第4話 夏休み

「じゃあ、次回来る時はキットを持ってくるよ」

「やくそくだよ? れおにい


 理仁はにっこり笑ってそう言うとれおに右手の小指を差し出した。

 れおも微笑みながら小指を絡めると指切りげんまんをして、麻紀に手を振って去っていく。

 その背中を見送りながら、理仁を見下ろした。

 この甥っ子が、初対面の人にここまで砕けた態度を取るとは思わなかった。

 一緒にいたのはそれこそ数時間もないだろう。

 それとも兄弟がいないから、そういうのに憧れていたのだろうか。

 麻紀のことをおばさんと呼ばせずに麻紀姉まきねえと呼ばせたのは自分だが、れおまでれお兄と呼ぶとは思わなかった。

 身近に年上の男性がいなかったのは事実だ。

 六歳になった年に唯一の身近な男である義兄は姉である母とともに旅に出ていってしまったし、他の親族とはあまり交流もないので訪ねてくることもない。

 せいぜいが担任の教師ぐらいだ。去年は女の先生だったが今年は男の先生だという。

 れおの姿が全く見えなくなるまで、理仁は外でずっと立っていた。


「さ、入ろうか」


 もう日も長くなってきて、午後七時になってもまだ空は明るい。

 駅までは一本道だし迷いはしないだろう。

 中学二年生を一人で帰らせてしまったのは少し気になったが、送ると主張したら断られてしまったのだ。仕方がない。

 理仁はようやく諦めたように振り向くと、麻紀の手をきゅっと握ってきた。


「どうしたの?」

「……お兄ちゃんがいたらよかったな」


 どきりと心臓が踊った。

 それは邪な意味でも何でもなかったに違いない言葉なのだが、れおの言葉が蘇ってきて麻紀はあわてて首を振った。

 今から理仁に兄ができることは百パーセントありえないのだ。

 何か言おうと何度か口を開いたものの、結局出てきたのは陳腐な言葉だった。


「早瀬くんがまた遊びに来てくれるわよ。約束したんでしょう?」


 すると理仁はぱぁっと表情を輝かせてうなずいた。


「うん。もうすぐなつやすみだから、なつやすみになったらまいにちあそんでくれるって!」


 その言葉に麻紀は内心げぇっと叫びながらもにっこりと微笑んだ。


「そう、よかったわね」


 れおが毎日来る。

 八月になるまでは麻紀は大学の講義がある。

 その後九月一杯までの二ヶ月が麻紀にとっては休みだが、卒論のためにほぼ毎日大学に通う予定だった。

 自分がいない間の理仁の世話をれおに任せてしまえるのならずいぶん楽にはなる――。

 そこまで考えて、麻紀は首を横に振った。

 中学二年生なのだ。

 来年には高校受験も控えている。

 大事な夏休みを理仁のために潰させるわけには行かない。

 大学に通っている間、理仁は予定通り小学校の学童保育に預けよう。

 学童保育のない土日はできるだけ家にいるようにして、なるべく料理も練習して。

 卒論は理仁が寝たあとでも書ける。

 家に戻ってお風呂の用意をしながら、来週からのスケジュールを組み立てる麻紀だった。


◇◇◇◇


「なんで?」


 翌週。

 十時にやってきたれおは、夏休みに理仁が学童保育に行く話を聞いて首を傾げた。


「麻紀は八月から休み、僕は来週開けたら夏休みでしょ? 理仁を学童保育に行かせる意味わかんないけど」

「だから、あたしは卒論書かなきゃいけないから、休みの間は大学の研究室に籠もりっきりになるの。土日は休みだけど、その間、理仁を一人にするわけに行かないでしょう?」

「だから僕が来るって言ってるんだけど? 何か問題があるわけ? 麻紀」

「理仁のために君の大事な中学二年の夏休みを潰させるわけに行かないでしょう?」


 きょとんとしたままのれおに麻紀がそう言うと、れおは「ああ」と口に出した。

 ようやく納得してくれたか、と息を吐いた麻紀に、れおはにっこりと微笑んだ。


「もしかして僕のこと、心配してくれたんだ」

