとする。

「くっ……」

 頭が割れるように痛い。

 ――オレなら、どうする?

 タオ=シフルならどうするだろう。

 人殺しをするような罪人を、タオ=シフルは赦してやるのだろうか。

 胸がじわじわと熱くなっていく。いったん熱を持ちはじめると、まるで火がついたように、またたく間に全身に燃え広がった。あまりの熱さに呼吸さえもままならなくなる。

「くぅ……」

 うめき声を漏らし、ティアは苦しい胸を掻きむしるように、頭をがくりと深く落とした。その瞬間、男の束縛が解け、どさりと尻もちをつく。

「……消えろ」

 うつむき、しぼり出すような声音に、男が意味がわからないといった様子でこちらを見上げてくる。

「……早く、消えろ。殺されたいのか?」

 鋭く、牙のように尖った歯を見せて威嚇すると、男はわけのわからないことを口走りながら教会を走り出ていった。


 ◇


 男は教会を出ると、飛び込むように森の茂みへと入っていく。

 一歩でも遠く、とにかく教会から離れたかった。

 走り続け、空気を求めるように顎が上がり、ようやく速度をゆるめた。

 手近な木の幹に背を預け、荒く息をつきながら、その場に座り込む。

 大きく息を吐いた。汗が、滝のように頭から流れ落ちてくる。乱暴に額をぬぐって見ると、空には赤月が浮かんでいた。

「なんだってんだ……」

 あの女は。人なのか、化け物なのか。

 喰われる、と思った。間違いなく、自分はここで死ぬのだと。

 捕食する者と、される者。これまで、男は捕食する側だった。旅人や商人を襲っては身ぐるみを剥ぎ、殺して荷を奪った。

 それがあの教会において、立場が逆転した。

 いつの間にか自分は捕食される側になっていた。

「助かったのか」

 まさか、生きて逃れることができるとは思わなかった。

 男がもう一度、深く息を吐くと、

「いいや、助かってはおらぬ」

 頭上から声が聞こえた。

 座り込んだまま、男は顔を上げた。その顔に、何か――汗ではない滴が落ちてくる。

「ひっ!」

 男が短い悲鳴を上げた。もたれた木の太い枝から、黒狼がこちらを見下ろしている。さらにその脇に、すでに絶命し血まみれになった仲間たちが引っ掛けるように吊り下げられていた。その血の滴りが、男の顔に点々と降り注ぐ。

「さんざんっぱら陸辱りくじょくを楽しんでおいて、よもや生き永らえるとは思わぬよな」

 イスラが、見せつけるように口を拡げた。噛みしめた牙から、仲間のはらわたがぞろりがはみ出している。

「ティアが赦そうと、私は赦さぬ」

「うわぁぁ!」

 男は絶叫し、立ち上がりかけた。それよりも早くイスラが枝を蹴った。急降下したイスラと逃げかけた男が、葉影の下に交叉する。

 はげしく血しぶきが舞い上がった。喉元を噛みちぎられた男が白目を剥き、その場に崩れ落ちる。

「やれやれじゃ」

 倒れた男に一顧だにせず、イスラは中空の満月を見上げた。

「ティアめ、まさか血を飲まぬとは」

 その声は、呆れるようでもあり、どこか感慨深げでもあった。

 

 ◇


 ひとりになった教会で、ティアは両膝を床についた。

「タオ……シフル」

 かつての自分の名をつぶやき、弱々しく顔だけを持ち上げた。

「オレは……」

 放心したように月を見上げる。

 ずっとそうしていると、

「お前には、驚かせられる」

 声がした。気がつくと、目の前にイスラがお座りの姿勢を取っていた。

「なぜ血を飲まなんだ? お前が情けをかけてやる程の者でもなかろうに」

 じっと、呆けたようにティアはイスラを見つめる。

 やがて、ティアの赤い瞳が揺れた。一筋の涙が流れ落ちていく。

 さきほど感じた息が詰まるような熱さは、いつしか空虚さへと変わった。その空っぽになった胸の中を埋めるように、いくつもの感情が怒涛の波となって流れ込んでくる。

 あっという間に胸がいっぱいになった。それでも波は止まらない。

「……う」

 わけもわからず涙が溢れた。

「うう……」

 とめどなく流れ落ちていく。

「うっ……ううっ……」

 こらえきれず、声が漏れて出る。それを止めようとすればするほど、嗚咽がこぼれた。

「うあぁぁぁ……」

 しゃくりあげ、ティアは大声を上げて泣いた。もう、我慢できなかった。

「良い。お前はようやった。好きなだけ泣け」

 言われ、ティアは子供のようにイスラに取りすがり、むせび泣く。

 胸を締めつけられるほどに、切ない悲しみが広がっていた。

 自分が永遠に失ってしまったもの。そして新たに得た何か。

 ティアはただ泣き続けた。

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