第9話 白いスカート
眠れなかった。
ううん、寝たはず。端末の記録を見ると、六時間は熟睡してる。
気が付かないうちに寝てたパターンだ。
なのに。
どうしてこう落ち着かないんだろう。
悶々とくだらない悩みが浮かんでは消える。
時計を見ればもう七時を回っている。
食事を摂るならもう下りないといけない。わかっているのに……。
姿見に映る自分の姿をもう一度見て、麻紀はため息をついた。
――絶対やばい。
鏡の中の自分は、白いコットンのスカートとブラウス、ボレロのフェミニンな恰好をしている。
いつだったか学生時代の友人たちに勝負着として無理やり買わされたうちの一揃えだ。これにあとストローハットがセットになっていたが、さすがに時が経ちすぎて、触っただけでぼろぼろになったから白い帽子に変更する予定だ。
ものすごく気恥ずかしい。
学生時代の服がまだ着られるとは思っていなかった。入らなかったら入らなかったで、もう少し大人びた礼服っぽいものを準備するつもりだった。フォーマルウェアはパンツスタイルでないものもあったから。
「スカートなんて……何年ぶりかしら」
誰かの葬式も誰かの結婚式も、基本パンツスーツでしのいできた。
幸い見合いなんてこともなかったし、スカートを強要されることは職場関係では一度もない。
数年ぶりの自分の恰好があまりにも恥ずかしくてこのまま逃げ出したい気分なのだが、今日のミッションはこれをクリアして、猫星の大使と仲良くなることだ。
……自分の羞恥などを気にしている場合じゃないのだ。
「……よし」
ガッツポーズを決め、自分を奮い起こすと、ようやく部屋の扉を開けた。
◇◇◇◇
「おはようございます。麻紀さん」
出たところに第一関門が立っていて、思わず部屋に回れ右したくなった。
満面の笑みで迎えたのはパティだった。ジーンズ生地のワンピースをそつなく着こなしている。サンダルとストローハットで完璧な夏休みスタイルだ。
「お、はよう、パティちゃん」
微笑を浮かべようとして、笑顔がひくついたのが自分でもわかった。
「麻紀さん、よくお似合いですね」
「そ、そう? ありがとう」
ぎこちなく返しつつ、麻紀は内心ため息をつく。きっと職場のやつらが見たら『年甲斐もなく』っていうだろうなあ。飯森は絶対言う。後できっちり絞めてやろう。
「麻紀さん? 降りないんですか?」
「あ、ああ、降りるよ。先に降りてくれる?」
「え、あ、はい」
キッチンからいい匂いが漂ってくる。理仁とれおが弁当を作っているのだろう。そこに先頭切って自分から入っていく勇気はなかった。
パティを促しつつ、キッチンには先に入ってもらう。
「おはようございます、ごめんなさい、お手伝いできなくて」
そう言って頭を下げるパティの耳はへにゃっと倒れている。しっぽも揺れていて、表情に出さない感情が読み取れる
「気にしないで。朝ごはんできてるから座って。麻紀姉も……」
パティが横にずれて、応対した理仁と視線が合った途端、理仁は言葉を切った。
いたたまれなくて視線を外す。
こんな格好を甥っ子に見せたのは初めてだ。恥ずかしいとか年甲斐もなくとか言われたら立ち直れないかもしれない。
だが、いつまでたっても覚悟した言葉は降ってこなかった。
「……麻紀?」
れおの声に思わず顔を上げると、理仁をかばうようにれおが立っていた。
その表情はこわばっていて、眉間にはしわが寄っているし、目には怒りが見え隠れする。
れおがこんな顔をするなんて初めて見た。そんなに似合っていないんだ、と麻紀は即座に読み取った。
「ご、ごめんっ」
踵を返して階段を駆け上る。時間はないけれど、ごはんを諦めれば着替える時間はできるだろう。
