第一章

第一話:『妹』



(……ずいぶん久しぶりに見たな)

 そう思って目を開けると、そこにはすっかり見慣れた天井があった。

「まだ四時かよ……ちょっと早いけど、まぁ良いか」

 短針が右下に傾いている時計を見てそう呟き、少年はベッドから身を起こして伸びをする。

「ふぁ……」

 その際に大きな欠伸あくびが出たが、普段より一時間も早く目が覚めたのだから仕方がない。とりあえず顔を洗おうと洗面所へ行くと、ただでさえ癖の強い黄金色の髪が鏡の向こうでボサボサになっていた。

「うわ、すごいな……」

 もはや部分的に直すのは不可能だと思い、蛇口から水を出して思い切って頭を洗面台へ突っ込み、そのついでに顔も洗う。

 それですっかり目が覚めたので顔と頭を拭いてもう一度鏡を見ると、それでも目に掛かる前髪が右寄りに撥ね、首に掛かる程度に伸びた後ろ髪も所々が撥ねていた。しかし、これは幼い頃に何度もこの髪に櫛を通してきた自分の母親でもどうにもならなかったので、既に諦めていた。

「はぁ……」

 小さく溜め息をいて寝室へ戻り、動き易い格好に着替えると、少年はそのまま部屋を出て外へ向かった。



 アレン=レディアントは十六歳になっていた。

 正確に言うと、今月の二十四日付けで十六歳になる。今日から上級学院の四年生として『学びの庭ガーデン』へ通うのだが、始業式兼新一年生の入学式があるこの日でも、毎日の日課である鍛錬をこなす為に朝早くから外へ出ていた。

「まだちょっと寒いな」

 外へ出た途端に感じた冷たい空気に、アレンはそう呟いた。

 四季のあるこの大陸では春に入って既に一月ひとつきが経つものの、それでもまだ陽も昇っていないこの時間帯は少し肌寒かった。ひとまず体を温めようと、準備体操を終えてランニングを開始する。

「はっ、はっ、はっ……」

 まだ殆どの住民が眠っている街を、いつものように中心部へ向かって走る。所々でアレンのようにランニングをしている学生や散歩をしている者を見掛けたが、それ以外は至って静かだった。

 それから二十分ほど走り、街の中心部に当たる神殿が見えたところで来た道を戻ろうとして、不意にその足を止めた。

 黄金色の瞳に、神殿前の広場が映る。

「………」

 一分も経たないうちに、アレンはすぐにまた走り出してその場を立ち去った。



「――ふっ! ふっ!」

 ランニングを終えたアレンは一振りの剣を振っていた。身長は百七十センチを越え、幼かった非力な体はかなり逞しくなっていて、剣を様々な形で振うその動きは無駄がないとは言えないが、よわい十六にしてはかなりのものだった。

「はぁっ!」

 最後に力強く一閃すると、アレンは剣を振る腕を止めた。陽はすっかり昇り、その光が額から溢れた汗を照らしていた。

 額の汗を拭き、剣を壁に掛けて一息吐く。

(……そろそろ頃かな)

 そう思っていた傍から、案の定寮の玄関扉の開く音が聞こえた。そちらを見ると、

? 朝ごはんできたよ」

 長い銀髪を持つ少女が、こちらを見て呼び掛けた。かつての幼い体は年相応の成長を遂げ、長かった髪をさらに伸ばしている。

「わかった。いま行くよ、イリス」

「うん」

 イリスは柔らかな笑顔で頷いて、先に中へ戻っていった。

(……もう、六年も経つのか)

 その笑顔に、アレンはあの時のことを思い返した――



    †   †   †



 ――広場で倒れたアレンが目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。

「僕、なんで自分の部屋に……?」

 アレンはいつの間に自分の部屋で寝ていたのかと考え、

「――そうだ、シャル! それにあの子も!」

 一気に何が起こったかを思い出した。二人は自分と一緒に広場へ戻った筈だ。あの後気を失ってしまったようだが、一体どうなったのだろう。

 そう考えていると、不意にガチャッと扉が開いた。

「あ……」

 扉を開けたのは、シャルだった。

「シャル! 良かった、だいじょう――」

 ぶ、と言おうとしたところで、シャルが勢い良く飛び付いてきたので言葉が途切れた。

「しゃ、シャル?」

「……なさい」

 あまりに突然で驚くアレンの耳に、小さく、そう呟く声が届いた。すぐ後から、啜り泣く声も聞こえ始める。

「ごめ、なさい、ヒック、ごめん、なさ……」

 シャルは泣きじゃくりながら何度もそう呟いた。何故彼女が泣いているのかさっぱり解らず、アレンは戸惑いながら訊ねる。

「しゃ、シャル、どうしたの? ごめんなさいって、何が?」

「わ、わたしが、ヒック、しんでん、ヒック、いこ、なんて、ヒック、いったから……」

 シャルはなおも泣きじゃくりながら言葉を続ける。

「アレン、ヒック、しんじゃ、かと、おもっ、ヒック……」

 どうやら、自分が無理矢理神殿へ連れていった所為でアレンが死に掛けたと考えているようだった。アレンは何と言って良いか分からず、やがて胸元で盛大に泣き始めたシャルの扱いに困っていると、セフィーナが部屋へやってきた。

「アレン、目が覚めたのね!」

「あ……」

 随分懐かしく感じる母の姿にアレンは思わず泣きそうになったが、扉の前に居たセフィーナが早足でアレンに近付き、


 ――パァン!


 ……思いっ切り頬を引っぱたいた。

「………!?」

「散々心配掛けて! シャルちゃんまで危険な目に合わせて! 何をやっているの!」

 一瞬何が起こったのか理解出来なかったアレンは、生まれて初めて聞く母の怒鳴り声に、何も言えず俯いた。すると、突然その体が柔らかく抱き寄せられたのを感じて目を見張った。

「本当に、無事で良かった……!」

 セフィーナの頬は、大粒の涙で濡れていた。

「おかえりなさい、アレン」

 その言葉を聞いたアレンに、自身の黄金色の瞳から溢れる涙を抑えることは、出来る筈もなかった。



「それで、大体の事はシャルちゃんから聞いたけど……」

 泣き止んだアレンはリビングのテーブルに着いて、あの時の事について話していた。そこにはセフィーナ、シャル、フェルナも居る。シャルの父親は仕事の都合上普段は王都で暮らしていて、アレンの父親はアレンが五歳の時に他界していたのでこの場には居ない。

 そして、ここにはもう一人。

「結局、その子はどこの誰なの?」

 セフィーナは、先程からアレンに隠れるようにぴったりとくっついている銀髪の少女を見てそう訊ねた。

「ベッタリね……」

「………」

 それを見たフェルナとシャルが、それぞれの反応を示した。

 フェルナと共にリビングに居た少女は、降りてきたアレンを見るや否や飛び付いてきて、それからずっと離れようとしない。その為テーブルにはセフィーナ、アレン、少女の順で着き、その対面にフェルナとシャルが着いている。

 話によると、セフィーナ達は雨の中広場に倒れていた三人を見つけてひとまずアレンの家まで運んだのだが、熱を出していたアレンと少女は二日間寝込んでいたらしい。

 二人はその日に目覚めたシャルから何が起きたかを聞き、アレンが目覚める少し前に少女が目覚めたので色々と訊ねたものの、少女は震えるだけで答えようとはせず、困り果てていたところにアレンが目覚めたという訳だった。

