11:傷あと

 担ぎ上げられたまま、美衣歌はおとなしくアルフォンの肩にしがみついた。ゆらゆら揺れる不安定な肩の上、しっかりつかまっていなければ、落ちてしまいそうで怖い。

 途中、イアと合流した。脱ぎ捨てられた靴を回収するようアルフォンが頼んだ。イアと合流したことで降ろしてくれると期待するが、担がれたままに中庭を歩いていく。

 明るい場所から廊下へ戻り、景色が庭の緑花が遠のき、城の壁の白一色へと変わった。

 城内の廊下をアルフォンは進んでいく。

 向かう先がフィリアルの待つ部屋でないことを美衣歌は強く願った。

 裸足の美衣歌がアルフォンの肩にしがみついている姿をフィリアルは喜ばない。怒りに肩を戦慄わななかせ、口から怒気のはらんだ声が飛んでくるだろう。

 アルフォンの足が止まる。

 目的の場所についたらしい。フィリアルがいる部屋なら、いきたくない。

 両足を暴れないように封じられているのを、暴れて隙をつけば、今なら逃げられる。

 片足を浮かせて、ばたつかせる準備をした。

「アルフォンさま」

 聞こえたこの声は。

「こいつが出てくるまで誰が来ても、用事を頼まれたとしてもここを動くなよ」

 アルフォンがコーラルに念を押した。

「はい、かしこまりました。ところで、アルフォンさま、そちらの方は?」

 アルフォンが担いでいる人物を問う。後ろ姿で美衣歌と気づいてもらえず、不審人物とされ警戒された。

「コーラル、さん?」

 後ろ向きで相手を確認すると、はいと返事が返ってきた。

「スティラーアさま、ですか?」

「そうです」

 コーラルも、美衣歌の声で聞き返してきた。

 コーラルがいられる場所。

 美衣歌が居座っているアルフォンの自室か、または別の部屋。

 アルフォンの自室へ戻るなら、階段を使う。階段を使用していないから、彼の自室ではない。

 ならば、一体ここはどこなのだろう。

 首を傾げる美衣歌へコーラルが深々と頭を下げる。

 アルフォンが美衣歌を担いで扉を開いた。扉の向こうから湯気と共に花の香りが廊下へ流れる。

 脱衣場を過ぎたところで、ようやく湯殿だと気が付いた。

 湯船のそばには、まだ寝椅子が置かれていた。アルフォンは美衣歌を寝椅子にゆっくりと降ろす。

 椅子に体を打ち付けないよう、優しく降ろされ、椅子に座った。

「そこから動くなよ」

 美衣歌に強く念を押すと、アルフォンは脱衣所へ姿を消した。

 一人残された美衣歌は乱れたスカートを素早く直し、椅子から立ち上がった。足の裏にちくりとした痛みがして顔をしかめる。

 整備された遊歩道を歩いていたのだから、怪我しないと思っていた。

 アルフォンがいない隙に、スカートの裾を抑えて、ゆっくりと踏みしめながら歩き出す。

 怪我は足裏の側面と踵にしているらしい。足を床につくと痛みを感じて、すぐに足を離したくなる。つま先は踵よりも傷ついていないのか、痛みが少ない。

 つま先立ちで一歩歩けば、バランスが取れずふらつく。床のタイルは水滴で濡れ、滑りやすい。

 足に集中力を注ぎ、歩を進めているとタイルがかげった。

「どこへ行くつもりだ」

 恐る恐る視線をタイルからあげると、小さな桶のような入れ物を持ったアルフォンが立ちふさがっていた。

 心臓が止まりそうになるぐらい驚き、衝動的に後ろへ下がる。痛みでバランスを崩し、身体が傾く。

 傾いた先には湯船が――。

「……!」

 悲鳴をあげられず、息をのむ。

 二の腕をつかまれ、強く引っ張られた。

 タイルに何かが当たる甲高い音が耳に聞こえた。

「無事か?」

 声が上から降ってくる。

 きつく閉じていた瞼を開く。

「!?」

 美衣歌の身体は、アルフォンの身体を下敷きにして抱き留められていた。背中にアルフォンの右腕ががっちりとまわっている。

 そばには小さな桶が落ちていた。

 さっきから心臓がやけにうるさく暴れて、身体全体に伝わる。

 男の人に抱きついている。

 それだけで、何も考えられず、反射的に動くことができない。

「失礼致します、アルフォンさま。何かありましたか?」

 桶の落ちる音が外まで響き、脱衣所からイアが顔を出した。

「……すいません!」

