第11話 大使一家
「親父、準備できた」
言葉を失い、さらさらと流れる水の音に思考を深くしていた麻紀は、不意に耳に飛び込んできたそれ以外の音に我に返った。
どこかで聞き覚えがある声。
「そうか」
「で、飯森の連れが見当たらねえんだけど」
「え?」
飯森、と言われて麻紀は声を上げ、声の方を向いた。が、隣に座る庭師の体が大きくて、声の主が見えない。
「え?」
ひょい、と庭師の向こうから顔をのぞかせたのは、やはりコンロの前で火を起こしていた目の鋭いシェフ――ノルティだった。
「なんだ、ここにいたのか。親父の影に隠れて見えなかった」
親父、と言いながらノルティは隣の庭師をちらりと見る。
麻紀は眉根を寄せた。ノルティは大使の次男坊だったはず。なら――。
「えええっ!」
思わず大声を上げて飛びのいた。
隣に座っていたのが庭師なんかでなく、大使本人だったなんて!
ここで会ってからの会話を反芻すると、あまりにも不躾かつ不勉強な質問ばかりで気を失いそうになる。
庭師あらため大使は、にこやかに微笑みながら麻紀の方を向いた。その表情にはどこか、悪戯が成功したときの喜びが隠れて見える。
「驚かせてすみません」
「い、いえ。わたしの方こそ申し訳ありません」
「親父、だからやめろって言ってんのに」
大使の向こう側でノルティがやれやれと肩をすくめている。そういえば初対面の時と比べて口調がぞんざいだ。あの時はきっと麻紀が初見のお客さんだからとよそ行きの対応をしていたに違いない。
この口調のおかげか、麻紀は大使の前でありかつやらかした後だということも忘れられた。一旦沸騰しかけた頭をリセットする。
「気にしないでくださいね。これ、親父のいつもの悪戯なんで。まさか大使本人が庭師やってるとか思わないでしょ?」
ノルティの言葉に麻紀は口元を緩めた。素の口調とは違うところから、どうやら一応猫をかぶろうとはしているらしい。
「ええ。びっくりしました。本当にこのお庭を?」
「庭いじりは私の趣味ですから。気に入っていただけたようで、なによりです」
そう言うと、庭師は立ち上がり、麦わら帽子を脱いで胸に当てた。
「ノルティの父、フェレスです。ようこそわが邸へ」
「島田真紀と申します」
麻紀はいつもの癖で言いかけた肩書を飲み込んで、昨夜頭に叩き込んでおいた猫星流の立礼を返した。
大使は、猫星大使として名乗らなかった。飯森からも言われていたように、この場は
だから、肩書は要らない。一個人として、プライベートで参加しているのだから、警戒していると気取られてはならない。
「飯森の彼女なんだって」
ノルティが補足するように口にした言葉に、麻紀は笑顔をこわばらせた。正直なところ、自分でも名乗りたくなかったのだ。
「ああ、そうでしたか」
「はい」
はにかむようにほんのり頬を染めて麻紀はうなずいた。潜入捜査で慣れたシチュエーションと役割分担だ。難しくはない。
が、ノルティは怪訝な顔で麻紀の顔を覗き込んだ。
「えっと、何か……?」
「いや。……火の準備できたから」
それだけ言うとノルティはテントの方へと去っていった。息子を見送った大使フェレスは振り向くと麦わら帽子をかぶり直し、麻紀の方へ手を差し伸べた。
「では行きましょうか、お嬢さん」
「はい」
素直に手を重ねると、フェレスはまるで貴婦人を扱うかのように優しくエスコートしてくれる。
大使が作務衣でよかった、と麻紀はこっそり息をついた。
事前資料で見た大使の正装姿は実にきらびやかで美しかった。まあ、だから作務衣姿で本人だと気が付かなかったわけなのだが。
恰幅がいいのを差し引いても、あの姿で横に立たれたら、こんな古臭いファッションの自分では気後れしていただろう。
「飯森くんには息子も孫も世話になっていてね。いろいろ話を聞かせてもらえると嬉しい」
「……はい」
飯森とそれなりに良好な関係を結んでいると思われる大使に聞かせてもセーフな話って、どれぐらいあっただろうか、とつい真面目に自分の記憶を漁る。
ぎりぎり話せるエピソードに、多少の脚色をつけておけば大丈夫だろうか。
「なにせ、ミリティが飯森くんを気に入ってね。お嫁に行くのだと言って聞かなくて」
「は……ええっ!」
思わずエスコートされていた手を引き抜いて立ち止まった。
まずくないか、これ。
ミリティちゃんの敵愾心たっぷりの視線を思い出す。
あれは、そういうことだったわけ?
父親も祖父も当然ミリティちゃんを応援するわけで。
――完全なるアウェイだと思ったのは、勘違いじゃなかったらしい。
「どうかしましたか?」
「あの……いえ」
再び差し出された手に手を重ねながら、これから始まるバーベキューが針の筵になることは確定したな、と麻紀は肩を落とした。
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