「だ、だから僕にもわからないんだって……!」

 少女にぴったりとくっつかれているアレンは、正面の視線に恐怖しながら答えた。フェルナがその様子に少し呆れる。

「でも、完全にアレン君に懐いてるわよね、その子」

「はぁ……ねぇ、お名前は何て言うのかしら?」

 セフィーナが困ったように頬に手を当てて少女に訊ねた。ビクッと震えてさらに身を隠すようにアレンの服を強く握った少女は、

「…………………………………いりす」

 かなり長い間の後に、辛うじて聞き取れる程度の声で呟いた。どうやらイリスという名前らしい。

 セフィーナはようやく答えてくれた少女に安堵し、次の質問をする。

「イリスちゃんのご家族は、どうしてらっしゃるの?」

「…………………………………しらない」

「どこにいるかも?」

 アレンがそう聞くと、

「いりす、おぼえてないもん」

 明らかに他と反応が違っていた。

「覚えてないって……なんでセフィロトの根元で眠ってたのかも?」

「んっとね、いりす、きづいたらおふとんでねてたの」

 アレンとはすらすら喋っていくので、他の三人はアレンに任せてその様子を見守ることにした。

「じゃあ他に覚えてることは?」

「んっと、いりすのなまえと、まほうのことはわかるけど……」

 イリスの声は徐々に小さくなっていき、そこで途切れた。どうやら本格的に記憶喪失らしい。

「魔法の事?」

 と、フェルナが疑問の声を上げた。

「イリスちゃん、魔法が使えるの?」

「…………………………………つかえるよ。いりす、まほうならぜんぶつかえるもん」

 イリスはまたもやビクッと震えたがそう答えた。

「全部? 全部って、上級魔法とか精霊魔法とかも?」

「…………………………………うん。あとは、しんせいまほうとかもつかえるよ」

 その場の全員が言葉を失った。

 精霊魔法とは、高位の精霊の力を借りて使う上級魔法のさらに上に当たる魔法のことで、神聖魔法とはこの世界を去った神が残していった力、若しくはそれに近い者の力を借りた魔法だ。どちらも並の魔導師では発動出来ない高難度の魔法なので、その使い手には必ずと言って良いほど国や神殿騎士団などから声が掛かる。

「そ、そういえば、シャルが暴走したときもすごい魔法を使ってたし、僕を治したり、森から広場までいきなり移動したときも何かの魔法を使ってたっけ……」

「ちょっと! 今何て言ったの!?」

 アレンの言葉を聞いたフェルナが、急にテーブルの上で身を乗り出した。それを見たイリスが再び震える。

「えっ? あっ、もしかしてシャル、暴走したこと言ってなかったの?」

 確かにあの時は正気を失っていたので、シャルが覚えていなくても無理は無い。それにしたってフェルナの憤り具合は尋常じゃなかったが、理由はすぐ判った。

「そうじゃなくて! いや、それもあるけど! その後何て言ったの!? 広場がどうとか!」

「も、森から広場に急に移動したこと……?」

「………嘘でしょ」

 再び椅子に座って背凭せもたれに体を預けたフェルナの顔は、信じられない物を見たかのように驚愕に満ちていた。アレンはその様子を疑問に思って訊ねる。

「いったいどうしたの? それって、そんなにすごい魔法なの?」

「……転移の魔法は確かに上級魔法だし、それをこんな小さな子が使えるのは確かにすごいんだけど、問題はそこじゃないの」

 その問いにはフェルナに代わって、またしても困ったように頬に手を当てているセフィーナが答えた。

「良い、アレン? まだこの世界の大陸が五つに分かれる前に存在していた魔法は、、今の倍はあったと言われているの」

「そんなにっ?」

 アレンは初めて聞くその事実に驚いた。アレンが知るだけでも現在の魔法はとてつもなく多く、全ての魔法を使える者など存在しないだろうに、その倍以上もの数なんて、一生が利き手の指の数だけあっても足りないかもしれない。

「今でこそ精霊の加護のおかげで誰でも魔法が使えるけど、当時は神様が加護を与えた限られた人たちだけが使えて、それでもその量と質は今よりずっと上だったと言われているわ。でも、大陸が五つに分かれて多くの命が失われた時に、数少ない魔導師たちと、彼らの使っていた多くの魔法も失われてしまったの。私たちはそれを【失われし魔法ロストスペル】って呼んでいるのだけど、セフィロトの周囲に張ってある結界はその魔法の一つなの。結界っていうのは普通、そこに使われている以上の魔力を使わないと越えられないのだけど……」

「じゃあ、イリスはあの結界よりもすごい魔力を使ったってこと?」

「……今まで数多くの魔導師達が、セフィロトを調べる為に結界を越えようとしたわ。でも、誰一人としてそれはできなかった。あそこに使われている魔力は、今の時代の人達では決して到達できない程に強力なの。だから、その子が結界を越えて転移出来た事に驚いたってわけ」