「し、心配なんてしてないからっ。仮にも君の学校で先生をしてたあたしが、生徒をこき使うなんてこと、できるわけないでしょう?」

「そんなこと、気にする必要ないのに。もう先生でも生徒でもないんだよ? 麻紀」

「だから、呼び捨てにするのやめてってば」

「麻紀だって、僕のことれおって呼んでくれないじゃないか」


 それは等価なのか? と首をひねりながらも麻紀は唇を尖らせた。


「とにかくっ、八月の平日の昼間は来ても理仁いないから。あたしもいないから」

「仕方ないな……せっかく理仁くんにいろいろ教えたかったのに」

「いろいろって、何を教えるつもりよ」

「ん? 料理のレシピとか、美味いだしの取り方とか。電子部品の取り扱いとかもかな。電子コテはまだ早いだろうから、プログラミングの原理とか。小学校に上がったんだから、理仁くん専用の端末はもうあるよね?」

「え、ええ。もちろんあるけど」


 この時代、学校に上がったら専用の端末が配布される。

 バーチャルキーボードの使い方を覚えたりするのはかなり早く、宿題は全て専用端末で行い、提出もオンラインで行うのが常識だ。

 もちろん、対象児童の年齢に合わせたソフトウェアしかインストールはできないのだが。


「じゃあ、それに電子ブロックのシミュレーションプログラムと、初歩のプログラミング学習ソフトをインストールさせてくれる? 僕が使ってたものなんだけど」

「えっ、勝手に入れても大丈夫なの?」


 麻紀がぎょっとしてれおを見ると、れおはにっこり笑った。


「大丈夫。僕も小学一年生から使ってたし、インストールの方法はわかってるから。文科省推薦のソフトだから問題ないよ。それとも親権者の許可が必要?」


 親権者、と言われて自然と麻紀は眉根を寄せた。


「理仁の教育については、姉貴から一任されてるから」

「それならいいね。じゃあ来週インストールするよ。たぶん理仁くんなら退屈せずに遊んでくれると思う」

「分かったわ」

「ねえ、もういい?」


 横でじれたように理仁がれおの腕を引っ張る。

 その顔はぶんむくれていて、こんな顔をする理仁を麻紀は久しぶりに見た。

 最後に見たのは、姉夫婦が旅立つと知らされたあの日だ。

 あれから、理仁はずっと我慢してきたのだ。

 こうやって誰かに甘えたい年頃だろうに。

 考えてみれば、麻紀自身もあまり甘えさせてやれていない。

 性格的なものもあるだろうが、むしろ生活能力なしの女と認定されて世話をされる側に回ってしまった。

 甘えられる対象ではないのだ。


「ああ、お話は終わったよ。じゃあ、この間の続きやろうか。約束してたキットも持ってきたよ」

「わぁい!」


 理仁がぱあっと明るい顔で笑う。

 れおが来てから理仁は明らかに明るくなった。歳相応の幼さも見せるようになった。

 こんな幼い子にずっと無理をさせてきたのだ、ということを再認識させられて、麻紀は眉根を寄せて胸を押さえた。

 罪悪感が半端ない。

 でも、姉夫婦が帰ってこない以上、自分までこの家を出てしまうわけには行かない。

 そうなれば、理仁は本当に一人になってしまう。


「麻紀?」


 顔を上げれば、心配そうに顔を覗き込んでいるれおの顔があった。その後ろから理仁も覗いている。


「どうしたの? そんなに苦しそうな顔して」

「な、なんでもないの。ちょっと考えごと」

「卒論のこと?」

「え? あ、そう。そうなの。ちょっと悩んでてね。ごめん、早瀬くん、理仁を頼んでいいかな?」


 今この二人の顔を見続けるのは辛いものがあった。奥歯を噛みしめて微笑みを返す。


「もちろん構わないけど、出かけるの?」

「ええ、卒論に使う資料の整理をしないと」

「わかった。でも日が落ちる前には戻ってね。理仁を一人にしたくないから」

「わ、わかってるわ」


 れおにうなずき、理仁の頭を撫でると麻紀は出かける準備のために自室へと引っ込んだ。

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