第7話 ピクニック
「麻紀さん? エラー音鳴りっぱなしですよ? ねえ、聞いてます? 麻紀さん」
肩を叩かれてようやく、麻紀は我に返った。目の前の端末が悲鳴を上げっぱなしで、あわててキャンセルボタンを押す。
やかましいエラー音が鳴り止んでほっとため息をつくと、麻紀はもう一度画面に集中する。だがやはりすぐに目は文章を追いかけることをやめ、脳は視覚情報をうまく処理できない。
「ちょっと、島田麻紀!」
再び始まるエラー音に麻紀はキャンセルボタンを押すと、額に手を当てて頭を振った。
「すみません、すこし休憩します」
「さっさと行ってらっしゃい」
後ろに設えられた室長席から上司がじろりと麻紀を睨みつける。悪いのは自分だ。わかっている。頭を下げて麻紀は部屋を出た。
休憩エリアは仕事部屋から少し離れている。そこまで移動してコーヒーを淹れ、ソファに腰を下ろした。
あれから五日も経っているのに、いまだに結論が出せない。唇に残る感触も、心を乱す原因になっている。
今日何回目かのため息を吐き出し、カップをテーブルに置くと両膝に肘をついて両手で顔を覆った。
理仁の緊急通報を受けて飛んで帰ってから五日。
家に逗留している猫星の娘のことは気にならないわけではないし、理仁と二人きりで家に置いておくのも見過ごせない。
だから、今年も研究室を借りに来たれおに、理仁のことを頼んだのだけれど。
――まさか、こんなことになるなんて。
あれから家には帰っていない。理仁には出張で帰れない、と伝えてある。
家に帰ればれおがいる。今のままではどんな顔をして会えばいいのか分からない。
「あれ、どうかしたんすか? 麻紀先輩」
お調子者の声が耳に入ってきて、麻紀はげんなりして顔を上げた。後輩の飯森直也――今一番遭遇したくない相手だ。
飯森は空気を読まずに麻紀の斜め左に腰を下ろした。今日は内勤だったのだろう、珍しくワイシャツにネクタイを締めている。ずりおちそうな丸眼鏡を押し上げては麻紀を覗き込んでくる。
「ただの休憩よ。ここしばらく眠れなくて」
「へえ、麻紀先輩が珍しいっすね。ドクターに見てもらったほうがいいんじゃないすか?」
「そんな暇ないわよ。資料の読み込みも済んでないし、レポートもまだ上げてない。ゆっくり寝てる暇なんかありゃしないわ」
「麻紀先輩にしては珍しいっすね、ほんと。今までならさらっと終わらせて、いまごろ家でビール飲んでる頃なんじゃないすか?」
「煩いわね。あたしにだって不調な時ぐらいあるわよ。それに家に帰ってビールって、何で決めつけるわけ?」
「あれ、ビール党じゃなかったっすか?」
「嫌いじゃないけど、一人で飲む酒じゃないわよ」
「へぇ、そうなんだ。じゃあビール飲みたいときには呼んでくださいよ」
「そのうちね。……ああそうだ、あんた、猫星の大使にコネあったわよね」
麻紀が言うと、飯森は嬉しそうに微笑み、眼鏡をずり上げた。
「嬉しいなあ、覚えててくれたんすか? ええ、大使の次男がレストランやってるんすけど、そこの常連なんすよ」
使えねえ。それをコネと言えるのか? 思わず麻紀は氷の目で睨め上げた。その視線に気がついたようで、飯森はあわてて両手を目の前で振った。
「あ、誤解しないでくださいよっ、単なる客ってわけじゃないんすから」
「ほ〜お?」
「や、やだなあ。麻紀さん、疑ってるっしょ。話は最後まで聞いてくださいよ。で、次男のレストランに足繁く通うようになって、何とお子さんと仲良くなれたんす」
「大使の次男の子ども?」
「ええ、ミリティちゃんっていう女の子なんですけどね。これがまた可愛くて。色合いは三毛なんですけど、茶色の斑の入った耳がですねえ」
いそいそと腕の端末で画像を広げようとする飯森の端末を強制クローズする。
「とりあえずそれはいいから。で?」
「今度ご家族でピクニックするらしいんですけど、大使は赴任してまだ間がないので、次男のほうが詳しいんすよ。で、どこに行こうかって相談してるところにですね、僕が偶然居合わせて、アドバイスしたら。なんと連れてってくれって話になりましてね?」