 最後に、フェルナが首を横に振りながら言葉を引き継いだ。

 アレンはあの結界はそんなに凄かったのかと驚き、同時に何故今まで誰も結界の奥に行かなかったのかに納得した。

「……ねぇ、この子を見つけた時の事、もっと詳しく教えてくれない?」

 フェルナはしばらく何かを考えて、アレンにそう訊ねた。アレンは言われた通りにその時の事を詳細に話す。

「なるほどね……」

 何かに納得したかのように頷くと、フェルナはパンッと手を叩いた。

「とりあえず、この話は一旦置いときましょう。それで、当面の問題はこの子をどうするかだけど……」

 その言葉に、イリスが再びビクッと震えた。

「セフィーナ」

「えぇ。この子はウチで預かるわ」

「えっ?」

 予想外の言葉にアレンが間の抜けた声を上げると、フェルナは軽く肩を竦めた。

「だってその子、アレン君から離れないしねぇ」

「…………………………………ここにいて、いいの?」

 戦々恐々といった風に、イリスが小さく呟いた。

「もちろん良いわよ。良かったじゃない、アレン。妹が出来たみたいで」

 セフィーナは優しく微笑みながら二人を見る。

「…………………いもう、と?」

「お兄ちゃんって呼んで良いのよ、イリスちゃん?」

 フェルナが意地の悪い笑みを浮かべてそんなことを言った。

「なっ――!? おばさん!」

 その言葉に驚いたアレンは異議を申し立てようとしたが、

「………………おにい、ちゃん?」

 イリスの呟きを聞き、体が固まった。

「い、イリス? 別に無理して呼ばなくても……」

「……おにいちゃん……あれん、おにいちゃん……」

 どうやらアレンの呼び掛けは聞こえなかったようだった。

「これからよろしくね? イリスちゃん。私はアレンのお母さんだから、イリスちゃんもそう呼んでくれると嬉しいんだけど……」

「……おかあ、さん?」

「~~~~~っ!!」

 セフィーナが突然感極まったような表情をして立ち上がり、イリスを抱き締めた。初めこそびっくりしていたものの、イリスの顔は徐々に綻んでいく。

「おにいちゃんと、おかあさん。えへへ」

 アレンは自分の母親の意外な姿と、これからの生活に頭を抱えたくなった。それでも、初めて見たイリスの笑顔に、まぁ良いかと苦笑した。



 その時のアレンには、シャルが一言も発していないことに疑問を抱く余裕はなかった――



    †   †   †



 ――あれからイリスはすっかりレディアント家に馴染み、本当の妹のようにアレンと一緒に育ってきた。アレンがその少し後から今の日課である剣術の鍛錬を始めたり、他にも色々とあったのだが、それはまた別の話である。

 そんなことを思い出していると、いつの間にか目の前に扉があった。

 中へ入ると、リビングのテーブルには軽くも重くもなく、それでいて健康に良さそうな朝食が並んでいた。イリスは家事が得意で、中でもセフィーナ仕込みの料理はそこらのレストランなど目ではないほどの腕前を持っており、アレンの食事はいつもイリスが作っていた。

「あっ、やっと来た」

 既に食卓に着いていたイリスは、しかしまだ食べ始めてはいなかった。これもいつものことで、イリスは鍛錬を終えたアレンが食卓に着くまで待つようにしていた。

「ごめんごめん」

 アレンが軽く謝りイリスの正面に座ると、イリスはマグカップにミルクを注ぎ、笑顔でそれを渡す。

「はい」

「ん、ありがと。じゃあ、いただきます」

 アレンが受け取ったミルクを少し飲んで朝食を食べ始めると、イリスも自分の分を食べ始めた。

「今朝はいつもより早かったんだね?」

「あぁ、なんか目が覚めたんだよ」

 二人がそうやって朝食を食べながら何かしらの話をしていると、不意に部屋の扉が開いた。

「おはよ。イリス、私の髪留め知らない?」

「あっ、シャル。おはよー。ううん、見てないよ?」

 そこに、燃えるようなあかい髪を腰までまっすぐに伸ばし、背が伸びて起伏に富んだ身体を学園指定の黒い上着とスカートの制服に包んだシャルが入ってきた。上着には所々に金色のラインが入っていて、首には赤いネクタイが緩く締められている。

