Placebo Ghost

OOP(場違い)

第1章 忘却と復活の幽霊現象

幽霊ランデヴー


 オランダに、ブアメードという死刑囚がいた。


 その男は、目隠しをされた状態でベッドの上に縛り付けられた。

 医師の声。


「これから実験を始めます」


 カチャカチャと、何か金属器のようなものを手で漁るような音がした。

 医師の声。


「人間が死ぬのはどれくらいの血液を失ったときでしょうか」

「体の血液ぜんぶの、3分の1。それを失えば確実に死に至るでしょう」


 右も左も分からない暗闇の中にいるブアメード死刑囚の足の親指に、医師はメスを突きつける。

 サク、と痛みが走る。


 暗闇の中で、ぽたぽたと血の滴り落ちる音が響く。


 医師の声。


「少しずつだが、このまま放っておけば永久に血が出ると思います」


 暗闇の中で、ぽたぽたと血の滴り落ちる音が、その音だけが響く。

 ぽたぽたという音は、確実に100回を超えていた。


 数時間が過ぎた。

 医師の声。


「そろそろですか?」

「3分の1が抜けたでしょう」


 医師たちは、ブアメードの脈を取った。


 死んでいた。


 医師たちは驚いた。

 何故なら、メスで切りつけたブアメードの足の親指からは、ほとんど血なんて出ていなかったから。

 ぽたぽたという音は、ただの水滴を落とした音。


 ブアメードは、体全体の3分の1どころか、100分の1の血液すら失ってはいなかった。だというのに、絶命していた。

 ブアメード自身の脳が、『死ぬべき段階に達してしまった』と思い込んで、自ら生命活動をやめてしまったのだ。



 プラシーボ効果。


 この『ブアメードの血実験』の場合においては人体にマイナスの影響を及ぼしているので、ノーシーボ効果と呼ぶのが適当であるが。

 風邪をひいている人間になんの効力もない粉を飲ませて、「それは最新の風邪薬だからよく治りますよ」と騙したら、本当に効果を発揮してしまった。そんな実験もある。


 ようするに、脳の思い込みによって、本当に思い込んだ通りの効果が生まれてしまう現象ということだ。心理学及び脳科学においては、かなり一般的で有名なものだと言える。


 ブアメードの血実験においても、風邪薬の実験においても、このプラシーボ効果はその人間の中だけで完結する。


 ほんの少しの血液しか失っていない人間が、その脳で『致死量の血液を失った』と思い込み、その体に死が訪れる。

 ただの粉を飲んだ人間が、その脳で『風邪薬を飲んだ』と思い込み、その体に効果が発揮される。


 だけどもし。


 その『思い込み』によって、自分の外部に影響を与えることができると言ったら?

 お前の体は誰かが『思い込んだ』おかげでそこに存在できるのであって、もともとお前は生まれてくる筈のない人間だったんだ、と言ったら?

 お前が強く『思い込む』、強く『信じる』ことによって、亡くした人が帰ってくるかもしれない、と言ったら?



 これは、馬鹿な俺たちが掲げた、宇宙を巻き込んだ暴論の話。




 そもそも俺は別に技術職に就きたいわけでも工学職に就きたいわけでもなく、ただ単に就職先が安定するからというだけの理由でこの四津辺高専に通っているのであって、問題なく単位を取って留年を回避して問題なく卒業できればそれでいいのだ。

 我が高専のアドミッションポリシーに真っ向から喧嘩を売るようなその呟きは、誰の耳に届くこともなく真夏の蜃気楼の歪に飲まれて消えていった。


 クソ暑い8月3日。


 エアコンの効いた自室で昼夜問わず『双子葉ちゃん』に入り浸っては怠惰な夏休みを満喫していたというのに、変に企画班に片足を突っ込んでしまったばっかりに、文化祭準備のために休日出勤を強いられて、俺は不機嫌極まりなかった。

 今日持っていくために事前に買っておいた木材は、背負っているリュックサックから大きくはみ出ている。たまに角張っている部分が首筋に当たってすごく痛い思いをする。

 なんで俺のような根暗がクラスの中心人物となるような人間と友達になってしまったんだ、そのせいでこんな役目を押し付けられてるんだぞ。関わらなければこんなクソしんどい仕事を任されることもなかったんだぞ。神よ、なんでこんなに酷い運命を俺に背負わせるんですか。

