第8話 プリン
優秀な甥っ子にコールを入れると数回で応答があった。モニターに映る甥っ子は麻紀の顔を見ると少しだけホッとしたように眉尻を下げる。
『麻紀姉、どうかしたの?』
「理仁、そっちは変わりない?」
『うん、特に』
「あの子はどう?」
『あの子って、パティのこと? るかや遊真たちが遊びに来てくれて、だいぶ馴染んだよ』
「そう、それはよかった。何かあったらすぐあたしに連絡しなさい」
『うん、でも』
忙しいんでしょう? といいかける甥っ子に、麻紀は畳み掛けるように口を開いた。
「あの子のことは最優先だから、夜中だろうと何を置いても連絡入れなさい。れおにもそう伝えておいて」
『分かった』
「それと、ひとつお願いがあるんだけど」
『何?』
「……明日ね、お弁当を作って欲しいんだけど」
いいにくそうに麻紀が言うと、画面の向こうの理仁は目を見開いた。
『明日? えっと麻紀姉、今日帰ってくるの?』
「ちょっと荷物を取りに戻る予定なの。で、明日はお弁当持参って言われててね。悪いんだけど、お願いできる?」
『それは構わないけど……なんかあったの? 麻紀姉』
麻紀はあわてて首を横に振った。甥っ子はこういうところ、すっごい鋭いのだ。人の顔色を読み取るというか、感情を読み取るというか。
「ううん、大丈夫。で、お弁当なんだけど、四人分でお願いできる? ご飯はおにぎりで」
『四人分? ……麻紀姉、なんか隠してる?』
「……潜入捜査なのよ。これ以上は言えないわ」
極秘任務なのだと認識したのだろう、理仁はうなずき、それ以上は探りを入れて来なかった。
『分かった。何時までに準備すればいい?』
「八時には家を出るから……悪いわね、いつも」
そう言うと、理仁はにっこり微笑んだ。
『気にしないで。じゃあ、準備しとく』
「ありがと」
通話を切ると、麻紀は顔を上げた。
とりあえずこれで明日の弁当は何とかなる。
あとは、いかにれおに見つからないように帰るか、だけだ。
午前中全然集中出来なかった仕事は、あのあとさっくりと終わらせた。
今やっているのは明日会う予定の猫星の大使とその周辺の情報の叩き込みだ。
仕事、というには若干私情も混じってはいるが、いま家に逗留している猫星のお嬢さんについては情報局内でも最優先事項となっている。仕事と言い切っても差し支えはないだろう。
明日の件も、有給という形ではなく潜入による情報収集ということで室長からは言質を取った。
時計を見るとまだ午後四時半。外は茹だるような暑さだろう。
どこかで時間つぶしをするということも考えたが、外に出ること自体が嫌になるこの時期だ。
諦めて空調の効いた職場で過ごすことを選んだ麻紀は、ひとつ息を吐くと自分の席に戻ることにした。
ここから家までの時間を考えても、あと五時間はここにこもっているのが正解だろう。
れおが午後十時を過ぎて研究室と呼んでいるあの部屋にいたことは過去一度もなかったから、その時間まで待てば大丈夫。
それまでは仕事をこなしながら時間つぶしをすることにした。
なのに。
「おかえり、麻紀」
玄関を開けてヒールを脱ごうとした麻紀の前に最初に現れたのはれおだった。
顔を上げた麻紀は凍りついたように動きを止めた。
「なんで……」
まだいるの、と言う言葉を何とか飲み込んだ。れおはニッコリと微笑みながら麻紀の手から鞄と上着を奪い取る。
「理仁から、今日は麻紀が帰ってくると聞いたから」
待ってた、と言いながられおはキッチンへ廊下を辿る。麻紀はのろのろと靴を脱いで上がると、れおの後を追った。
腕の端末を確認すると、時間は午後十一時を過ぎている。なんで、と思わざるを得ない。
「晩ごはんは?」
「……一応軽く食べてきた」
「そう、じゃあコーヒーでも淹れるよ。ソファに座ってて」
鞄と上着をキッチンの椅子に置いて、れおは勝手知ったる風にカップを取り出す。麻紀はキッチンの入り口で立ち止まったまま、れおをじっと見つめた。
「なんで……?」
「それはさっき聞いたし言ったよ? 麻紀に会いたかったから。ほら、座って座って」
手を引っ張られ、背を押されて居間のソファに座らされる。テキパキと動くれおはほどなくお盆にカップ二つとプリンを載せて戻ってきて、斜向かいに座った。コーヒーのいい香りが鼻をくすぐる。
「これ、理仁たちが今日作ったんだって。麻紀の分」
目の前に置かれたプリンと匙に視線を落とす。
「ほら、食べて」
促されてプリンの皿を手に取った。
れおは五日前のことを微塵も出さずに、普通に応対してくれる。まるで何もなかったかのように。
忘れてて、いいんだろうか。
このまま……。
「明日のお弁当は僕も手伝わせてもらうね。理仁にもそう言ってある」
「えっ」
プリンを口に運んでいた手が止まる。顔を上げると、れおは優しい微笑みを浮かべて麻紀を見ていた。
「ああもちろん詳しくは聞いてないよ。理仁が『麻紀姉に弁当頼まれた』って言ってたから、僕も手伝いに立候補しただけ。あ、パティちゃんも手伝うって」
「なんで……」
れおはくすりと笑ってコーヒーカップを取り上げた。
「麻紀、帰ってきてから『なんで』しか言ってないよ。僕がここにいるの、そんなに変?」
「え……」
「この間も言ったよ? 僕は麻紀と一緒にいたい。ただそれだけ。……どこかおかしいかな」
麻紀は顔を背けた。胸が痛い。
忘れてたわけじゃない、むしろ積極的にアプローチしはじめているのだ。
待つって言ってたのに。どうして?
「明日も早いんでしょ? それ食べたらお風呂入って、早く寝てね。僕ももう寝るから」
れおは飲み終えたカップを手に立ち上がった。
「じゃあ、おやすみ」
キッチンの戸口からそう声をかけるだけで、れおは部屋を出ていった。足音が階段を上がり、扉が開いて閉じるまでやっぱり動けなかった。
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