「おっかしいわねぇ。どこに置いたのかしら……」

「おおかた、昨日風呂に入る時に洗面台にでも置いたんだろ?」

 パンをミルクで流し込んだアレンの言葉にはっとしたシャルは、すぐさま駆け出して、しばらくしてまた戻ってきた。

「流石ね、アレン」

 その手には、薄いリング状の金色の髪留めが握られていた。

「この前もそこに忘れてただろ……」

 アレンはつい最近同じことをしたのに全く懲りていないシャルを見て嘆息した。

「良いじゃない、見付かったんだから」

 軽く口を尖らせたシャルは、髪留めを開いて後ろ髪を一つに束ねる。

「これで良し、っと」

 パチッ、と軽い音を鳴らして髪留めを閉じると、機嫌良くテーブルに着いた。

「シャル、その髪留めすごく気に入ってるよね?」

「えっ? べ、別にそんな事無いわよ? 普通よ、普通」

 イリスがそんなことを言うと、シャルは何故か慌てたように否定した。

「おいおい。せっかく人がプレゼントした物をそんな簡単に否定されたら、さすがにちょっと傷付くぞ?」

「そ、そんなつもりじゃないわよ」

「あれ? それってお兄ちゃんがプレゼントしたの?」

「あぁ、十歳の誕生日の時にな」

「ふーん……」

 何かを思ったのか、イリスはシャルに意地の悪い視線を送る。

「な、何よ?」

「んーん、別に? よかったね、シャル」

 不審がるシャルに、イリスはわざとらしい笑顔を向けた。

「―――あっ、アレン。あんたどうせまだシャワー浴びてないんでしょ? さっさと浴びてきなさいよ」

「へっ? あ、ああ……」

 その笑顔から何を察したのか、突然話題を切り替えたシャルに、アレンは渋々従う。元々、言われずともそのつもりだったこともある。

「ごちそうさま」

「お粗末さま。お兄ちゃん? あんまりゆっくりしてると、置いてっちゃうからね?」

「わかってる」

 手を挙げて応えながら、アレンは寝室から着替えを取って風呂場へ向かった。

「…………イリスのいじわる」

 シャルはアレンが完全に風呂場へ入ったことを確認してから、イリスをジトッと睨みながら愚痴を漏らした。

「ごめん。でもいいなぁ、お兄ちゃんからのプレゼント」

 イリスは短く舌を出して謝ると、シャルに羨望の眼差しを向ける。

「プレゼントなら、イリスも毎年貰ってるでしょ?」

 アレンはそういうところはしっかりしていて、シャルもこの髪留め以来毎年貰っていた。ところが、イリスは小さく頭を振った。

「プレゼントは貰ってるけど、わたしは、まだそういう『特別』は貰ってないから……だから、を貰えたシャルがちょっと羨ましいの」

 寂しげにそう言うと、イリスは食べ終わった食器を片付けて台所へ向かった。



「……『特別』、か」

 シャルはイリスに聞こえないくらい小さくそう呟いて、朝食を再開した。



    †   †   †



 ガーデンは、その巨大な都市形成によって幾つかの区に分かれている。

 セフィロトの森を中心とし、それを囲む神殿がある中央区。その周囲を囲むようにして、各校舎や図書館、闘技場や学生寮などのある学区が広がり、さらにそれを囲むように、南に一般居住区、西に工業区、北に自治区、東に商業区と円形をしている。

 一般居住区には主にガーデンへ通う生徒達の家族などが暮らしていて、アレンやシャルの自宅はこの南西部にある。他地区に店を構える者の家なども、多くはここに集まっている。

 工業区は生徒達の使う魔具から住民の使う生活用品まで、様々な品物を生産する工房が立ち並ぶところで、ここで作られた物を商業区や他の街の業者が引き取り、さらにそれを店側へ卸して一般客へ売るシステムとなっている。武器や魔具などは作った工房が直接店を構えるところが殆どで、生徒や冒険者などはこの地区で装備を整えることが多い。

 自治区というのは、主に周辺地域に出没する魔物の討伐依頼や、一般人にとっては赴くことの困難な場所にある薬草の採集依頼などを受け付ける「ギルド」という建物と、冒険者用の宿屋などが多く立ち並ぶ地区だ。

 ガーデンで行われる実習には直接ギルドへ赴き、指定された依頼内容を遂行する物が多く存在する。実習なので、せいぜい薬草採集や下級魔物の討伐といった比較的危険度の低い内容が殆どなのだが、中には中級以上の魔物が出現する北西の森の奥地にある泉の水や、南の大陸の火山地帯にある鉱石の採集などといった危険な内容も含まれている。もっとも、そういった依頼を引き受けるには担当教員と学園長の許可証が必要となっていて、余程実力のある生徒でなければ許可を得ることさえ出来ないのだが。

 閑話休題。

 東の商業区には、食品店、衣料品店、生活用品店など、様々な店が構えられている。多くの住民がここで必要な物を買っていくのだが、カフェや屋台なども多く、ガーデンの生徒達も休日はここで過ごす者が多い。