 無宗教の身分で神様に文句を言ってみるも、やはり虚しく消えていく。

 まあ神というのが実際にいたとしても、こんな不躾で不精な願いは叶わないだろうが。


 傾斜の小さい坂を上りきり、ビル群が立ち並ぶ通りへ出る。目の前で信号が赤になったのを最早煩わしくも思わない。

 重い重いリュックサックを一旦下ろして、額の汗を拭う。ここまで来ればもう高専はすぐそこだ、そう自分に言い聞かせながら、息を整えた。


 横断歩道を渡って右に曲がる。

 リサイクルショップとドラッグストアは入口を開放しており、前を通る俺に内部の空調の涼しさを分け与えてくれた。少しの間天国のような愉悦を感じて歩くも、そのすぐ後にあったカレー屋の入口からはものすごい熱気とカレー臭がむんむんと立ち込めており、さっきまでの快感が帳消しにされるような地獄を俺にくれた。


 そのまま歩いていると、ビルとビルの谷間、裏路地と呼べるような場所に差し掛かった。

 そこにポツンと置かれた自販機を一目見た瞬間、乾いた体が反射的に水を求めて、路地に体を滑り込ませる。

 コインを入れてボタンを押すと、ガッシャンとやかましい音を立ててモンエネの缶が落ちてくる。受け取り口を開けて、缶の冷たい感触を愛でるように握り、プルタブを開けてゴクゴクと飲み干す。

 肌に浮かんだ球粒の汗が、スッと引いていくような感じがした。


「クニーン……!」


 血の気がスッと引くような感じがした。


 ……誰かが、消え入るような声で俺を呼んだ。

 今のはどっちから声がしたんだ?ていうか、男の声だったか?女の声だったか?パニックに陥ること数秒、右に振り向いて、その声の主を見つけた。


 黒い髪を肩まで伸ばし、真っ赤なワンピースを着た、小学生らしき女の子。


 一番の特徴は、首の、こちらから見て左側にできている、ミミズがのたうちまわっている様を思わせる、痛々しい火傷の跡。

 真っ先に思い浮かんだ2文字、虐待。


「……君は?どこから来たの?」


 その子がなぜかこちらに駆け寄ってくるので、俺は柄にもなく、なんとかしてあげないとという気になり、声をかけてしまった。


 そこで気付いた。


 アカサ。


 …………倉科愛紗くらしな あいさ


 子供の頃の俺が、仲良くしていた女の子。

 近所に住んでいた女の子。

 幼馴染の女の子。

 あの日のままの女の子。


「……クニーン! ……クニーンだよね!」


 三度みたび名前を呼ばれる。


 昔も、アカサはこんなふうに、俺のことをクニーンと呼んでいた。

 当時流行っていた戦隊モノのごっこ遊びをしていた時に、俺がグリーン役をしたから、俺の名前『洗馬邦信あらま くにのぶ』のクニノブをもじって、クニーンと呼んできたのが初めだった。

 だから俺も、レッド役をしていた愛紗の名前をもじって、アカサと呼んだんだ。

 アカサは赤が好きで、よくこの真っ赤なワンピースを好んで着ていたし、戦隊ごっ

こでもレッドの役を譲ろうとしなかった。


「アカサ……なのか……?」


 そう問いかけた。

 そこで、頭が冷えて、冷静になってしまった。


 ……アカサはあの日事故で死んだはずだと、思い出してしまった。


「…………!?」


 次の瞬間、アカサの姿は消失していた。

 まるで、俺がアカサの死を思い出したせいで消えたとでも言うように。

 まるで、お前のせいで消えたと、「あーあ、やっちゃったな」、なんて、誰かに責められるように。


 俺はリュックサックを置き、走り出した。


 目の前で消えるなんてありえない。きっとまだ近くにいる。

 まばたきもしていないのに、目の前で、一瞬にして、パッと消え去ってしまったという事実から、走り去るところなんて見ていないという事実から、あえて目を背けるように、裏路地を出て、しばらくひたすらに走った。

 奇異の目に晒されながらも、がむしゃらに走った。


 どこだ、どこだどこだどこだどこだ―――!!

 どこに行ったんだ、アカサ……聞きたいことがいっぱいあるのに……!!


 信号に引っかかったことを、今度こそ煩わしく感じた。


「………………」


 息を荒げながら、膝に手をつく。

 いままで走りまくって誤魔化していた、わけのわからない現象への……『未知』への恐怖のようなものが、沸々とこみ上げてきて。

 膝から手が離れて、直立姿勢に戻って。

 わなわなと目を泳がせて、手から力が抜けて。


「………………………幽霊……?」


 呆然としながら、そう呟くしかなかった。

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