9:湯殿
「そろそろいいでしょう。粉を落としましょうか」
「わかりました」
染粉が毛穴に入り込んでいるのか、それとも、はじめてのことだからか。頭皮が痒くて仕方ない。早く落としてもらいたい。
「疲れていませんか?」
道具を片付け、染粉を洗い流す準備を手早く済ませたハユラが、長時間椅子の上で動かずにいた美衣歌を労わってくれる。
「ええ」
頬がひくつかないように気をつけながら、令嬢らしく微笑を向ける。
同じ姿勢を保ち続けていた体はすでに悲鳴を上げていた。背中と腰は、屈んで作業をしたのかと思うほど痛く、肩も凝り固まっている。
フィリアルが部屋を出ていき、緊張の糸が緩みかけたのを急いで引き戻した。美衣歌の姿を監視しているのは、フィリアルだけと限らない。
ハユラとハインツは片づけや準備をする傍らにふとした瞬間、こちらを見ている視線を感じていた。
フィリアルからどう聞いたのか、二人は美衣歌に興味を示してくる。何を聞かれても、墓穴を掘る自信が多大にあった。
しばらくして上機嫌なフィリアルが部屋に戻ってきた。
長いようで短い間、客人から好奇心の視線を浴びせられた。フィリアルが部屋にいて見張られていたほうがましだったかもしれない。
「スティラーアさま。準備ができました」
「はい」
返事一つにフィリアルの目が鋭くなる。
神経を張りつめて、くたくたになった体をよっこいしょと膝に手を置き椅子から立ち上がった。その瞬間、フィリアルからとてつもない殺気に似た視線が送られてきた。
(ひいっ。今の立ち上がり方がよくなかった、のかも!?)
淑女らしいお淑やかな椅子の立ち方なんて知らない。また咎められると肩をすくめた。
フィリアルは糾弾しないで、視線だけが鋭い。
美衣歌はフィリアルの姿をとらえたくなくて、床へ視線を落とした。
頭につけられた粉が落ちないよう、頭にフードをかぶり肩にケープがかけられ、後ろをイアが持ちあげた。
「それでは行きましょう」
イアに押され、フィリアルが先導を行く。フィリアルの後に、美衣歌が歩き始め、美衣歌と歩調を合わせてイアが続く。ハユラが恐縮そうにイアと肩を並べて歩を進めた。
ハインツは、先ほどの部屋でゆっくりお茶を楽しんでもらう。
部屋を出てしばらく進むと階段があり一階まで下りていく。廊下を道なりに歩けば湯殿の前でコーラルが待っていた。わずかに開いた扉からお湯の香りが漂ってくる。
「準備できています」
コーラルがゆっくりと頭を下げる。
「ハユラは、中へ先に行っていて」
ハユラは返事をし、コーラルから「何かお手伝いすることはありませんか」と聞かれ、答えながら湯殿の中へ消えていく。
「イア」
美衣歌の後ろにぴたりとついているもう一人の侍女を、フィリアルは呼ぶ。イアは首肯することで返した。
「後はお願いします。わたくし、少し……用がありますの。いいかしら?」
湯殿まで入ってくると思いきや、違うらしい。内心安堵した。
「はい、お任せくださいませ」
フィリアルは踵を返し、颯爽と歩き去っていった。
先に湯殿で準備を終えたコーラルが扉を開けた。
「スティラーアさま。どうぞこちらへ」
中へ入ると湯気がもわりと顔に当たる。その中にほんのりと花の香りが混じっている。お湯につかれば凝り固まった体が癒されそうだ。
お湯につかりたい衝動を抑え、美衣歌は脱衣所へ向かった。
「濡れてはいけませんので、ドレスからこちらへ着替えていただきますね」
差し出された服は簡素といってもいい。柄のない黒の服は、汚れても目立たない。スカートの裾は膝上で短い。スカートの長さが、制服の長さと変わらない。長い裾丈ばかりを見ていたので、こんな服もあるんだと感心してしまう。
「こちらへお越しください」
