8 帰郷

 夕暮れが赤い。

 血のように濡れた太陽が、長い斜光を街へと投げかけている。

 一週間ほどかけてシフル領に入ったタオとイグナスが、ようやく故郷の街を一望できる丘にたどり着いた時だった。

 城壁は街全体をぐるりと取り囲んでいる。その石のかいなに抱かれ、ひしめきあう家々のなかに、シフル家の屋根も見えた。

「おいおい……こりゃあ」

 イグナスがつぶやく。この陽気な男が見せた、はじめての緊張の面持ちだった。

 同様にタオも街の異常に気がついていた。

「そんな……」

 ありえない光景。いや、あってはならない光景が眼前にひろがっている。

 自分の眼が信じられなかった。

 街のいたるところから、黒煙が立ち昇っている。黒煙だけでなく、炎が噴き出している建物もあった。はじめは火事かとも思ったが、火事と呼ぶには黒煙の上がり方があまりに恣意的に過ぎる。

 地獄の窯が開いてしまった。そう思わずにはいられぬほどの毒々しいまでの赤。

 タオは、走りはじめた。

 イグナスが何かを叫んでいるようだったが、耳に届く言葉はなかった。つい先ほどまで感じていた脇腹の痛みさえ忘れてしまっていた。

「嘘だ……」

 タオは駆けた。坂で足がもつれ、地面に転がる。すぐに起き上り、また駆けた。

 城門は開け放たれている。いつもなら一日の農作業を終えた領民たちが帰ってくる時間のはずが、ひとりとしてその姿が見当たらない。

「嘘だ」

 呼吸を荒げ、開かれた門から見える街の景色は、まさに地獄そのものだった。

 領民たちが、いたるところで倒れている。

 タオはよろよろとした足取りで、城壁の内側へ――地獄の門をくぐった。

 

 自分はいまどこにいるのだろう。

 これは、本当に現実なのか。


 わからない。

 わからないままに、タオは歩く。

 通りのパン屋の前で、母親らしき女性が、前のめりに倒れ込んでいる。一縷いちるの望みをかけ、タオは走り寄った。

「大丈夫か!」

 お願いだから生きていてくれ、そう何度も念じながら、女性の肩を揺らす。だが、タオの手がぴたりと止まった。

 女性はすでに冷たくなっていた。その下で、隠れるように身を縮める幼子もまた……。

「あ、ああ……」 

 ふたりの身体には、火傷の痕はなかった。かわりに、刃物による切創きりきずが無数につけられている。

 苦しい。

 呼吸の仕方が思い出せない。

 タオは道の真ん中で、胃のなかの物をすべて吐きだした。

 それでもなお、心臓が、肺が、切り刻まれ、喉を這い上がってくる感覚がある。

 

 行ってはいけない。

 けっして見てはいけない。


 頭のなかで、もうひとりの自分の声が引き返せと激しく警鐘を鳴らしている。

 しかし足は止まらなかった。意思とは関係なく、足がシフル家の屋敷に向かって歩いていく。


 ◇


 同刻。

 丘の上で、白馬にまたがったファン・ミリアが破壊されたシフルの街を見下ろしていた。

「なんということを……!」

 柳眉をひそめ、紫の瞳には怒りが宿っている。

「なぜここまでする必要がある」 

 ファン・ミリアの手綱を握る拳がわななく。それを敏感に感じ取った愛馬が、不安そうに眼をしばたかせた。

「これではただの殺戮ではないか」

 タオ=シフルが悪魔というのなら、彼ひとりを罪に問えばいいだけのことだ。領民にまで罰をくだす必要がどこにあるというのか。

 ファン・ミリアは手綱を打った。

 白馬は一陣の風となり、丘を駆け下りていく。


 ◇


 シフル家の屋敷が激しく燃えている。

 火の粉が舞い、タオの顔を赤く照らし出す。轟音とともに壁が崩れ落ちる。屋敷の門から玄関扉にいたる石の通路の上で、タオは立ち尽くしていた。


「う…ぅ…あ……ぁ……」

 

