1-2 レベル1のスタートライン
夜が訪れる。昨日見たはずのテレビ番組が流れている。展開も話題もやはり昨日見たままだった。
昨日はそこそこ笑えたはずだったのに、今日はくすりともしなかった。
校則では自転車通学をする生徒は全員着用するようにと差し出された自転車用ヘルメットはあまりにもダサい。だが、身を守るには十分だった。
原色のような黄色いヘルメットを油性のマジックで黒く塗りつぶす作業は時間がかかった。
昨日過ごしたはずの今日の二〇時。予定の時刻までは十分に時間があった。
それなのに手が震えたのだ。恐怖からか高揚からかはわからない。だが、太いマジックで丸いだけのヘルメットを塗りつぶすという作業に必要以上の時間を取られてしまった。
時間を掛けただけで丁寧さはない。
当初の目的の時間まですでにいくばくもなかった。
軍手を握りしめ、履き慣れた運動靴につま先を突っ込む。靴ひもをきつく結び立ち上がった。
「魔物退治と洒落こむか」
自分自身を引き締めるように囁いた言葉と共に玄関を飛び出した。
昨日は三人だった。だが、今日は一人だ。
とてもじゃないが二人を巻き込むわけにはいかない。
一度失った命だ。怖いはずないじゃないか。
一人きりで訪れた夜の森はより一層深く暗い。地上を彷徨う仄暗い闇が目の前に横たわっている。
最初から見えていた。
森の奥深くに赤い瞳だけがぎょろぎょろと動いている。
獲物が近づいてくるのをただじっと待っているように体は微動だにしない。
陽太はそっと剣を抜いた。黒い刀身が闇の中でわずかに煌めいた。
どくどくと心臓が破裂しそうなほどに踊っている。剣を握る手にも心臓があるみたいだ。ビクンビクンと鼓動に合わせるように剣先が跳ねていた。
走る。
これは狩りではないのだ。モンスターとエンカウントし、戦闘態勢に入る。
コマンドを選択し、攻撃を当てればいい。
ただ、それだけだ。
物々しい足音に赤い目が陽太を捉えた。
戦慄が走る。
大丈夫。
勇者はレベル1だとしても敵を倒せるのだ。ましてや自分と同等のレベルだ。
負けるはずがない。勝てないわけがない。それなのに、足はすくんでしまった。
ぴたりと走ることを止めてしまった。
地面から伝わってくるじっとりとした恐怖に、陽太の足は根っこでも生えたかのようにビクともしなかった。だが、赤い目玉は刻一刻と迫ってきている。
足を振り回す姿に躊躇いなどない。ただ目の前の得物を捕食することだけを考えている。
自分が狩られるなどとは微塵も思っていないのだろう。
きっと、ついさっきまでの自分もそうだった。だが、目の前の対象が恐怖であるということを脳が理解してしまうと忽ち勇気はしぼんでいき、代わりに怯えた自分が顔を出す。
その自分と向き合ってしまった瞬間、体は石へと変わってしまう。
陽太はへっぴり腰で剣を目の前に突き出していた。両手でしっかりと掴んでいるはずなのに、剣先はぷるぷると震え狙いを澄ますことが出来ない。
赤い目は跳躍する。一つしかない目玉をしっかりと陽太に向けながら、狙いを澄まして口を開く。
ギラリと尖った黒ずんだ歯、そこから糸を引く銀色の体液。
陽太はしっかりと対峙し、目を放さなかった。そして、そのまま頭部は口の中に飲み込まれた。
まただ。再び今日がやってきた。
うんざりするような気怠さが全身を包み込む。昨日過ごした今日と違うのは、ナビゲーターが左手首で光っていることだった。
まるで、アラームか何かのようだ。画面の下の方に1という数字が書かれていた。
最初はこんな数字はなかったはずだ。その数字が意味するところはカウントであると推測する。
数字が並ぶことの出来る幅は二桁だけ。最大で99ということだ。だが、それが必ずしも99とは限らない。
それが10だとしたら。いや、9かもしれない。どちらにしてもカウントは始まっている。
このゲームはオートセーブを繰り返す。そして、ゲームオーバーになると最後のチェックポイントへと自動的に戻されるのだ。
もう一度戦えとそれは沈黙のまま命令を繰り返す。
時間が過ぎていく。今日は筋肉乙女と名高い
同じ今日が訪れているはずなのに、違う今日がやってきた。
違いが生じるのはなぜか。
初めて今日を迎える人間はその日の出来事を知らない。それ故に小さな物事一つで一喜一憂するのだ。だが、それを知っている人間は違う。
知っているからこそ同じ行動はとらないのだ。
星宮はそれを知っていた。だから、突然学校を休んだ陽太のことを気に掛け、突如として現れた。そして、同じ今日がやってきたはずなのに、彼女は現れなかった。
「陽太!朝ごはん食べなさい!」
雷のように響いた姉の
朝食をそそくさと済ませ、陽太は装備をカバンにしまい込む。だが、剣はどうやっても通学用のカバンには収まりきらない。