コーラルとハユラの待つお風呂へと裸足で向かう。染め粉は急いで落とさないと色が入りすぎてしまう性質を持つ。
染粉と同じ色をした付け髪と色が合うようにしなければ違和感が出てしまう。
年頃の女性の短い髪は、なにか罪を犯した人の証ととられ、あまり好まれていない。
染粉を落としたら美衣歌は頭に、長い髪の付け髪、ようは鬘をすることになる。
脱衣所から湯船のある場所へ足を踏み入れた。十人は余裕で入れる丸い形の湯船には花が所せましと浮かぶ。
ふんわりとした花の香は優しく、美衣歌の気持ちを安らかにさせてくれる。湯につかれればいうことはない。湯殿に来た目的は染め粉を早く落とすことであり、湯にはいることではない。
がっかりとしながら、視界の端にとらえたものを追いかける。
湯船から五歩は離れたところに寝椅子が準備されていた。
「椅子に座って頭が出るようにして寝てください」
ハユラに促されるまま寝椅子に腰かけ、言われたようにする。
頭を支えるものがなく、首に変に力が入る。終わったころには肩だけでなく首も痛くなっていそうだ。
(美容室みたいなのがあれば首ささえてもらえるのに)
ここには美容室にあるような、画期的な頭を洗うための洗面台は存在しない。
我慢、するしかない。
「染粉を落としていきます。イアさま、コーラルさま、お手伝いお願い致します」
お湯がたっぷりと入った桶を寝椅子よりも低い足台に乗せ、美衣歌の髪についた粉を湯で丁寧に落としていく。汚れた湯は二人の侍女が新しい湯と取り換えていき、手とくしと布を使って丁寧に落とされていく。
「時間をかけてすべての粉を落とさなければ髪に大変悪いのです。辛抱なさってくださいね」
「頑張ります」
ちょうどよい温度の湯に、髪をすかれるようにして洗われていると、睡魔が襲ってきた。
ものすごく、眠い。
目にお湯や、粉が入らないように閉じて、さらに目隠しのように当て布をされている。これがとても心地よい温度で、襲いくる睡魔に負けないように戦うが、負けてしまいそうになる。
このまま寝られたら、どれだけ気持ちいいことか――――。
「スティラーアさま、お疲れさまでした。……? スティラーアさま?」
微動だにしない美衣歌の耳にハユラの声は届かない。
イアがゆさゆさと肩をゆすり、美衣歌はぱちっと目を覚ました。
湯殿の壁が眩しい。
「終わりましたわ」
「ええっと、寝てました?」
「えぇ、ぐっすりと」
睡魔に、負けてしまっていた。
まだ負けてない、寝てないと思っていたのに。
がっくりと肩をおとす。
「全部落としましたが、まだ残っているかもしれませんので、頭を洗いますね。……イアさまお願いします」
洗髪の準備を済ませたイアが、美衣歌の髪に触れる。
「スティラーアさま。あと少しの辛抱です」
洗うぐらい自分でできる。けど、洗ってもらう方が断然楽である。
髪の毛がお湯に浸かる感じがし、ふわりと石鹸の香りがして、髪の毛が洗われているのを実感する。
目を閉じ心地いい感覚に身を委ねた。
頭を洗われると眠くもないのに、不思議と眠くなる。
石鹸をきれいに洗い落とす。そのあと、甘い蜂蜜のようなにおいがした。
「傷んだ髪にいいそうなんです。これから毎日塗りますね」
甘いにおいに、クッキーやビスケットのお菓子が頭に思い浮かぶ。
(お菓子……食べたい)
髪をパックして、時間を置き、お湯で洗い流す。残った水をタオルで丁寧に吸い取る。
「終わりました。とてもきれいな色に染まってますわ」
寝椅子から起き上がり、用意された椅子へ座り直す。背もたれに背をあずけ伸びをした。
両肩が凝っている。首と背中も。
「スティラーアさま、疲れていませんか? 一度お湯につかって体の疲れをとっては?」
「え、いいんですか?」
「ええ、疲れをとっていただくために湯をお張りしましたの」