 絶望が、涙となって頬を伝い落ちる。

 言葉にならない嗚咽は、獣の唸りにも似ていた。


 逆光のなかで、タオの家族たちが冷たい影を作っている。

 魂の抜け殻となった影たちが、地面に突き刺さった長槍によって宙に縫いつけられていた。

 父親の影、母親の影、兄の影、姉の影、妹の影、シフル家に仕える、すべての者たちの影……。


 頭がうまく回らない。何が起こっているのか、まるで現実感がなかった。激しい頭痛がした。耳鳴りがする。大音量の言葉にならない音が、頭の中で大きな渦を巻いている。

 複数の馬のいななきが背後で聞こえた。

「タオ=シフル」

 自分の名を呼ばれたのだろうか。

 タオはただ、家族の影を途方に暮れた瞳で見つめ続けた。

「タオ=シフルだな」

 何度も呼びかけられる。

 ――誰だ、オレの名を呼ぶのは。

 ようやく、タオは肩越しに振り返った。

 その、絶望に沈む灰褐色の瞳が捉えたもの。

 騎士の一群が、馬から降りてこちらに歩いてくる。

 中央に立つ金髪の青年騎士が、ことさら見る者を威圧するように肩をそびやかしている。

「余がウラスロである」

 青年の男は、それだけ名乗れば十分といった様子で冷たい碧眼を光らせた。

 タオも、もちろんこの男を知っていた。

 ウラスロ=ディル=ムラビア。

 東ムラビア王国の第一王子にして、王直属の特務部隊の長である。

 だが、もはやタオにとってはどうでもいい名だった。

 だから無視した。

 タオは魂の抜けたような足取りで、影となった家族たちへと近づいていく。

 ウラスロの顔に不快の色が走った。

「神の末裔たる余に対するその傲岸不遜な態度、まさしく悪魔と呼ぶに相応しい」

 タオの肩が、わずかに反応した。

「おお」とウラスロは喜色を浮かべ、挑発するように口元をゆるめた。

「悪魔は人語を解すというが本当らしいな。今日、余は実に多くの知識を得たぞ。一つ、悪魔は人語を解す。一つ、悪魔は女子供のように女々しくすすりく」

 いびつな笑みを浮かべ、ウラスロは腰にいた剣を引き抜いた。夕陽に輝く両刃のところどころに、凝固した血がこびりついている。

「そして――悪魔は徒党を組む。まったく、なんと不快な土地だ。素直に貴様を差し出せばよかったものを、抵抗し、あまつさえ余に傷をつけるとは。滅んで当然だな」

 言いながら、ウラスロは自分の顔についたごく小さな傷を示した。

 その瞬間――

「がぁぁああああああ!」

 身体を振り向かせ、タオが駆け出した。

「殺してやる!」

 絶叫するタオに、クハ、とウラスロは嘲りの笑みをこぼす。

「来い、タオ=シフル。――お前たち喜べ! 待ちに待った化け物退治だ!」

 応、という声が重なった。特務部隊の兵士たちがそれぞれの得物を構える。

 タオの前に、壁となる大男が立ちはだかった。大上段に斧槍ハルバードを振り上げる。

 タオに武器はない。剣はシズ村での一戦で失われている。

 そして、兵士たちの戦闘力もシズ村とは比べものにならないほど高い。大の大人ひとりぶんの重量がありそうな斧槍が、次の瞬間には地を叩いている。

 紙一重でタオの服が裂けた。

「ガァァ!」

 兜の面頬めんぽおごしに、大男の顔面を殴る。が、大男はびくともせず、逆に胸倉を掴まれ、タオは石の通路に叩きつけられた。

 激しい殺意が、痛みを凌駕りょうがした。

 タオはすぐに飛び起きた。そこへ、斧槍がタオの心臓を目がけて突き出された。

「オォォアァァ――ッ!」

 上半身を左右に振り、突きをかいくぐる。タオは伸ばした左の掌を大男の鎧の胸元に押し当てた。そうしてもう片方の右腕を大きく振りかざす。付与魔術エンチャント・マジックによって、直接、両の掌に魔力を注ぎ込む。