 中央区は狭く、セフィロトの森を囲う神殿とそれを管理する神殿騎士団の宿泊施設、そして幾つかの飲食店の他は広場があるだけだ。

 学区は先に述べた通り、基礎学院、上級学院、研究院から成る各校舎や巨大な図書館、魔法や武術の合同実技や年に一度行われる魔法闘技大会の会場として使われる闘技場、学生達が住む学生寮などがある、謂わばガーデンの本質とも言うべき地区だ。

 上級学院からは自立心を高めるという名目で全寮制となっており、アレン達も現在はここに数多くある寮の一角で暮らしている。

 学生寮は高級集合住宅とまではいかないがそれなりに質の良い造りをしていて、各部屋は寝室、リビングの他にもう一部屋あり、オープンキッチンと浴室が完備されている。さらにガーデン内の全ての寮に室温調節の魔法が掛けられている為、生徒達は日々を快適に過ごせているのだった。まさに至れり尽くせりだ。

 勿論これほど環境が整っているのには理由がある。世界がより強い生命いのちの力を得る為には世界の繁栄が必要であり、ガーデンはそれを目的として造られている為、生徒達は卒業後、その高度な知識と技術を以て様々な形で世界を繁栄に導くこととなる。そしてそのレベルを少しでも高くする為に、このように教育のレベルと生徒達の生活水準が高く設定されているのだった。

 学生寮は別段男子寮と女子寮に分かれている訳ではないので、アレンの部屋の右隣にイリス、正面にシャルの部屋が在り、三人はいつもアレンの部屋でイリスの作った料理を食べていた。

 シャルは料理が苦手でイリスが有無を言わさず三人分作り始めてしまったので、せめて自分が来るまで待たないという条件で一任していた。そうでなくてはあまりにも申し訳なかったのだ。イリスの料理はかなり美味しく、自分が作るよりも食事を楽しめるので、年頃のとしては胸中複雑でもある。

 そんな毎日を送る三人は、朝食を終えて上級学院側の校舎群のうちの一つを目指して歩いていた。

「あーあ、また課題に追われる日々が始まるのかぁ」

 シャルとイリスの間を歩くアレンは、視線を空へ向けてそうぼやいた。

「まったく、シャキッとしなさいよ。ただでさえ授業内容が難しくなってくるのに、そんな事じゃ先が思いやられるわよ?」

 それを聞いたシャルが呆れたように言葉を返した。上級学院の四年生ともなるとそろそろ必修科目の難易度も上がり、実習の最低ラインも他の大陸へ渡ったり難度の高い魔法薬を調合したりと、本格的なものが多くなってくる。その為、気を抜いていたらいつの間にか置いていかれることなどざらだった。

「シャルはそんな心配ないけどね」

 イリスがそう言って苦笑した。シャルは、基礎学院の頃から常に学年の上位三位以内には入っているほどの成績優秀者なのだ。

「そんな事無いわよ、これでも結構必死なんだから。少なくとも、よりはね」

「あっはっはっはっ……」

 それを聞いたは乾いた笑いを零した。

「でも、お兄ちゃんは実技の成績がいいから大丈夫だよ。……はぁ」

 どこか苦い顔をしているアレンを励ましたイリスは、しばらくして溜め息を吐いた。

「どうしたの? イリスこそ、そんな心配要らないじゃない」

 シャルが心配げに訊ねた。実際、イリスの成績はシャルほどではないが常に上位に入っていた。

「そんなことないよ。実践魔法関連は確かにみんなより楽だけど、他は必死だし。それに……」

「……あぁ、そう言えばそうだったわね」

 シャルが思い出したように納得すると、イリスは先程よりも深い溜め息を吐いたのだった――



    †   †   †



 ――レディアント家の娘として暮らすようになったイリスが一通り身の回りの物を揃えて少し落ち着き、夏休みも残すところあと三日となった頃、突然、セフィーナの口からこんな言葉が零れた。

「ねぇ、イリス。学校に通ってみない?」

 セフィーナはイリスを本当の娘のように扱っていたので、呼び方も他人行儀な付けから呼び捨てに変えていた。

「がっこう?」

 新しい生活にすっかり馴染んでいたイリスは、セフィーナともアレンと同じように話すようになっていた。

「そう。アレンやシャルちゃんは、いつもはそこでお勉強しているの。今は夏休みだから家に居ることが多いけど、明々後日には学校が始まっちゃうから、そうなったら一日のほとんどはその学校で過ごさないといけないの」