入れたらいいと思っていたから、とてもうれしい。
「ありがとうございます。入りたいです」
考えるより先に口から願望がとび出た。
脱衣所に行かずにその場で黒の服を脱ぎ、お湯に入った。
湯加減がちょうどよく、肩までつかる。凝ったところが暖かさでほぐされてゆく。
首もつかり、ほっと気分が安らぐ。
「はぁ〜疲れたぁ〜」
肩を揉みほぐし、首も、腰もいたわる。
白、黄、桃色の花が湯船に浮かび、目を楽しませてくれると同時に体全体を隠してくれた。
しばらく呆けて湯につかり、ふと染められた髪が気になった。
短い髪を触る。
パックされた髪はつやつやのつるつるで指どおりがいい。
一房とり、視界に入るように持ってくると、髪は栗色になっていた。
「染まってる……」
左右どちらの髪を見ても染まっていた。
「こんな色に染めたって知ったらお母さん嘆くなぁ。まだ高校生なのにって」
母親の怒る姿を思い出して、くすっと笑った。
美衣歌の母は髪を染めることを嫌っていた。
耳にピアスを開けることも、髪の毛にパーマかけることすら禁じるほどに。可愛くなっていく周りの女の子たちを見て、母親の方針に不満を感じたのは高校生になってから何度もあった。
けど、すべては髪を傷めるからで、ピアスを開けることを禁じたのは、校則の禁止事項にピアスがあるからだろう。
「ここにピアスなんてアクセサリーあるとは思えないけど」
耳朶を触りながら、一人呟いて、湯に体を沈めた。
⭐︎
湯船での時間を優雅に満喫していると、脱衣所の方が騒がしくなる。
何の騒ぎかと、お湯から出る。体を隠せる何かを探すも、見当たらない。「置いておきますね」と湯につかる前に聞いたはずなのに、寝椅子になにもかけられていない。やむなく恐る恐る、脱衣所に向かう。
「何の騒ぎ……。――っ!」
衝立で隔てられた脱衣所を覗きこみながら言った言葉は最後まで続かなかった。
そこにいたのは、イアでもコーラルでもない。
ハユラもいない。
手と顔、濃い茶色の髪にべったりと黒のインクを付けた、美衣歌が婚約する予定の相手、アルフォンだった。
アルフォンは上半身を脱いだ格好で、唖然としている。
なぜ、ここにいるの。
執務中じゃ?
侍女たちはどこへ?
いろんな疑問符が頭の中を瞬時に駆け巡った。
「……悪い」
アルフォンがぱっと後ろを向く。
「きっ、きゃぁ―――!!!」
美衣歌は自身の格好を思い出し、悲鳴をあげた。
湯船につかったことで火照った顔は、羞恥でさらに赤く火照り、慌ててアルフォンの視線から逃げた。衝立の反対側で、これ以上見られたりしないように体を抱え込みしゃがむ。
みられた。
絶対に見られた。
「――――っ!」
男の人が来てると知ってたら絶対に、湯船から出なかったのに。
美衣歌が入っている間は扉の前で侍女たちが見張っていると言っていた。間違って誰かが入ってきたりしないように。
安心して入ってくださいと言っていたが、入浴中に男性を通すなんてことしないと思いたい。
湯船につかりながら衝立越しに侍女たちと会話していた。ここに、確かにいたのに、会話が途切れるまで、いたのに。
侍女が扉の前にいれば、こんなところでアルフォンとはち合わせることはない。二人なら入浴しているのが誰かアルフォンに教えてくれていた。
「なんで、い、いるんですかっ! 今は執務中じゃっ」
冷静になろうとすればするほど、声が震える。
「悪い、いると……」
尻すぼみになって、最後は聞き取りにくかった。
「わ、私は、髪を染めたから、その、そ、染粉を落としに来たのでありましてっ。決して昼間からのんきにお湯につかりたいなどと言ったのではなくてっ、レッスンをサボってるのでもなくて!」
焦りもあって、自分で何を言っているのか分からない。
