10:青空の下

 廊下を闇雲に走り続け、壁に手をつき身体を支え、両足を止めた。

 喉が焼けるように熱い。唾を飲み込むと鉄のような味がした。運動が苦手な美衣歌は、短い距離を走っただけでも長距離走をしたのと同じぐらい息が上がり体力を消耗して、足がうまく動かず走れなくなる。

 持久走は一週走っただけで足が動かなくなり、測定に時間がかってしまう。

「な……んで、二人、とも、いない、のっ」

 持ち場を離れて行ってしまった侍女に怒りをぶつけた。

 壁に背を預けた。この足ではもう歩ける気がしない。

 足のだるさに壁伝いにゆっくりと座り込んだ。投げ出した靴がころりんと転がった。

 廊下でこんなことすれば、フィリアルに叱られる。そんなことかまっていられない。足の裏から付け根まですべてが痛い。膝を立て、両手で膝を掴み、その上に額をくっつける。

 目を閉じれば、湯殿での出来事が鮮明に頭の中で駆け巡っていった。

 心臓がけたたましく鳴り響き、全身が熱くなる。

 鮮明に思い出せば出すほど、頭が変になる。なにもかもを忘れようと頭をふった。振ればそのうち頭の中から飛んでいくだろうと、乱暴にふりすぎて今度は立ちくらみのようなめまいに襲われる。

 頭を押さえながら軽いめまいをやりすごす。なんだってこんな目に合わなくてはならないのだろうか。

 あの時、上から植木鉢が落ちてきさえしなければ。その場から動いていれば。美衣歌は今もパリで仲間と修学旅行を楽しんでいただろうか。

(どうしてこんなことに、なっちゃったんだろうね。ほんとに)

 今更何を愚痴っても仕方のないことだ。

 ため息をつき、顔を上げると、緩やかな秋の風が美衣歌の頬を撫でていった。

「?」

 窓を開け放していない限り、廊下で風が通っていくようなことがない。

 眼前に豊かな緑と色とりどりの花、花と緑の間に白い石でできた遊歩道が広がっている。

 中庭とよんでいいのか、とても美しい場所だった。中庭に引き寄せられるように、腰を浮かせ放り出した靴を履く。

 庭と廊下を隔てているのは、均等にある太い円形の柱と石の壁、地面から天井にかけてガラス張りの大きな窓があり、窓が開け放たれている。風はここから入ってきていた。

 窓をさらに開け、外へ一歩、足を踏み出す。遊歩道に沿って歩いていくと、見事な花が視界いっぱいに彩られて、見ていて飽きない。

 遊歩道を歩いていくと、背の低い植木に隠れるようにして白いベンチがあった。

 もうしばらく、ふんわりとした優しい風と花の香に包まれていたい。

 このあとの用事をすっぱりと忘れ、美衣歌はベンチに座り、目を閉じた。


 ⭐︎


 美衣歌が湯殿から逃げるように立ち去ってからしばらく後。侍女二人は湯殿の扉の前でかち合った。

「コーラル。あなた、扉の前で待っているからって」

 イアの手には美衣歌の着替えとなる淡い黄色のドレスが抱えられている。

 コーラルに扉の前で番をしてもらっている間に、イアは着替えをとりに行っていた。

「わたくし、フィリアル様に呼ばれて。使いの者が代わりに立っているからと言われてお任せしたのですが……」

 コーラル自身も言いながら扉の前の違和感に気が付く。

 扉の前には誰もいない。

 この湯殿は現在誰も使っていないのでどうぞ使用してください。と言っているようなものである。

 湯殿へ続く廊下に立っていれば、使用中だと分かる。

 誰もいなければ、使っている人がいないと知らせているようなもの。

「どういうことですの!?」

 コーラルが叫んだ。叫んだところで誰も立っていなかったことにかわりはない。

「スティラーアさまは、まだみえるのかしら」

 イアは着替えをコーラルに押し付け、扉の取っ手に手をのばした。扉を開く前に内側から乱暴に開かれる。

「!」

 イアは驚いて伸ばした手を引っ込めた。

「――悪い」

 出てきたのはスティラーアではなく、アルフォンだった。

 湯あみをした後なのか、アルフォンの髪がしっとりとしているようにみえる。

「アルフォンさま、大変失礼を承知でお聞きしたいのですが」

 戸惑いながらも、確認しなくては。イアはアルフォンに、挑むような顔つきで一歩詰め寄った。

「スティラーアさまはどちらに?」

 アルフォンが湯殿を使っていたということは、スティラーアは湯殿からいなくなった。侍女として大変な事態である。

「……左」

 左側はコーラルが歩いていた廊下になる。コーラルに見たのか聞いてみれば、首を振られた。

 急いで探さなければならない。

「コーラル。その着替えを持って、ここで待っていて」

 コーラルに指示を出して、湯殿の入り口前に待機させ、スティラーアの姿を探しに廊下を曲がったところで足を止めた。

「アルフォンさま。一緒に捜していただいてもよろしいですか?」

 丁寧な言いまわしをされれば、誰もが是といいたいところ。それは相手が心配であればなおの事、侍女に言われずともスティラーアが湯殿を去った時点で追いかけている。

「なにかあったらアルフォンさまを恨みますからね」

 厳重な警備が敷かれている城内でなにかが起きる可能性はゼロといいきれない。

 警備のすきを狙ってくる輩が彼女を狙わないとも限らない。

「捜す」

 アルフォンは渋々歩き出した。


 ⭐︎


「……アさま! ……さま」

 風に乗って女性の声が美衣歌の耳に聞こえてくる。

 瞼をゆっくりと開けた。風が心地良くてベンチで寝てしまっていた。

(ここ、どこ?)

 ぱちくりと目を瞬かせ周囲を見渡す。きれいに咲き誇った花、手入れの行き届いた植木。

 ここは中庭だ。

「スティラーアさま!」

 この声は……。

 美衣歌が湯殿から姿がなくなり、侍女が必死に捜してくれている。

「イアさん、ここ……」

 ベンチから立ち上がり、手を挙げようとして、美衣歌は動きを止めた。イアの前をアルフォンが歩いている。

 必死なイアと対照的に、彼はぶすりとした仏頂面で周りを見回していた。

 なぜ、彼がいるのか。

 美衣歌は手を引っ込めて、ベンチの影に隠れて耳をそばたてた。



「……アルフォンさま、こちらであってるのでしょうか? 一向に見当たりませんよ」

 叫ぶ声を一旦引っ込めたイアは足を止めることもなく歩いていく皇子に訪ねている。

「あそこから左へいったのなら、このあたりを通っただろうと言っただけだ。いるとはいっていない」

「そんな、無責任な」

 大袈裟に嘆くところは侍女としての仕事のうちか。

 美衣歌は慌てて体勢を低くした。行動が完璧なまでに読まれている。なぜだ。

「知るわけないだろ」

 まさか、アルフォンまで探しに来てくれているなんて。

 彼も美衣歌の行動を読んでいるのだろうか。迷いない足取りがそう思わせる。

 あんなことがあった後だというのに、本人の声は至って普通で、対する美衣歌は見られた恥ずかしさでアルフォンに会いたくなかった。

 その場を離れようにも、靴が邪魔になる。遊歩道とヒールが当たると音が鳴る。いるとあからさまに伝えているようなものだ。

(私は、ここにはいないんだから!)

 靴をそっと脱ぎ捨てた。

 脱いだ靴をそのままに、姿勢を低く保ち裸足で遊歩道を走り出した。


「イアさんの。馬鹿っ。アルフォンさまと、一緒に、探さ、なくたって、いいじゃ、ない。けほっ」

 喉がひりつき、咳が出た。運動音痴を呪いたくなる。

 どう走ったのか覚えていない。どこからでも見える城は見上げれば、少し遠くなったような気もする。高い屋根の先のその先まで見通せた。

 咳を止めるには休憩と水分補給だ。周りを見渡しても水分がありそうな場所がない。カラカラの喉を潤すことはできないが、休憩はできる。

 遊歩道に備えられた白い上品な長椅子に座り一息ついた。

 走った後は歩かなければ心臓に悪いことは、学校の先生から何度も言われた。心臓の負担を和らげるためと知っていても、今の美衣歌に歩く体力どころか立ち上がる力すら残っていない。

 お腹の上で両手を重ねて、腹式呼吸をする。胸式呼吸より、息が整えやすい。

「けほっ、けほっ……」

 頭を長椅子の背に預ければ、視界いっぱいに空がひろがっといる。青く透きとおった空を見て、なぜかふと思い出した。

 一度だけ、比奈月君と話をしたときのことを。

 あの日も、こんな空だった。



 高校二年に進級した四月。

 桜が満開で花見をしながら、お気に入りの本を読んでいた。

 穴場とも言われている場所は、午後四時を過ぎると人気がなくなる。

 本のページが春の風に煽られて、数ページめくられていくのをおさえた。

 すると桜の木の向こうから声が聞こえてくる。木の反対側を覗くと、比奈月君に女の子が告白したところだった。

 答えを聞く勇気もなく、音を立てずにその場を離れようとしたつもりが、桜の木の根に足を取られて、二人の前に姿を現してしまった。

 女の子はとても綺麗な人で、容姿は美衣歌以上だった。どこのクラスの子か知らない。美衣歌よりも比奈月君に似合って、負けたと思わせる、美少女だった。

 告白した相手は、覗き見たと激怒。偶然だ、という美衣歌の言い分は全く聞かない。それどころか言えば言うほど相手の怒りに火をつけるだけで収集がつかなくなる。

 違うとしか言えず、否定してもすべてを肯定と取られてしまう。

 困り果てていたら、女の子に突如、手を挙げられた。

 その手が振り下ろされる。

 叩かれる!

 とっさに両腕で顔をかばった。しかし手は振り下りてこず、両腕の間から恐る恐る見ると、女の子の手を比奈月君が捕まえていた。

「け、奎吾けいご! 何よ、この子をかばうつもり!?」

 仮にも好きな人なのに、女の子は顔をゆがめて悔しそうな顔をする。

「この子は偶然だって言ってるだろ? そんなに怒るってことは、俺に告白するところ、見られたくなかった?」

「そ、そうよ」

「断られるってわかってるから?」

「んなっ!!」

 直球すぎる比奈月君の返事に女の子は顔を赤らめた。

 比奈月君の手を無理やり振り払うと、美衣歌に鋭いにらみをきかせ、走り去って行った。

「あの、いいんですか?」

「いいんだ。……別に」

 おもわず出たつぶやきに、ふっと微笑むと、地面に落ちたままになっていた本を拾って美衣歌に渡してくれた。

「木の根には気をつけな」

 数回話しただけで美衣歌にとって、この日は忘れられない日になった。


 その日以来、積極的に話しに行くことができず、ただ遠くから見ていた。

そして、修学旅行のあの日――比奈月君に声をかけるために追いかけたのだった。



 初めて話ができた日も、雲一つない眩しい青空だった。

 一時も忘れることなかった大事な思い出なのに、ここ数日すっかり頭から離れていた。それもこれも、毎日が目まぐるしくて、大切な思い出を思い出す時間がなかったからだ。

「比奈月君……」

 青い空に似合う爽やかな笑顔で友達と笑う少年を思い浮かべ呟いた。

 自由行動時間、前を歩く比奈月君に、声をかけていたらどうなっていただろう。

 付き合うことはないとしても、彼に一歩近づけたかもしれない。

 あの日、桜の木の下で勇気を出した少女のように。

(どうして、私は……)