階段を駆け上がったところで後ろから腕をつかまれた。麻紀は握られた腕の痛みに顔をしかめながら立ち止まる。ぐるりと振り向かされたが、れおの怒った顔を見たくなくて顔を伏せる。
「麻紀」
「ご、ごめん」
「……それは僕が何に対して怒ってるのか、わかってて謝ってるの?」
「わ、かってる」
……こんなに怒るほどひどいんだ。確かに学生時代の服だし、デザインも時代遅れ。今のあたしには似合わない。
「だから着替えっ……」
「わかってない」
怒った声のれおは、ぐいと腕を引っ張った。下を向いたままだった麻紀はぎゅうと抱き着かれてようやく腕に抱き込まれたことに気が付いた。
「ちょ、ちょっとっ、れお」
「……今日のピクニックの相手は誰?」
腕の中から逃れようともがく麻紀の耳元でれおが低い声で囁いた。その言葉に麻紀は力を抜くと抵抗するのをやめた。羞恥でいっぱいだった頭がクリアになっていく。
「……理仁にも言ったけど、潜入捜査なのよ。相手の素性を教えるわけにはいかないわ」
「じゃあ、言い直す。……だれにこんなかわいい恰好を見せるの?」
「……え?」
顔を上げると、すぐそばに眉をひそめて不快げなれおの瞳が揺れていた。
……かわ、いい?
「僕の前でもこんな格好しないのに、だれに見せるために着飾ったの? 同僚? それとも……」
「だ、だれって……だから、仕事……んっ」
言い訳じみた言葉はれおの唇に吸い取られた。そのまま深く貪られて膝の力が抜ける。
「……着替えて。仕事ならいつもの恰好で十分でしょう?」
「それじゃだめだからわざわざ戻ってきたんじゃないの……」
耳のそばで囁かれ、ぱくりと耳たぶを甘噛みされて麻紀は身を震わせる。普通に話すだけなら解放してくれればいいのに、ぎゅうぎゅうに抱き着かれたままだ。
「どうしても?」
「どうしても。……相手に小さな女の子がいるのよ。怯えさせたくないの」
小さな女の子、と聞いてれおはようやく腕の力を緩めた。ほっと息をついて麻紀が顔を上げると、れおは唇をとがらせて「じゃあ」と言った。
「今日のピクニックが終わったら戻ってきて。明日の夏祭り、その恰好で僕につきあってくれたら許す」
「……どうしてれおに許してもらわなきゃならないのよ」
むっとして麻紀が睨みつけると、れおはさらに唇を尖らせた。
「当たり前でしょう? プロポーズした子が仕事とはいえ可愛く着飾ってほかの男とデートするのを見逃そうって言ってるんだから。……それぐらいしてくれても罰は当たらないんじゃない?」
「純然たる仕事なのよ。それぐらいで……」
嫉妬しないで、と言いかけて麻紀は口をつぐんだ。
つまり、れおは嫉妬しているのだ。麻紀が誰かとピクニックに行く。その中に男がいるのだと思って。
男はいないとは言えない。むしろ、連れて行ってもらうのは後輩だとしても男だ。奴がいなければ、今回の件はそもそも成り立たない。
「……それぐらいで、何?」
「なんでもないっ」
ぷいと顔をそむける。きっと自分の顔は赤くなっているだろう。
――れおが嫉妬したことを嬉しいと思うだなんて。
「で、今日は戻ってくるんだよね?」
いつもの口調に戻ったれおに、麻紀は視線を向ける。眼の縁が赤いものの、いつものれおだ。
「……どうせ重箱も持って帰らなきゃだし、この格好で職場に戻れないから帰ってくるわよ」
「じゃあ、許す」
れおはそう言い、麻紀の下ろした髪をそっと手でくしけずると額にキスを落とした。
「降りようか。朝ごはん食べる時間がなくなる」
れおに手を引かれて階段を降りながら、誰のせいよ、と麻紀は内心ため息をついた。
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