 イアは慌てて引っ込んでいき、廊下の扉を閉じながら、コーラルへ入室禁止と伝えているのが、扉ごしに漏れ聞こえてくる。

 もっとも、美衣歌にイアの声は届いておらず、アルフォンは見られたところで気に留めていなかった。

 アルフォンは動かない美衣歌を抱いたまま、タイルから身体を起こし、横抱きにして立ち上がる。

「おとなしく、椅子に座ってろ」

 再度椅子に座らせ、転がった桶を取りに行った。


 お湯を入れた桶を美衣歌の前に置いて、ひざまずく。片足をつかんで、お湯の中へどぷんと入れた。

 素足で歩いて汚れた足の裏を、無言で洗い始めた。

 悲鳴が上がりそうになる口を押さえ、寸前で止めた。

 男の人に触られる経験がなくて驚いてしまった。

 動かないように足首を支え、壊れ物に触るかのように優しく洗われる。美衣歌の全神経がアルフォンが触れる足にいき、緊張で体が強張る。

 早く、終わってほしい。

 切実に願った。

 静かな湯殿で、アルフォンが立てるお湯の音が美衣歌には大きく聞こえた。

 洗い終わったのを見計らって、足を引く。桶の端に足が当たって痛かった。

 アルフォンが、足を追いかけるようにして美衣歌を見上げた。

 2人の視線と視線がぶつかる。

 綺麗な青海色の瞳に美衣歌の戸惑った顔が映っている。

 意思を持った強い眼差しに耐えきれず、瞼を落とした。

 手を顔から離し、アルフォンが触れた足に手を伸ばす。

「私自分でやれます」

 一息にまくしたて、屈めるだけ身体を曲げる。

 何度腰を曲げても足に手が届かない。

 コルセットをしていないからか、多少は身体を曲げれるけれど、美衣歌の想像以上にドレスが曲がらない。手を伸ばしきってもあと数センチ手が届かない。

(あと、少し)

 さらに体を曲げると下腹部が苦しくなる。苦しさを軽減させようと知らぬうちに椅子から腰が上がり、やっと足首に手が届きそうになった、刹那。椅子から腰が離れ、前のめりになった。

 あっと思ったのは一瞬。重心が前に移った体をとっさに支えることができない。

 傾いだ美衣歌の肩を大きな手が支える。

「頭をぶつける気か」

 アルフォンに支えられながら椅子に座りなおす。頭から転がり落ちようとしたわけじゃない。足に手を伸ばしただけだ。

 体の柔軟は硬くもなく、柔らかいわけでもないが足を洗うぐらいできる。

 ドレスが硬く、思うようにいかない。

「すいません」

 アルフォンが美衣歌の足にお湯をかけて、ふわりと優しくなでる。暖かいお湯が気持ちいいのと同時に痛みがくる。

 傷つけるような歩き方をした覚えはないのに、伝わる痛みは傷ができていることを美衣歌に教えてくれた。

「あと少しだから、我慢してくれ」

 痛みに顔をしかめている美衣歌に、アルフォンが気遣ってくれる。

 汚れが落ちた足はところどころに擦った傷があった。ダンスレッスンでできた水ぶくれが破れた痛々しい痕。草で傷つけた、擦った痕。擦り傷はどれも細い線のようにまっすぐついている。紙で肌を切った時のような傷だ。知らずうちに草で足を傷つけてたのかもしれない。

 足を観察している間に、アルフォンがタオルを脱衣所から持ってきて、足を包み込み水滴を拭き取った。

 足を気遣い優しい手つきで、両足を拭いてくれる。傷ついた足が痛まないように。

 立ってみるよう言われ、立ち上がった。

 痛みは残っていても、歩けないわけじゃない。

「ありがとうございます」

 傷を痛がる美衣歌を励まして、傷を労わって、洗ってくれた。

 純粋にすんなりとお礼が口から出た。心なしか声が弾んでいる。

「傷を残されては困るからな」

 アルフォンから返された視線は冷ややかなものだった。

 え。と聞き返す。

 小さな切り傷は消毒をすれば数日で治る。十日もすればきれいに治ってしまうだろう。水ぶくれは切り傷より時間はかかるが治る。

「おまえは二日もしないうちに城から出す。なんとかして家に帰す」

 アルフォンは立ち上がり、美衣歌を見ることなく、湯殿を後にした。

 遠くで、乱暴に扉を閉める音が、響いてきた。

 残された美衣歌は呆然とアルフォンが去った扉を凝視してしまった。

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