渋々陽太は大きめのボストンバッグを用意した。宿泊研修の時に活躍して以来すっかり成りを潜めていたが、ようやっと再び活躍する場を得ることが出来た。
剣をしまい、それを覆うように籠手を重ね、隙間に盾を滑り込ませ、それらを隠すようにジャージとタオルを詰め込んだ。
ただジャージを持っていくにしては大層野暮ったく見えるが、この際人目を気にしている場合ではない。
陽太は通学カバンとボストンバッグを持って玄関を飛び出した。
そこにあるのはいつも通りの日常である。会社に向かうサラリーマンや小学校に向かう子供たちの群れ。
ありふれたものだ。とても今日の夜に少年が一人死ぬことになる街の光景とは思えない。
通学路には見知った人の姿はない。たまに
当然だ。最初の今日も彼と出会うことはなかったのだ。
無駄な期待を抱いたことをため息とともに吐き出し、陽太は学校へと向かった。
動物園のように騒ぎ立てる一年生の教室の前の廊下を通り過ぎ、二階へと向かう。
「おはよう、陽ちゃん」
聞き慣れたほんわかとした
ふいに安堵がこみ上げてきた。いつも通りの日常が随分と懐かしく思った。
「おはよ、美鈴」
ふいに声が揺らいだ。まるで、長いこと悪夢でも見ていたかのようだ。
美鈴の声が聴けたという事実だけが、ただひたすらに嬉しかった。
「どうしたの?」
心配そうに美鈴は陽太の顔を覗き込む。その瞳を直視することが出来ずに、陽太は目をこすりながら顔を背けた。
「なんかゴミ入ったみたい」
必死に顔を隠したが声が震えているのがバレバレだった。だが、それでも理由を言葉にしない陽太を見て、美鈴はそれ以上追及しなかった。
「じゃーん」
美鈴は見せびらかすようにカバンからクッキーを取り出した。いつもなら学校でそんなものを渡されると嫌がっていたのだが、今はすんなりと受け取ることが出来た。
美鈴にとっても意外だったらしい。一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに満足そうに笑みを広げた。
「教室行こうか」
陽太が声を掛けると美鈴はうんと一つ首を縦に振った。
教室にたどり着き、陽太は自分の席ではなく、
普段見慣れない光景に誰もが不思議そうに二人を見ていた。
星宮だけが、それをわかっていたとばかりにじっと陽太を見つめ返した。
「話がある。ちょっと来い」
意味深な空気が教室中に充満する。毒ガスにも似た重たい空気の中、星宮は何も言わずに立ち上がる。
「陽ちゃん、何かあったの?」
不安そうに美鈴は尋ねた。
「すぐ戻るから」
それだけ美鈴に伝え、陽太は星宮と共に教室を出た。
廊下を直進する。二人は職員室とは反対の方向へと歩き出す。
非常階段へと通じる扉を開き、階段の踊り場で二人は対峙した。
二階の非常階段からは裏門が見える。ホームルームが始まろうとするぎりぎりに到着した連中が閉じられた裏門を飛び越えていた。
「高杉、あんたの今日は何日目?」
その問いかけに答える代わりに陽太はナビゲーターの画面を星宮の顔の前に突き出した。
「まだ一回目ね」
やれやれとばかりにため息を吐き出し、星宮は非常階段の手すりに凭れ掛かった。
「星宮は?」
星宮もまた問いかけに答える代わりにナビゲーターの画面を見えるように突き出した。
一八、という数字が目の前に表示されている。
「もう半月もこんなの繰り返してる」
星宮の顔には油性の太いマジックでウンザリと書かれていた。
「何が起きてるんだ?」
陽太の問いかけに星宮はしばらく考えるように口を閉ざした。
ホームルームの開始を知らせる鐘が鳴り終えると同時に星宮は語り始めた。
星宮も死から始まった。部活の帰り際に校舎の裏でラグビーボール頭の赤い目玉の化け物と遭遇した。
初日はそれで終わり。
再び星宮をこのループに導いたのは、やはりゲームだった。と言っても、星宮の家にゲーム機などない。
部活で帰りが遅くなることから持たされるようになったスマートフォンの画面にそれは現れた。
チュートリアルを終了しますか、という選択肢に縋る思いで、はい、と選択をした。
今になって思うといいえを選んでいれば、日常に帰れたのかもしれない。だが、ゲームは進行し、ロールプレイングゲームはリアリティを持って現実を侵食していた。
タイムリミットは深夜の〇時である。深夜の〇時までにモンスターに殺されれば、リセットされ朝に戻る。また〇時を過ぎても一緒だ。それまでどんなに遠くに逃げたとしても結局は始まりの朝へと戻る。そのほかに自殺や事故などで死んだ場合もゲームはリスタートされる。
「そうか、星宮の装備は?」
ただ気になった。だが、星宮はあきれたような表情を浮かべるだけだった。
「そこ?もっと、大丈夫?とか聞けないわけ?」
大丈夫そうじゃないか、という言葉は胸にしまった。
なにせ一八回も今日を過ごしているのだ。大先輩も同然だ。
星宮は渋々装備を見せてくれた。