「……おにいちゃん、いなくなっちゃうの?」

 途端にイリスの目に涙が浮かび始めた。

「そうなの。でも、もしイリスがアレンと一緒に学校へ行きたいなら、お母さんはそうしてあげられるの。どうする?」

「いく! いりす、おにいちゃんといっしょにいきたい!」

 即答したイリスに、セフィーナは優しく微笑む。

「わかった。じゃあ明後日、お母さんとアレンと一緒に学校へ行きましょう」



 そして二日後。セフィーナは、アレンとイリスを連れてガーデンの基礎学院にある客室へ来ていた。

 教員に案内されてソファーに座って少し待っていると、そこへ一人の若い男が入ってきた。

「あぁ、セフィーナ。待たせて済まないな」

「お久しぶりです、学園長」

「こんにちは」

「…………………………………………こんにちゎ」

 セフィーナが立ち上がってお辞儀をすると、それにならったアレンと、かなり間があったがイリスも頭を下げて挨拶をした。

 学園長らしい男は黄色掛かった短い金髪を逆立て、前髪を一束だけ前に出していた。そして、その深いエメラルドグリーンの瞳がイリスを捉える。

「堅っ苦しいな、昔みたいに呼び捨てで構わんよ。それで、その子が?」

「えぇ、事情は話した通りよ。フェルナも納得してくれたわ」

「らしいな。実は、彼女からも連絡を受けていてな。くれぐれも宜しく頼むと、電話越しに頭を下げられたよ」

 そう言って、学園長は苦笑した。

「それで、シド。この子が通っても問題はなさそう?」

「……聞き忘れていたんだが、歳は幾つだ?」

「それが、話した通り名前くらいしか分からなくて……見た目からすると六、七歳くらいなんだけど……」

「なら基礎学院の一年生ってとこか……」

「……………おにいちゃんといっしょがいい」

 不意にイリスがそう呟いた。一瞬驚いたセフィーナは、すぐに膝を曲げて諭すように言う。

「でもね、イリス。イリスはまだ小さいから、アレンと一緒の学年に入ったらお勉強がすごく大変なの」

「やだ。おにいちゃんといっしょがいい」

 イリスは視線を下へ向けながらアレンの裾を掴んで離さない。セフィーナが頬に手を当ててどうしたものかと困った顔をしたので、アレンは仕方なしに説得を試みる。

「イリス、イリスは僕と歳が違うから一緒の学年には入れないんだよ」

「いや、出来ない事はない」

 ところが、シドが客室に置いてあった机の引き出しから冊子のような物を取り出し、それを開いてセフィーナに見せた。

「この学園には飛び級制度も存在する。ただ、その際に一般知識だけでなく魔力量と魔法技量も測るから希望者は滅多に居ないのだが……」

 冊子を受け取ったセフィーナの目に、確かに飛び級制度について書かれた項目が映った。

「魔力量に関しては、通常なら上の学年でも付いていけるように同い年の平均の倍はないと承認出来ないのだが……その子は神聖魔法や、あの結界を越えられる程の転移が使えるのだろう?」

「えぇ、実際に私が見た訳ではないのだけど……」

 それを確認したシドは、イリスの前にしゃがんでペンを一つ差し出した。

「このペンをあそこの机の上へ転移させてくれないか?」

 恐る恐る、イリスはペンを取る。すると、指先にが顕れ、ペンが消えた。

(あれ、色が……?)

 とアレンは不思議に思ったが、机の方で物の落ちる音が聞こえたので思考が中断された。そちらを見てみると、先程のペンがコロコロと転がっていた。

「……ふむ、上級魔法に加えてそれの詠唱破棄も使えるか。分かった、この子の飛び級を認めよう。四年生の一クラスで良かったな?」

「ほんとに!?」

 それを見たシドが顎に手を当てながら頷き、先程の冊子にペンを走らせると、イリスが弾けるように顔を上げた。

「但し、他人が見ている前で精霊魔法や明らかに魔力量の違う魔法は使うなよ? 見られたら面倒だ。それと神聖魔法も使うな。あれは本来、大司祭や神殿騎士団の隊長クラスでないと使えない魔法だからな」

「うんっ!!」

 イリスは満面の笑顔で頷いた。

「それじゃあ、一般知識についても調べるから少し待っててくれ。まぁ、ある程度さえ出来れば後は通いながら何とかなるだろう。あと、この子の事は病気で入院していた妹という事にしておけ。その方が何かと都合が良い」