 聖騎士になる夢が走馬灯のように脳裏に浮かぶのを、タオは振り払った。

 輝きを帯びた右の掌が、大男に押し当てた左手の甲に重なった。  

貫通ペンネトラーツィオ!」

 瞬間、大男の胸から背中を、光とともに衝撃が走り抜けた。大男は吐血すると、二、三歩後ずさり、そのまま倒れていく。タオの両手もまた威力に耐え切れず、炸裂したように血が霧状に噴き上がった。

 息をつく間もなく、左右から二本の剣がタオめがけて振り下ろされる。半身をそらして右の剣を避けたが、左は間に合わず、タオの左肩を深くえぐった。

 それでもタオは止まらなかった。右腕を振り、肘を兵士の眼に突き当てた。

「ぎゃぁ!」

 という悲鳴を耳に、さらに男の股間を蹴り上げる。肩に刺さった剣を抜いた。すでに両の掌の感覚はなくなっていたが、タオはむりやり両手で挟み込むようにして剣を持つ。

 ウラスロの姿は騎士の人垣に邪魔されて見えない。

 タオは突進した。

「おぉあぁぁ!」

 叫びながら剣をふるう。

 斬った回数よりも、斬られた回数のほうがはるかに多い。

 視界が、真っ赤に染め上げられていく。じきに目が見えなくなった。

 それでも剣を離さなかった。せめて、ウラスロに一撃するまでは。

 だがその想いもむなしく、ドン、と何かがタオの身体を貫いた。貫かれた部分から全身の力が吸い出されていく。そう思った時、背中を袈裟に衝撃が走った。

 ぐらり、と天地が逆転したような感覚に襲われ、硬いものが左半身にぶつかった。そこではじめて、タオは自分が倒れたことを知った。

った方か」

 黒一色となった視界のなかで、ウラスロの声が耳に届く。何かが、タオのこめかみから頬にかけて押し当てられた。

「コ……ロ……す」

「情けない悪魔だ。啼くしか能がないとは」

 ウラスロの勝ち誇ったわらい声が降ってくる。

 ――みんな……オレのせいで。

 仇さえも討つことができずに。

 ――オレは、いったい何のために生まれてきたのだろう。

 夢破れ、家族を失い、守るべき領民さえも失った。

 ただ、黒い絶望だけがあった。


 ◇


 ファン・ミリアがシフル家の屋敷に到着したのは、ウラスロが倒れたタオの顔を踏みにじった、まさにその時だった。

「おお、ファン・ミリアではないか」

 いち早く気づいたウラスロが、顔中に満面の笑みを浮かべる。

「殿下」

 一方のファン・ミリアは青褪あおざめた表情でその場に立ちつくしている。

「これは、いったい……」

 ファン・ミリアの瞳に、無残に斬り刻まれ、地に伏したタオ=シフルの姿と、串刺しになった黒い影たちが映る。

「ちょうどいま、憎き悪魔を成敗したところよ」

 ウラスロが得意げに胸を張った。まるで、褒められるのを待つ子供のようだ。

「なんというむごいことを……」

「何を言っているのだ」

 とたんにウラスロは鼻白んだ顔つきになった。

「悪魔に正義の鉄槌を下すのは、王家の者としての当然の義務だ」

「……ではなぜ、タオ=シフル以外の者にも手をかけられたのですか」

 ファン・ミリアはウラスロを非難するように睨む。

「そのことか」

 ようやく得心した様子で、ウラスロは自分の頬についた小さな傷をファン・ミリアに見せつけてくる。

「この家の者に対してタオ=シフルを引き渡すよう要請したところ、突然、余に斬りかかってきたのだ。正気の沙汰とは思えぬ。それだけではない。仕方なく余が制裁を加えたところ、身分もわきまえず領民さえもが余を非難しおった。悪魔を庇護し、信奉する者らもまた悪魔よ」

 言い、ウラスロは「誠に余も悲しんでおる」と、取ってつけたような溜息をこぼした。

 ファン・ミリアは茫然とするしかない。それをどう勘違いしたのか、これで話は終わったとばかりにウラスロは次の晩餐会の話題を持ち出し、

「ここで其方そなたと出会ったのも神がつくりたもうた良きえにしよ。余は其方に晩餐会に出るよう、何度も申しつけたはず。にも関わらず、いっこうに顔を出さぬ。奥ゆかしい其方の性格を尊重してやりたいとは思うが、いい加減、余も痺れを切らした。次は必ず出席するのだ」

 これは命令だぞ、とウラスロは鷹揚な素振りで笑う。

「勇ましい戦装束もいいが、ファン・ミリアよ。たまにはドレスも悪くないものだぞ。色は、やはり青がいい。余の専門の服飾士に特別に仕立てさせよう」

 この男は、いったい何を言っているのか。

 ファン・ミリアは言い知れぬ無力感を味わいながら、タオの前にひざまずいた。仰向けに抱き起してやると、奇跡的にまだ息があった。その口から、ごぼりと血が溢れ出る。

 ――この者が、タオ=シフル。

 十六歳と聞いてはいたが、想像以上に若い。青年というよりも、まだ少年の面影を強く残している。

「せめて、この者を神の御許みもとへ送ってやろうと思います」

 それだけ言うのがやっとだった。

 ウラスロは一瞬、何かを言いかける素振りを見せたものの、結局何も言わず、配下を引き連れて屋敷を去っていった。



 ファン・ミリアはひとり、静かな視線をタオへと注ぐ。

「はじめての出会いが、末期さいごの別れになってしまったな」

 自身の情けなさに、嫌気がさす思いだった。

 すると――

「……う……ぁ」

 常人ならばとっくに死んでいてもおかしくない身体の、どこにそんな力が残っていたのか、タオが緩慢な動作で起き上がろうとする。

「タオ=シフル?」

 その灰褐色の瞳には、すでにファン・ミリアの姿は映っていないようだった。

 タオは拒むようにファン・ミリアの腕から逃れると、石の通路に両手をつき、まるで何かを探すようにゆっくりと這っていく。

「何がしたい。どうしてほしい?」

 たまらずファン・ミリアは声をかけた。

 だが、タオはファン・ミリアの言葉に何の反応も示さない。

 いや、とすぐにファン・ミリアは気がついた。

 ――彼は目だけでなく、すでに耳も聞こえなくなっている……。

 タオは石の通路から土の部分へと身体をひきずっていくと、血にまみれた両手でその土を掻くような動きをみせた。

 ひたすら土を掻き続ける。

「まさか……」

 ようやくタオの意図がわかった時、ファン・ミリアは鈍器で頭を殴られたような衝撃を覚えた。

「なんという……」

 その言葉が震えている。

 ――彼は、墓を作ろうとしているのだ。

 最後の力を振り絞り、自分の大切な者たちのために墓を作ろうとしているのだ。

 壊れた両手で、タオは穴を掘る。

 ファン・ミリアはもう一度、タオを起こした。強く抱きしめる。

「もういい」

 たまらなかった。胸が潰れそうだった。

 これほど高潔な魂を持った者が裏切りなどするものか。悪魔でなどあるものか。

「後は私に任せてくれ」

 力なく暴れようとするタオを、ファン・ミリアは必死で抑え、抱きしめる。

「頼む、もう動かないでくれ。もう休んでいいんだ」

 ファン・ミリアの願いが通じたのか、抱きしめたタオの身体から、徐々に力が失せていく。

「すまない」

 自分はいったい、何をしていたのだ。もっとも守らねばならないものを、自分は守ってやれなかった。

「……すまない……すまない……」

 何度も何度も、ファン・ミリアはび続けた。それでしかもう、この英雄に償う術がない。

 この国はとてつもなく大きなものを、絶対に失ってはならないものを失ってしまった。

 ファン・ミリアはそう思わずにはいられなかった。

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