9 黒き獣
「慈母たる我が神よ」
両手を組み、瞳を閉じた。
「いま、この美しきタオ=シフルの魂は、貴女の
透き通る声音で葬送の句が紡がれていく。
これから自分は、どれだけ多くの者たちをこうして送り出していくのだろう。いったい何度、この句を唱え続ければいいのだろう。
争いの絶えぬこの世界で、少しでも人々の悲しみを減らしたかった。
『理想は高潔であればあるほど、成し遂げることもまた難しい』
かつて、団長のジルドレッドがファン・ミリアに言ったことがある。
いま、しみじみとそう思う。
ファン・ミリアは憂いを
「……叶うことならば、一度でいいから貴方と話してみたかった」
これほどの清廉な心の持ち主を、ファン・ミリアは知らない。
タオ=シフルはどんな話し方をする人だったのだろう。どんな笑顔で、どんな夢を語る人だったのだろう。
思いながら、ファン・ミリアは屋敷へと目を転じた。建物の前で冷たい影となってしまったシフル家の人々を見上げる。
シフル
「貴方のご子息は、さぞや素晴らしい御仁だったのでしょう」
頭が下がる想いだった。
きっと、とても大切に育てられたに違いない。
悲しかった。
その時、ファン・ミリアの背筋にぞくりと冷たいものが走った。
「何者だ」
視線を感じ、鋭く振り返った。
それは、漆黒の体躯を持っていた。
屋敷へと通じる石畳の通路の、その入口である門のむこうに、一匹の
「何者か!」
ファン・ミリアは
ファン・ミリアは腰を落とし、低く構えた。誰に教えられたのではない、気がついた時には備わっていた彼女の天賦の構えである。
何もない虚空に手を伸ばす。
狼は、ひたり、ひたり、と門をくぐってこちらに歩いてくる。
「止まれ。それ以上寄るならば敵とみなす」
四本の脚がピタリと止まる。ファン・ミリアが思ったとおり、人の言葉が通じるらしい。
緊張で、ファン・ミリアの頬に汗がつたう。
彼女を圧するほどの異様な神気をこの狼はまとっていた。これほどの力を目の当たりにするのは、この筆頭聖騎士をして久しくないことだ。
狼が口を開いた。
「神託の乙女、ファン・ミリアか」
黒い陽炎をまとった狼が、流麗な口調で言った。女の声だった。
「……何者だ、貴様」
警戒を解かず、ファン・ミリアは問う。
「憐れなものだな」
「なに?」
同情するような口調だった。闇のなかで、琥珀の瞳がファン・ミリアを見据えている。
「
「黙れ!」
気がつけばファン・ミリアは叫んでいた。
「そのような
妹、だと?
ファン・ミリアはすくなからず動揺した。シィン・ラ・ディケーはまぎれもなく彼女が信奉する女神の名である。しかし、断じて姉妹神などではなかった。ファン・ミリアでさえそんな話を聞いたことは一度たりともない。
「頑迷な娘よ」
落ち着き払った狼の言葉が、ファン・ミリアの神経を逆撫でする。
「闇と光は一対。不可分の物である。それがわからぬうちは、汝の理想は果たせぬ」
「黙れと私は言った!」
「話は決裂か。それもよかろう」
狼は言葉にかすかな嘲笑を含ませながら、
「だが、その者の魂を汝のような薄汚れた手の者に委ねるわけにはいかぬ」
言い終わるや否や、狼が疾駆をはじめた。
「妄言を!」
虚空に伸ばしたファン・ミリアの手が、青い光を放つ。
「
虚空から、槍剣が引き出される。
「撃滅する!」
ファン・ミリアが槍剣に魔力を注ぎ込み、ふるう。刹那、走り来る黒狼の前に青い爆炎が立ち上った。
狼が飛び上がる。燃え盛る浄化の炎の壁を悠々と超え、こちらめがけて急降下をはじめた。
狼の
「ラズドリアの盾!」
鋭い牙がファン・ミリアに届く寸前、彼女の前面に光り輝く盾が現出し、黒狼を弾き飛ばした。弾かれ、今度は強制的に黒狼の体躯が宙に跳ね上がる。
――仕留める!
好機とばかりにファン・ミリアが槍剣を掲げ持つ。黒狼に照準を合わせた。
「
大出力の破邪の光が奔流となって放たれる。
だが、光が狼に届いたかと思った瞬間、ありえないことが起こった。光が屈曲し、あらぬ方向へと飛んでいく。
「何だと……!」
驚く間もなく、狼が陽炎のように揺れた。闇と同化し、姿が消える。
ファン・ミリアは背後に殺気を感じ、後ろ手に槍剣をふるった。地の影から顔を出した狼がその刃を噛んで受け止める。ファン・ミリアの双眸にぎらりと怒りの炎が灯った。
「主より授かりし神器を――」
ファン・ミリアは片手で狼ごと槍剣を持ち上げ、
「
狼を床に叩きつけた。それでも黒狼は槍剣を離さず、さも愉快そうに瞳を細める。
「闇が私を
ファン・ミリアはさらに槍剣を持ち上げ、狼を宙吊りにした。
槍剣と意識を同調させ、脳裏に描いた引き金を引く。
「
怒りの言葉とともに槍剣に込められた光が爆発した。さすがに効いたのか、「ギャン!」という鳴き声とともに、狼の頭部が吹き飛んだ。胴体が黒い液体のように滴り落ち、その場に溜まりを作る。
狼から発せられていた神気が、微弱なものになっていく。
わずかにファン・ミリアが緊張をゆるめた、それが隙となった。
黒い水の一筋が、寝かせたタオの足に触れる。
「しまっ――」
そう思った時はすでに遅かった。
黒い水が再構築され、一瞬で狼を形作っていく。琥珀の双眸が浮かび上がった。
「よく聞くがいい、神託の乙女よ」
黒狼が、口を開いた。
「我は何も望まぬ。望むのは全てこの者だ」
「お前は、いったい……」
タオを挟み、ファン・ミリアと黒狼は対峙する。
光をまとう聖騎士と、漆黒の体躯を持つ狼と。
「これも姉妹の
黒狼はタオの服の襟首をくわえると、大きく跳躍した。木を蹴り、屋敷の屋根に着地する。
「待て!」
ファン・ミリアの制止もむなしく、狼は屋根から屋根へと飛び移り、夜のなかへと消えて見えなくなった。
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