第5話 忘れる。
八月に入って講義がなくなると、麻紀は理仁を学童保育に送り出して昼前から大学に通い、帰宅は日が落ちてからというのが日常になった。
七月半ばに夏休みに入ったれおは、毎週土日には通ってきて理仁の相手をするようになった。
大体が十時頃にやってきて、昼食をともにして夕食前に帰る。
理仁が時折わがままを言うことがあって、晩ごはんまで一緒に食べて帰ることはあったが、そうなるとあまりに遅い時間になりすぎる。
できるだけ日没前にはれおを帰すように理仁には言いおいてあるが、楽しいことに没頭すると時間は忘れがちだ。
駅まで一人で歩かせるのはやはり物騒なので、この間は駅まで送った。
八月の二週目。
世間がお盆休みに入るため、大学も研究室を含めて一週間休みになるとの通知が出ていて、その日は平日にも関わらず麻紀は家にいた。
もちろん、小学校の学童保育も休日扱いで、理仁は家にいる。
それを知ってれおは連日通ってきていた。
朝十時になれば必ず家の前にいる。
「早瀬くん、家遠いよね?」
昼ごはんを作ると言い出したれおにキッチンを占領され、麻紀は所在なくキッチンの椅子に座って眺めながら口を開いた。
麻紀が実習で行った学校は最寄りの駅から三つ先だ。
公立だから学区は決まっていて、麻紀が住んでいる当たりでは絶対にない。
「ああ、そういえば言ってませんでしたっけ。僕の家、この学区にあるんですよ」
「え?」
住所を聞くと、駅の反対方面へ二十分ほど歩いた辺りだという。
だが、普段はあの駅を使ってないような話をしていなかったか?
「ちょっと待ってよ、じゃあなんであの学校に通ってるの? あそこは公立だし、学区をまたいでの通学って普通はできないでしょう?」
「事情があって」
それだけ言うとれおは口を引き結ぶ。
余程いいたくない理由があるのだろうと麻紀は気がついた。
いじめで学区を変わることはあると聞いた。
通常は引っ越しが前提だが、いじめの場合は例外なく認められる。
クラスの中では比較的人気者の位置にいたれおがいじめにあっているとは思い難いのだが。
フライパンを振るうれおの背中を見つめる。
中二の体型としては少し小さめかもしれないが、男子はこれから伸びる。高校で三十センチ以上伸びた例もある。
と、不意に振り返ったれおと視線があった。れおはくすりと笑うと口を開いた。
「僕がいじめにでもあってるんじゃないかって心配してくれてるんだ、島田先生?」
「ちっ……」
不覚にも麻紀ではなく島田先生と呼ばれたことに動揺してしまった。
もう先生でもなんでもないのに、生徒と先生の関係に引き戻されたように錯覚する。
「違いますよ。心配いりません」
「そ、そう」
「でも嬉しいです」
にっこりと微笑むれおに、麻紀はつい視線を逸らした。
「べ、つにっ、い、いちおう担任だったわけだしっ」
何を赤くなることがあろうか。でも、麻紀はだんだん登ってきた血で顔がほてるのを感じていた。
くすっと笑うとれおはダイニングテーブルをぐるりと回ってきて、麻紀の耳のそばで囁いた。
「ねえ、先生って呼んだほうがいい?」
「ばっ」
麻紀は耳を手で覆って身をよじった。
「からかうのはやめてってば」
「からかってないよ。僕はいつも本気」
ふぅ、と麻紀はため息をついて背筋を伸ばし、れおに向き直った。
「あたしも経験あるわ。中学生の時にやってきた教育実習生がハンサムで、みんなできゃーきゃー言ってはまとわりついてた。ラブレターだしたり、家を突き止めようとした子もいたわ。休みには出歩いていそうなあたりを探して歩いたりしてね。でも、実習が終わって半年も経てば、どんな顔だったかさえ覚えてないの。今では名前も思い出せないわ。そんな、一過性の熱病のようなものよ。忘れなさい」
れおは笑みを消して麻紀をまっすぐ見つめた。
「……忘れないよ。それに、麻紀も忘れないでしょう? 学内で僕とキスしたこと」
れおがゆっくりと自分の唇を親指でなぞるのを、麻紀は目をそらすこともできずに見つめた。
どきりと心臓が高鳴る。
顔に血が集まって熱くなるのをれおはじっと見つめ、ほんのり微笑んだ。
麻紀はようやく視線を外すと息をついた。
「忘れるわ。まだ君は子供だもの。理仁のほうが年が近いのよ?」
「そんなこと」
言い募るれおに麻紀は首を振った。
「君が今のあたしの年になったら、あたしは三十。流石にその頃には結婚してると思うし、念願かなって星間パトロールにも入れてるかもしれない。そうしたらここにはもう帰ってこないわ。姉貴と同じで長くこの星を離れることになる」
麻紀は庭の方へ視線を向けた。
ガラス戸の向こうは夏の日差しが燦々と降り注いでいる。
「じゃあもし、僕が二十歳になるまで麻紀が独身のままなら、僕のものになってくれる?」
麻紀の視線を遮るようにれおは麻紀の前に立った。
「……あたしはものじゃないわ」
「もちろん、ものだなんて思ってないよ。それに、夢を追う麻紀が好きなんだ。星間パトロールになるのを止めないし、むしろ応援するよ」
柔らかな微笑みを浮かべるれおに、麻紀はやはり心臓が高鳴るのを感じずにはいられなかった。
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