武器の種類は鈍器、分類はモーニングスターと呼ばれる武器。本来なら持ち手から鎖で刺のついた鉄のボールと繋がれているものだ。ベースは女子バスケ部の星宮らしいバスケットボール。
防具は家で使っていたメガネをベースにしたゴーグルと手首を守るバンテージをベースにした籠手。そして、愛用しているバスケットシューズを防具として選択していた。
陽太もまた星宮に応えるように装備を見せた。
「これシャーペンなの?」
黒い刀身の剣を見て星宮は大層たまげたという顔をしていた。
当然だ。陽太だってシャープペンを武器に選ぶことになるとは思っていなかったのだ。
いまさらになって少しだけ恥ずかしいとすら思えたが、それを顔には出さなかった。
「耳赤いわよ」
耳は顔じゃない。うっかりしていた。
「それより、あれはなんなんだよ」
話題を逸らそうと表情に怒りを貼りつけたが星宮は毅然とした態度で淡々と言葉を並べた。
「名前なんて知らない。でも、アイツを倒すのが鍵なのは間違いない。ナビゲーターが表示するのは二つだけ。標的と死んだ回数。高杉も気づいたでしょ?これは二桁しか表示されない」
星宮は99までカウントがあると思っているようだ。実際にそれが99までカウントを数えてくれる保証はない。
「そうだね」
だが、すでに一八という数字をカウントしている星宮にそれを告げることは躊躇われた。
「早く帰りたい」
日常。その言葉が随分と遠くで聞こえた気がした。
二人はホームルームには戻らなかった。防具を体に身に着け、モンスターのいる場所へと向かっていた。
道中、星宮は何も知らない
暗闇で赤い目と戦うということは無謀だと星宮は話した。あの目には光という概念はない。強いライトを当てて目くらましを試したことがあったが、気にも留めなかったという。
赤い目との戦いに適しているのは森ではない。赤い目の前足は実際のところ足ではない。人間のように五本の指が生え、それで枝を掴み、腕力を頼りに高速で移動する。
実際の足は後ろ足だけ。それは巨大な体躯を支えるには小さすぎて、平地では随分動きが遅くなる。
腕にさえ気を付けていれば傷をつけることが出来る。また、一度ゲームで作られた武器によってつけられた傷はループしても残る。
赤い目が片方しか開いていないのはその原理からだという。
「まずは平らな土地におびき出す。それまではひたすら逃げて。森の中で戦うことになったら、勝ち目はないから」
森の中ではモンスターは空を飛んでいるようなものだ。木から木へと飛び移る速度は人間の足では逃げ切れるものではない。
「じゃあ、逃げられないじゃん」
その矛盾を突くと星宮は高らかに笑った。
「私が囮になる。でも、万が一、逃げ切れなかったら森の中で戦うことも覚悟して」
さすがに慣れていると思った。一八回も死ぬ思いをしているんだ。実際に死んでいるのだし当然だ。
星宮の作戦は星宮が囮となり、モンスターをおびき出す。モンスターが森の中にいるのは一四時から一八時まで森を徘徊し、日が沈むと二人の通う学校まで一直線に向かい、再び暗くなると森まで戻ってきて深夜まで身動き一つせずに息を殺してじっと獲物を待つ。
モンスターを音でおびき出すことは出来ない。だから、星宮は自らモンスターの視界に飛び込み、後を追わせる形になる。
平地と呼べる場所に出るまでモンスターの立っている地点から一五〇メートル。モンスターが走り出すのは半径一〇〇メートル以内に入った時。
そこからは持久戦だ。森を走り抜け、平地へたどり着いたら選手交代だ。
まずは足止めだ。
いつも森を抜けたところで星宮の体は悲鳴を上げ、まともに戦うことが出来ない。なので、彼女が息を整えるまで時間を稼ぐ。一分も休めば十分に動けると星宮は宣言した。
先に死なれては意味がない。一分間だけ死なずに動きを止めてほしいという願望を陽太は受け入れた。
時間はまだ一〇時だった。この時間にモンスターは森の中にいない。現れるのは決まって一四時。
それまではモンスターがどこにいるのか星宮にもわからないという。
「ここから」
星宮はつま先で地面を削って線を引いた。そして、再び歩き出す。昼間の森の中は木漏れ日が指す幻想的な世界だ。
いくつもの光の柱が頭上から降り注いでいる。
星宮は先ほどつけた印から五〇メートルほど歩くと再びつま先で線を描いた。
「ここまでの距離」
実際に歩いてみると大した距離ではない。だが、命の危険を脅かす化け物と追いかけっこをするには長すぎる距離だった。
「私がここについたら合図する。高杉は」
そこから二五メートルほど後退する。近くにあった木の枝を拾い上げ、地面に突き刺した。
「ここにいて。私が合図をしたら高杉も逃げて」
そこがスタートラインである。
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