 シドはそう言うと、一旦客室から出ていった。

「良かったわね、イリス?」

「うん! おかあさん、ありがとう!」

「イリスとおんなじクラスかぁ。シャルもいるし、なんとかなるかなぁ」

 本当に嬉しそうにしているイリスの姿を見ていたアレンの頭からは、先程の疑問はすっかり消えていた。

 その結果に喜び合っていた三人だったが、アレンとセフィーナはこの時、まだ知らなかった。

 イリスは確かにちゃんと話せるし、魔法に関しては文句がない。一般知識もそれなりにはあるだろうし、駄目ならシャルに手伝って貰ってアレンと二人で教えてあげれば何とかなるだろう。

 しかし……。



 イリスは、字が読めなかったのだ。

 その事実は、戻ってきたシドの手に握られた何枚かの問題用紙によって、初めて知れ渡るのだった――



    †   †   †



「はぁ……」

 当時のことを思い出して、イリスはまたしても溜め息を吐いて項垂うなだれた。

 正確に言うと、魔法文字や古代語は読めるのだが(その二つが読めると聞いた時点でアレン達は驚いたが)、肝心の現代文字がさっぱり解らなかったのだった。流石に教科書に使われる文字が読めなければどうしようもなく、結局イリスは翌年の四月までみっちり現代文字を叩きこまれる羽目になってしまった。それから再び試験を受け、長い時間を掛けて文字を読み解いた結果、晴れて五年生として入学したのだが……。

「イリス、魔導薬学苦手だもんなぁ」

「うぅ……」

 苦笑するアレンの言葉に、イリスはさらに項垂れた。

 そう、イリスは上級学院から必修に加わった魔導薬学という科目が致命的に苦手なのだ。

 魔導薬学とはその名の通り様々な魔法効果を持った薬を調合する授業なのだが、その性質上細かい理論と調合の為の式を紙面で説明した後に、初めて実際に調合を行う。その為授業は座学と実技に分かれており、イリスにとってはこの座学がとんでもない天敵だった。

 ただでさえ今でも現代文字を読むのに時間が掛かるのに、そこへ調合の為の小難しい言葉の羅列と(イリスにとって)意味不明な記号の合わさった調合式の総攻撃によって、イリスの頭は魔導薬学の授業中、常にショートしていた。

 それでもなんとかなっているのは、シャルが懇切丁寧に教えてくれるのと(アレンも座学は苦手なので一緒に教えて貰う側だ)、何故か優秀な実技の成績のおかげだった。本人曰く、感覚は料理と一緒だそうだ。

「実際に調合できればいいんだから、試験も実技だけにしてくれればいいのに……」

 そう言って肩を落とすイリスに、

「それじゃあ感覚でやって失敗する馬鹿が居るからよ」

 シャルが厳しい言葉を投げ掛けた。アレンにとっても。

 そんな訳でイリスは、入学当初は教科書を読むのに苦労し、今は魔導薬学に使われる小難しい理論とその式に悪戦苦闘しているのだった。

「でも、小難しい理論なら他の授業でも聞くだろ?」

 アレンの言う通り、その他の魔法関連の授業でも同様に難しい理論の説明や筆記試験はあった。魔法陣の解析からそれを行使する際の条件や発動理論、その他諸々と、アレンからしてみれば意味が解らないことの方が多かったが、イリスはそれらに関しては筆記、実技問わず好成績を修めていた。

「他の授業は使う文字が魔法文字と現代文字だから現代文字だけ頑張ればできるんだけど、あの授業は専門の記号も使うから……たぶん魔導科学を取ってもおんなじ感じになると思うよ。よかったぁ、必修じゃなくて」

 そう言って、溜め息なのか安堵の息なのか判らないものを吐いたイリスは肩を落としたまま歩を進めていく。その足取りは見るからに重かった。

 魔導科学とは魔力を使った様々な道具を作ったりする科目で、部屋の灯りや水道、その他の一般的に使われている道具はこの分野の知識から作られている。ちなみに魔導科学は一年生から学べる選択科目なのだが、上級学院五年生ではその基礎部分が魔導薬学に代わる必修科目にもなっている。

 イリスがそのことを知り、魔導薬学からの束の間の解放から再び絶望の淵へ叩き落とされるのは、もう少し先の話だった。


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