6-3

 長刀の扱いに満足した頃、剣聖は旅に出た。山を下るのは実に久しぶりの事である。

 祖国を出奔してから長い間放浪生活をしていたが、それを終えてからはこの庵の近辺を出ていない。以前は様々な剣術を極めるために諸国を巡ったが、今度は少し違った視点で歩くつもりでいた。剣豪の長刀を見て、何か思う所が有ったのかもしれない。

 旅装を整えるとさっさと山を下りて街道に出た。荷物はほとんど無く、白木の鞘を腰に下げ、嘗て親友から貰った腕輪を身に付けるのみである。長刀は重いので庵に置いてきた。


 それから長い間ふらふらと各地を彷徨っては、庵に戻って剣を振るった。その際、新たな剣を持ち帰ることもあれば、そうでない時もあった。

 時には短い小刀を手にすることもあったし、鈍器のような太い剣のこともあった。外海の大陸から入手したという曲刀を手にした時などは、暫く愛刀さえ触らない程であった。

 多様な剣に触れ、それを好きに振るうのは、楽しくて仕方が無いらしい。



 どれ程の年月が経過したであろうか。剣聖も、百年を過ぎた辺りから数えるのを止めていた。

 ある日、剣聖が庵の前で刀を振っていると、一人の旅人が彼方から現れた。

 剣聖は刀を握ったまま、来訪者の方をゆっくりと見遣る。その立ち姿に視点が合うと、剣聖は心底驚いたように目を見開いた。

 嘗ての親友が、そこに立っていたのである。まだ祖国に仕えていた時と同じ姿で、木立の間に無言で佇んでいる。

 が、やはり別人であった。よく見ると違う人物であるどころか、大して似ているわけでも無かった。どうして見間違えたのか、疑問に思う。

 旅人は小綺麗な唐服を着ており、山を登って来たにしては殆ど汚れていない。瞳は異様に澄んでおり、恐らく外海から来たのであろう、大陸的な顔立ちをしている。その表情からは、思考はおろか好意も敵意も何一つ読み取れなかった。


 剣聖は困惑していた。こんな感覚は初めてであった。この旅人を、斬れる気がしないのである。

 いや、単に斬ることなら、容易く出来るかもしれなった。が、それで殺せるかどうかがわからない。もしかしたら殺すことも出来るかもしれない。が、それでこの旅人が死ぬとは、とても思えなかった。剣聖本人もどういうことかよくわからないが、ただそのように感じたのである。これまでに戦ったどの相手とも異質な、得体の知れない相手であった。

 剣聖は、旅人が少しでも不穏な動きを見せたら、即座に斬るつもりで居た。そのつもりで、旅人に向かって声を掛けようとした。

 しかし、剣聖が口を開こうとしたその時には、旅人はもう其処に居なかった。辺りを見回しても、その近辺のどこにも居なくなっていた。本当に居たのかどうかさえ分からなくなる程であった。まるで、この世界に最初から存在していなかったかの様に、忽然と消えていた。



 旅人の訪問の翌日、剣聖は再び旅に出た。今度は珍しく目的地が決まっており、宝剣のまつってある寺社を訪ねるつもりでいた。

 これまでに幾つか、神聖な気を帯びた宝剣の類を見たことがある。しかし剣聖は剣に対して専ら実用性を求めており、宝剣は剣その物以上の価値を持っている場合が殆どだったので、手に入れようと思った事は無かった。

 しかし今回の件で、剣聖は悟らざるを得なかったのである。あの旅人を斬るには、現世の技だけでは足りないかもしれないと云う事を。

 剣聖は山を下りて街道に出ると、幕府のある東の都へと歩いていった。



 天叢雲剣あめのむらくものつるぎ。言わずと知れた護国の神剣である。

 剣聖は以前、東の都の大神宮に祀られているのを見た事があった。この剣を使えば、例の旅人に刃が届くかもしれない。

 遥か昔の神話の時代、この列島のいしずえを創りし神の剣。両刃の直剣で刃渡は二尺八寸(85㎝程)、遠目にも神々しいまでの気を感じたのを覚えている。


 剣聖は大神宮へ行くと、大宮司の居室のある御殿へと真っ直ぐ向かった。大宮司は最上位の神職であり、神社の全てを統括している。以前来た時の大宮司とは顔見知りになったが、それも数代前の事だ。

 剣聖は初めて会う大宮司に、神剣を貸して貰えるよう正直に頼むつもりであった。誠意を持って正面から押すのが、剣聖なりの礼義の示し方でもある。


 夜半、大宮司が居室で書物をしていると、室外から只ならぬ気配を感じた。ふすまの方へと目を遣り、誰何すいかの声を掛ける。

 知らない声が、お願いがあっておとなったとだけ答えた。

 悪意は感じないが、こんな時間に大宮司を直接訪ねるなど聞いた事が無かった。大宮司は声の主に、とにかく入室して姿を見せるよう告げた。

 襖が静かに開くと、剣聖が音も立てずに入って来る。剣聖は突然の訪問の無礼を謝ると、単刀直入に言った。

 天叢雲剣を貸して欲しい、と。

 大宮司は驚いた風も見せずに剣聖を真っ直ぐと見据える。悪い人物にはとても見えない。心から頼んでいることも分かったし、誠意も伝わってきた。

 しかし、到底聞き入れられる内容の願いでも無い。どのように断ろうか思案し出したが、ふと、ある考えが頭を過ぎった。

 もしかしたらこの御人は、神の使いか、神自体かもしれない、と。

 成る程確かに、一見するとどこぞの道楽剣士である。しかし大宮司は、剣聖の奥底にある不思議な気配を見逃さなかった。大宮司の感じたままに言えば、とてつもなく硬くて重い何かが、剣聖の奥底に在るのを感じた。それはどのようにも形容し難い色をしていて、それでも敢えて言うならば、色が無い物であった。


 と、剣聖の方から先に口を開いた。それは、感謝と、謝罪の言葉であった。大宮司は暫く剣聖を見つめた後、何も言わずに書物へと戻った。

 剣聖は深く礼をして退室すると、宝物殿へと足を向けた。宝物殿の錠前を綺麗に切断し、中へと入る。

 部屋の真ん中の祭壇に、その剣は在った。


 剣聖は神剣を手に持つと、正面に構えた。心気を鎮め、旅人の姿を脳裏に描く。その姿はぼんやりとしか思い出せないが、気配ははっきりと覚えていた。そこに居るようで居ない、不思議な感覚。

 斬れる、と、確信した。この剣を使えば、彼の者へと間違いなく刃が届く。

 剣聖は祭壇の前で、剣を数度振るった。そして大きく頷いた後、数秒思案する。そのまま剣を持ち出すかとも思われたが、どういう心境か、祭壇へと剣を戻した。

 足早に宝物殿を出ると、賽銭箱へ路銀を全て放り込み、二礼二拍一礼する。礼をしたままの姿勢で数秒拝んだ後、北方へと歩き去った。その足取りは軽く、何処か満足そうな、それでいて何かを渇望するような表情をしていた。

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