 勇気が出ないんだろう。

 比奈月君を追いかけた日も、友達にさんざん後押しされてやっと追いかけて行った。

 近づけば近づくほど、心臓は高鳴り、不安で心が押しつぶされそうになって、今すぐ踵を返して友の元へ戻りたくなる。

 それでも、比奈月君との関係が変わる予感を希望に、前を行く彼を追いかける。

 あと少しで、届く。

 勇気を。声を――。

「――ラーア……ミイカ!」

 肩を強くつかまれた。

 揺さぶられ目を開く。

 美衣歌の前に、真剣な眼差しをしたアルフォンの顔があった。

「無事、か?」

 美衣歌はなんのことかわからず目をぱちくりさせる。腕をひっぱられ、ギュッと抱き寄せられた。

「無事だったのなら、よかった」

「アルフォン、さま?」

 アルフォンにきつく存在を確かめるかのように抱きしめられて、胸が高鳴る。

「い、痛いです」

 腕が痛くて、体をよじる。

 放してとばかりに。

 すると、アルフォンは放してくれた。美衣歌の両肩に両手を置き、鋭い目がきょとんとした美衣歌の目とぶつかる。

「おまえ、靴だけ置いてどこかに行くなよ!」

 アルフォンに怒鳴られて、体が飛び上がった。

「ご、めんなさい」

 居場所を知られたくなくて脱ぎ捨てた履物が、アルフォンに心配をかけてしまった。

「連れ去られたかと思った……」

「ごめんなさ……」

「無事ならいい」

 そっけなく言うとアルフォンは美衣歌の隣に座った。

 手のひら一つ分の近さに、緊張で体が強張る。そっと体をずらして、間を開けた。足の上で両手を組み握りしめた。

 湯殿で起きた出来事。

 鮮明すぎてしばらく忘れられそうもない。

(人のを見ておいて気にならないのかしら)

 美衣歌は隣のアルフォンを盗み見た。アルフォンは平然としている。

 気にしているのは美衣歌だけらしい。

「おまえに聞きたいことがある」

「なん、ですか?」

 何を聞かれるのかと美衣歌の顔がこわばる。

「ちょうど辺りに人もいないことだ。どこから来たかもう一度教えてくれないか」

 聞いている人間は、自分だけだから安心して話せと言いたいんだろうけど。

「……」

(さっきのこと、忘れてる?)

「どうかしたのか?」

 忘れているどころか、興味がないのかもしれない。

 普段通りの、昨日と変わらない素振りで美衣歌に聞いてくる。

「あの……」

「なんだ。国と町か村を早く言え。こんなところでいつまでも母上に振り回されたくはないだろう」

 アルフォンの言う通りで、フィリアルに二日間振り回され、監視され、居心地が悪くて仕方がなかった。

 家に帰れるなら、これ以上うれしいことはない。けど。

(それと、これは話が別!)

 美衣歌は見られて恥ずかしくて、逃げ出したい衝動に駆られているのに、アルフォンは動揺すら見せない。

(なんか、ムカついてきた)

 相手の様子をこっそり伺って、右側を直視しないように必死で神経を張りつめて、疲れた。

「フランスのパリって街です。住んでいるところは違うけど、パリに私の荷物があるから、戻してくれるならそこでいい」

 怒りにまかせて言い切ると、すっくと立ち上がる。

 地面についた足裏にヒヤッとした冷たいものを感じる。靴を脱いでいたのを忘れていた。

「フランス、パリ。聞いたことないな……む?」

 長椅子から立ち上がった美衣歌をアルフォンは見上げる。

 裸足をためらっている場合ではない。

 美衣歌の向かう先は、アルフォンの姿が見えない場所。城の構造なんて知らない。向かった先がどこにつながっているかも気にしないで走り出した。

 美衣歌の思惑を察知し、素早い動きでアルフォンは腕をつかむ。

 きつくつかまれ、走りだした美衣歌の体は前のめりになった。

「離してください!」

 腕を振り回し、アルフォンの手から逃れようとする。

「突然なんなんだ!」

「あなたが」

「俺が?」

「あなたが、さっきの出来事を何でもないみたいにするからっ」

 アルフォンの目が見開かれる。

「あれは、悪かった」

 謝ってほしいわけじゃない。

 そうじゃなくて。

 美衣歌はアルフォンの手を外そうと空いた手でアルフォンを引き離そうとする美衣歌を、自身に引き寄せ器用な動きで横抱きにした。

 すっぽりとアルフォンに抱えられ、心臓が高くはねる。

「や、やだ。降ろして」

 最後の抵抗とばかりに足をじたばたと動かして暴れる。心臓が同じぐらい体の中で暴れている。

「担がれたくなければおとなしくしろ!」

 美衣歌は聞いていなかった。アルフォンから離れたい一心で、自由がきく足を動かす。一向に足を止めない美衣歌に、アルフォンは仕方ないと、荷物のように肩に担ぎあげた。

「っきゃ」

 慌ててアルフォンの肩に無意識に手をついた。手をつかなければ背中に顔面をぶつけていたかもしれない。

 アルフォンの両手で、両足を封じられ動けない。

「逃がさない。これ以上走り回られてたまるか」

 おとなしくなったのを確認してアルフォンは城へ歩き出した。

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