これ以上言うとよけいおかしくなってくる。
一度、冷静にならないと。
大きく深呼吸をして、動揺を落ち着かせる。
落ちつけるわけないけど、無理やり落ち着かせた。
「あなたはどうして――ここに?」
アルフォンへ、湯殿にきた理由を聞いた。彼もこんな昼に湯殿でお湯を浴びにきたわけでもあるまい。
「俺は、母にインクをぶっかけられたからだ。――――こうなることわかってて……やられたな」
最後は美衣歌に聞こえないように言ったんであろうが、美衣歌には聞こえている。ここは音が反響してよく響く。
「フィリアルさまが……わざと?」
「いや、話している間に、言い争いになって、かっとなった母上が近くにあったインクの瓶をつかんで、投げつけられたんだ」
聞きたかったのはフィリアルがわざとアルフォンを湯殿へ行くように仕向けたのかと聞きたかったのに。
フィリアルは美衣歌がここにいることを知っている。
知っているうえで、アルフォンをここへ来させたということはわかっててやったに違いない。
彼女の中ではこうなることを予感している。今頃ほくそ笑んでいることだろう。
ぱさりと、何かが衝立越しに投げられ、美衣歌の頭に乗っかる。顔を覆うようにして落ちてきたそれは、引っ張り下ろすと大きいタオルだった。
これで体を隠せる。膝立ちになり、体にタオルを巻きつけた。
隠すところが隠せたといって、すぐに衝立の向こう側、アルフォンのいる側へいけるはずもない。
「俺、……。悪かったな」
アルフォンが衣服を着る音がする。
「体あっためてから出てこいよ」
美衣歌の体を気遣い、脱衣所を出て行く気配がする。
しばらくして脱衣所を覗くと、誰もいなかった。
体に巻きつけたタオルをとり、少し冷えてしまった体をもう一度湯につかりあったまる気も起きず、体を覆ったタオルで水分を拭き取った。
「イアッ、コーラルッ。何処なの!? 二人とも何処行っちゃったのっ」
声を上げても、返事はかえってこない。
湯殿の近くにはいないようだ。なんだか罠にはめられた気分だ。
なにか着替えるものはないかと探す。
用意されていたのは着ていた緑のドレスと緑の靴。ほかにはなにもない。
これを一人で着なくてはならないらしい。
なれないドレスを一人で四苦八苦しながら着終えると、緑の靴を履く。
髪が染まった後、付け髪をつける予定になっている。部屋に戻らなくてはならない。
濡れた髪をどう乾かしていいかわからず、ひとまず、身体を覆っていたタオルでまんべんなく水分をとる。
ある程度乾きだしているためか、タオルで挟んで軽くたたいた。
ドレスがきちんときれているのか確認するための鏡がない。大丈夫だろうと、扉をあけたら。
「!」
湯殿から去って行ったとばかり思っていたアルフォンが、壁を背に預け腕を組んだ姿で立っていた。
驚きに目を見開く。いないとばかり思っていた。
美衣歌が戸惑っていると、アルフォンは預けていた背を壁からはなした。
何か、言わなくては。
視線を右往左往させ、頭の中で考えるも、焦るときほど何も思い浮かばない。
(そうだ)
偶然だとはいえ、悲鳴を上げたことを謝らねばならない。
「あ、の」
うつむきそうになる自身に叱咤する。
「ごめんなさいっ」
真っ先に謝ってしまった。
「あ、悲鳴あげてしまって……」
すぐになんの謝罪か言ってなかったと気づき、付け加える。
「いや、それは」
アルフォンが戸惑った表情で左手で頭をかく。
困らせてしまったかもしれない。
「し、失礼しますっ!」
アルフォンが何かを言う前に、走りにくい緑の靴を手で両方とも脱ぎ、靴を両手につかむと、失礼のないように一礼して廊下を逃げるようにして走りだした。
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