5:救い

 フィリアルが去るとベルティネの興味は美衣歌へ移った。

 杖が美衣歌に向いて、次に起こる恐怖に耐えるために奥歯をかみしめた。

 ベルティネが杖を一振りすると固く縛っていたスカーフがするりと解け、何事もなかったかのように美衣歌の背に落ちた。

 重力から解放されると、のろのろと床から起き上がった。縛りあげられていた手首がひりついて痛い。

 床におちた少し光沢のある薄い桃色のスカーフはしわ一つついていなかった。

 それで縛られたとは思えない。

 この人の前にいるのが、もし本当のスティラーアだったら彼は同じことをするのだろうか。

「おまえは……」

 ベルティネが美衣歌に向けて言いかけたところで、小さく短く乱暴に扉が鳴った。

「……」

 息をつめたベルティネが見守る中扉が開かれた。

 蝶番が壊れんばかりの勢いで部屋に入ってきたのは、アルフォンだった。

 彼の後ろには従者のクレストファが息を弾ませて立っている。

「なんてことを……」

 彼はアルフォンに頭を抱えている。

 アルフォンは部屋をぐるりと見渡すと、床に座りこんだ美衣歌を見つけた。

 床についている両手首はこすれた痕で赤く、肩にかけていたスカーフは床に落ち、彼女の額には小さく玉の汗が浮かんでいる。

 履いていた靴は両足とも床に放り投げられていた。

「大変申し訳ありません、ベルティネさま」

 アルフォンが礼儀を欠いたことに謝った。

 扉を叩いてから開かれるまで、ベルティネは一言も声を出していない。

 許可なく部屋へ入室するのは無礼に当たる。

 アルフォンが皇子といえど、礼儀は重んじなくてはならない。

「親子の最後を邪魔しにきたのか?」

 アルフォンが美衣歌を見る。

 美衣歌は涙をためた瞳で、アルフォンを見かえした。

 ほんのり茶色がかった黒の瞳の奥から恐怖の色が伺えた。

「これが、ですか?」

 自然と怒りの含んだ感情があふれてきた。

 美衣歌が召喚された娘だと知らなければ、この光景は父親から離れる寂しさから来ていると思える。

 しかし、アルフォンは美衣歌がベルティネの娘じゃないことを知っている。

 これが親子の離別の場と認識できそうにもない。

「これが、我が国の礼儀です。そのように見えなくてもな」

「大変失礼致しました。そのように見えなかったので」

「なんだと」

 ベルティネの片眉がひくりと動き、険呑な目でアルフォンを睨む。

「パーティの準備がありますので、彼女を返していただきます」

 そういうと美衣歌の元まで歩いてきて、美衣歌の横にかがんだ。

「足を前に伸ばしたら、首に腕を回せ」

 言われるままに、曲げていた足をのばしてアルフォンの首に両腕を回すと背中とひざ下にアルフォンの腕が支える。

「そのままでいろよ」

 アルフォンが小声で耳打ちをした。うなずくとアルフォンの腕に力が入って、慎重に立ち上がる。がっちりと支えてもらっているのに、体がぐらりと揺れたような気がした。落ちないように両腕にさらに力を籠めるとアルフォンから苦しいと声が聞こえた。

 慌てて力を緩めたら、ぐわんと引き上げられる勢いに乗って美衣歌の体が床から離れる。

 かろうじて下睫毛の上にとどまっていた涙が数滴、ドレスの上に落ちた。

「その娘にはまだ話がある。準備に少しぐらい遅れても問題なかろう?」

「クレア、靴とスカーフを」

 クレストファが床におちたそれらを回収すると、アルフォンはベルティネに向いた。

 挨拶に現れたうわべだけの顔とは違い、怒りをあらわにした顔を向けた。

 怒りの表情の中にほんの少しの迷いと後悔で表情はゆがんでいた。

「時間が押していて、侍女が困っています」

 迷いと後悔を怒りの感情の奥へひそめ、きっぱりと言い放った。

「困らせておけ」

 関係ないとベルティネが床にステッキをついた。

「それでは、あまり言いたくないのですが……彼女があなたの血縁者でないことはすでに承知している。話すことは何もないのでは?」

「そうだな、確かにない」

 あっさりとベルティネは肯定した。

「それと、その杖を使うのはお控えください。仮にもここは異国です。あなたの国ではない」

 ベルティネが床につけていたステッキをゆっくりと動かしていた手を止めた。

「よく、気が付いたな」

 ステッキが離されると床にはうっすらと描きかけの小さな陣があった。

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