「……それ、プライベートで、だよな?」
目をすがめて麻紀が言うと、飯森は当然、と胸を張った。
「ええもちろん、プライベートです。あ、でも僕の正体はご存知ですよ。ミリティちゃんがトラックに轢かれかけたのを助けたのが最初の出会いで、トラック止めさせるのに名乗っちゃいましたから」
「あのなあ……そういうのは上司に連絡しとけよ。どんなところで役に立つか分からんだろ?」
麻紀は体を起こし、カップを手に取ると口に運んだ。ぬるくなりかけていたが、喉を潤すには丁度いい。
「えっと、室長には連絡済みっすよ。確かあの時も麻紀さん、理仁くんの緊急通報で休んでたでしょ」
「あ……あ、そう。室長に連絡済みならいいわ。実は内々に大使に確認したいことがあるのよ」
「はあ。内々に、ですか? でも、難しいと思いますよ? すんげえ忙しい人なんで」
「忙しい割にはピクニックに行くんだよな?」
ちらりと流し目で飯森を見ると、飯森は首をひねっている。
「えっと、意味がよくわかんないんすけど、プライベートで、ですよ? もちろん」
「わかってる。つまりだな……わたしをそのバーベキューだかピクニックだかに連れて行けってこと。ちょっと聞いてみたいことがあるんだ」
飯森は眉根を寄せて考え込んでいたかと思うとぽんと手を打って笑顔で顔を上げた。
「いいっすよ。但し、プライベートって言ってあるんで、仕事の先輩だからとかっていう立場じゃ連れて行けないっす」
「構わないよ」
麻紀が即答すると、飯森はにんまりと口角を上げた。
「じゃあ、僕の恋人っていうことで」
麻紀は眉根を寄せた。
「……ちょっと待て、何の話だ」
「だから、言ったじゃないですか。プライベートな関係の人間しか連れていけません。当日はSPもつくと思うけど、仕事関係の話は一切なしって言ってあるんで。そんなところに先輩ですって連れていけないっすよ」
眉間を押さえる。つまり、飯森の家族同然の人間以外はノーサンキューってことか? 結婚してない飯森の家族ってことで恋人役?
恋人って、つまりそういうことだよな?
唐突に脳裏にれおの顔が浮かんで、麻紀は思わず頭を横に振った。
「だめっすか。じゃあこの話はなかったことに」
「ちょ、ちょっとまって。そうじゃなくて」
「じゃあ、いいんすね?」
「……そのピクニックっていつだ?」
「えっと、次の僕の休みなんで……あ、明日っす」
「明日!?」
思わず声がでかくなる。休憩エリアには他に人がいなかったが、麻紀は思わず自分の口を手で覆った。
「はい。なんで、十分かわいい格好をしてきてくださいね。あくまでもミリティちゃんがメインのピクニックですから。ジーパンとかだめですからね? ミリティちゃんが怖がりますから」
「う……わかった」
そんな可愛い格好の服などこっちには持ってきていない。ということは、一度家に帰らなければならない。今日のうちに帰って、着替えを持ってこっちに来ておくか、明日、家から出発するか……。
れおはいつもと同じなら、夜には自宅に戻って、朝十時に家に来る。その時間さえ外せば、顔は合わせないで済むはずだ。
そうと決まれば、のんびり休憩している場合じゃない。飯森と合わせて明日の休暇を申請して、今日のノルマは全部終わらせて置かないと。
「あとで待ち合わせの場所と時間、送っといて」
ソファを立ちカップを返却口に戻す。
「わかったっす。あ、そうだ。お弁当とか作れませんか?」
「お弁当……だと?」
「ええ、一応彼女ってことなんで、ピクニックで彼女が何も作ってこないってのはないんで。よろしくおねがいしますねー」
飯森はそれだけ言うととっとと戻っていった。
「ちょっとまてっ!」
叫んだ時にはもう誰もおらず、麻紀は頭を抱える羽目になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます