1-3
剣士は逃げながら死を覚悟した。
同時に、色々な事が頭を巡っていた。
今回の戦はまず負けることは無いと、誰かが言っていたこと。今朝の出陣の様子や、戦場に来るまでの光景も浮かんできた。稽古場での楽しい日々を思い出した。親友との朝稽古を思い出した。そして自分が幼少期を過ごした、故郷の道場のことが頭に浮かんだ。
あの頃は、剣を振るうのが
するとふいに、身に付けている防具が酷く邪魔に感じられた。そう感じるやいなや、剣士は足を止めてゆっくりと振り返っていた。刀を右手にだらりと下げたまま、自分を追いかけて来る足軽の方へと視線を遣る。
足軽は、獲物を追い詰めた肉食獣のような顔をして、槍を構えて近づいて来ていた。
剣士は回想に
それは、戦争を起こした隣国への憎しみであろうか。仲間を殺して散々に追い回してくる敵兵への怨みであろうか。様々な憎悪が次から次へと沸き起こるのを感じたが、それらはもっと巨大な悪意の中に呑みこまれた。
今剣士の心の中にあるのは、目の前に居る足軽を殺したいと云う事だけであった。
親友を倒し、自分に多大な恐怖を与え、また命を奪わんとしている。潜在的にはそういった、少しは真っ当に聞こえる理屈もあったかもしれない。しかし剣士の胸中には既にそういった論理などは微塵も無く、ただ漠然と、殺さなければ、と思っていた。
その時、剣士の左手前方の木々の向こうから、誰かの断末魔が聞こえた。恐らく逃げ切れずに討たれた味方のものだろう。
足軽の意識が一瞬逸れたのと同時に、剣士は後方へ飛び退きながら兜を脱ぎ捨てた。そのまま後ずさりしながら小手を外し、具足の紐を刀で切って捨てる。鎧も脱ごうと試みたが、流石にそれは諦める。
足軽は多少疑問な顔を見せたが、剣士が観念したのだと思い、槍を構えて真っ直ぐ距離を詰めて来た。
剣士は構えることもなく後ずさりするが、間は徐々に狭まって行く。
いよいよ両者が槍の間合いに入ろうとした時、後ずさりする剣士が急によろめいた。足軽はそれを見逃さず思い切り槍を突き出す。
が、どう
足軽と対峙しながら、剣士はぼんやりと考えていた。どうしたら目の前の人間を排除できるのかを。
これまで必死に続けてきた稽古のことは思い出さなかった。構えて、練習通りに刀を振るって、相手を崩して斬り倒す。そんなことは無理に決まっていた。自分に普通の剣術や立ち合いは向いていないことなど分かりきっている。
だが剣士は本能的に、敵の首筋に刃を突き立てたいと思っていた。心の奥底から相手を絶命させることだけを考えた。
どうしてかは分からないが、後は自然に身体が動いた。わざとよろめいたように見せたわけではない。その機を計ったわけでもない。ただ、剣士の一瞬の動きが、足軽の目には態勢を崩してよろめいたかのように映ったのは確かだった。剣士としては、足軽の雑な槍撃をゆるりと避け、持っていた刀で首元を優しく撫でつけただけであった。
先ほど聞こえた断末魔の方向から、新手の足軽の一団が剣士の方へと駆けて来る。槍が四人先行し、その後には足軽頭が続く。
剣士はそちらを見向きもしないで、ゆっくりと鎧を脱ぎ腰の脇差を捨てた。刀の鞘は迷ったが、邪魔だったのでこれも捨てた。腰の水筒から水を一口飲み、放り投げる。そして足元の死体をぼんやりと見ながら、人の命の脆弱さに浸っていた。
やってきた足軽達は、異様な光景に少なからず戸惑った。剣士は白の小袖を血飛沫で彩り、抜き身の刀を力なく掴んでいる。周りには武具が散乱していて、血まみれの死体が一つ。
その死体を友軍と認識して我に返ったのか、槍兵が剣士を取り巻く。剣士は虚ろな眼差しで、足軽達を見るとも無くゆっくりと
剣士は槍が突き出されるより一瞬早く、颯と前に出た。槍が突き出された時には、剣士は真ん中の二人の槍兵の間を駆けていた。いや、ただ通り過ぎたと言った方が正しいかもしれない。通り過ぎながら、首の高さに一太刀、薙いだ。二人の槍兵の首筋から
そこからは一方的な
耐えきれずに喚きかかった数名は皆一刀に首を斬られた。必死に立ち向かった残りの者も、一合も受けられずに死んだ。逃げだした一人は背を向けたと同時に足の腱を斬られ、転んだ所を後から
自分の斬った足軽達の死体を
剣士は道に迷いながらも親友の倒れた場所へ戻ろうとした。途中、何度か雑兵と鉢合わせたが、ほとんど戦いとも呼べないくらいに簡単に首を落とせた。つい先刻までは恐怖の対象だった敵兵が、今では何の障害でも無くなっていた。
既に剣士は、恐怖どころか楽しささえ感じるようになっていた。とは言っても、人を斬る事が楽しいのでは無かった。思うがままに剣を振るえる事が楽しかったのである。相手の命を奪うのは、成り行きの上での当然の結果くらいにしか思わなかった。
先程の場所で倒れていた親友を見付けると、まだ息があった。声を掛けながら揺り動かし、水筒の水を顔にかける。親友は驚いて目を覚ましたが、すぐに気を持ち直してその場を離れた。
そこから二人連れ立って歩くと、前方から騎馬の一団が駆けてきた。敵の騎馬隊かとも思ったが、幸いなことに友軍であった。騎馬隊が来た方へと真っ直ぐ進めば砦があり、友軍はそこに集まっているらしい。
二人は息を吹き返したように一目散に砦へ急いだ。
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