6:ダンスレッスン

 翌朝。

 広い寝台の淵でぐっすりと眠る美衣歌に、侍女たちは朝の支度を早々に済ませた。

 支度を済ませた美衣歌に待っていた、“本日の予定”は貴族令嬢としての基礎講習が分刻みで予定されていた。


 小さいながら数人で豪華な晩餐会ができる広さのある部屋は、大理石で造られた床は磨かれ、朝の光を反射して輝いている。壁、カーテン、部屋のあらゆるすべてが乳白色で統一されていた。


 不機嫌なフィリアルと、彼女の機嫌を伺う男性が部屋で美衣歌を待っていた。

 男性は美衣歌にダンスの講師だと名乗った。


「背筋を伸ばし……足元を見てはなりません! 視線は常にお相手に。そう。そして、お相手と向き合い、会話を楽しむのです」

 くるりと周り、手を高く伸ばした講師の背後からは煌びやかさを感じる。

 画面越しでしか見たことのない社交ダンスに美衣歌は拍手を送りたくなった。

「お分かりいただけましたか?」

 一通り踊りきった講師が後ろに束ねた髪を揺らし息を弾ませていた。

「は、はい……」

 一回見ただけで理解できたと到底思えない。フィリアルから発せられる無言の圧に押され気味に返事を返した。

「スティラーアさまはダンスがお久しぶりと伺っております。思い出しながらで結構です。この男と一度踊ってみてください」

 もう一人の初老の講師の提案に、今まさに一人で踊った講師が、美衣歌に掌をだした。

(踊れるわけないじゃん!)

 社交ダンスなんて、学校の授業でお遊び感覚でやった程度なのだから。久しぶりどころか初心者同然である。

「スティア? なにを躊躇っているのです」

 壁に丸いミニテーブルを置き、椅子に座ったフィリアルが、講義を見学という名の見張りをしていた。

 逃げられない。

 覚悟を決めて、三十代くらいの男性にその身を託した。



 婚約式の夜、社交ダンスの場が設けられている。

 国内の貴族たちへ、アルフォンの相手をお披露目する場が設けられている。

 婚約者として文句のつけようがない華麗なダンスを皆の前で披露する事で、貴族たちに我が娘では到底かなわない、と思わせることが第一の目的なのだが、美衣歌はダンスが踊れない。

 ダンスは貴族、王族に産まれた以上できて当たり前。王族の者は特に優雅に気品よく踊らなければいけない。

 感心されるほどの優雅さと気品さ。双方を取得できなければ社交の場にデビューできない。


「スティラーアさま。何度同じことを言えば分っていただけますのでしょうか?」

 三度同じことをしたら指摘はもうしないとレッスン前にダンスの師から言われていた。三度目は軽く越えて、もう何度目かの同じ指摘をされる。

 指導の男性からため息混じりの指摘。美衣歌は肩をすぼませる居心地の悪さを感じた。

「すいません」

 頭で分かっていても、疲れた身体が思うように動いてくれない。

 短期間で優雅に踊れるようにならなければならないというのに、レッスン開始十分で美衣歌の運動能力はすでに限界に到達し、足元がおぼつかなくなってしまっていた。

 そこへ講師から次々と容赦ない指摘がとんでくる。

 息を整え踊り直すが、慣れない靴に今度は足の指が悲鳴を上げ、足全体が真っ直ぐに立てられなくなる始末。

 すぐに飛んでくる指摘。

 荒れた息遣いで講師へ何度も謝罪を繰り返した。

 同じように踊っているのに、途中から少しずつワンテンポずれていく。

 お手本となる先生を前にして同じように踊るだけ。同じステップで足を動かせばいいだけ、簡単だと言われても、難しい。

 動きを確認して、足を動かしていく。講師が一通り踊り終わり、踊ってみてと言われ、ステップの通りに踊っていくが、途中から最初に戻ってしまう。


「仕方ありません。時間もない事ですし、実際踊りながら覚えなさい。出来ますよね?」

 いいえ、を受け付けない表情。美衣歌は頷くしかない。

 ステップが覚えられていないのに、男性役の講師を相手にダンスなんてできないが、やるしかない。


 見よう見まねで踊るよりも遥かに難度が上がる。

 覚えきれていないステップが、足を踏むという初心者にはありがちなことを何度もやってしまう。

 美衣歌は初心者なのだから足を踏んでしまうのは当然なのに、相手の足を踏むとフィリアルから罵声ばせいが飛んでくる。

 そう。美衣歌が演じるスティラーアは、幼い頃から叩き込まれているダンスは、身体が覚えている。

 あやふやなステップを数回やれば思い出すように、踊れて当然なのだ。

 聞いていた話と違うとばかりに講師があからさまに眉を顰めるのが見えてしまった。

 初心者に経験者と同じことをやらせようなんて無茶で無謀すぎる。


 講師の足を踏まないようにと、気づかないうちに視線を下へ向けた美衣歌をフィリアルは見逃さなかった。

「スティア、相手を見なさい!」

「は、はい!」

 指摘され丸まった背筋がピンと伸び、顔が前を向く。

「それでいいのよ。下を向かずにできなければ意味ないわ。真剣におやりなさい」

 お小言も、怒鳴られるのも嫌というほど聞かされた美衣歌の体は限界を越えて、とうに悲鳴をあげていた。

 昨日の靴擦れが治っていない足でピンヒールを履き、慣れないダンスをする。すでに足は限界だった。両足に水ぶくれがつぶれた痛みがする。それよりもステップを覚えなくてはならず、痛いと言えない。

(も、もうダメ)

 あまりのスパルタさについていけなくなり、意識が朦朧もうろうとしてくる。

 周りの音と声が徐々に遠のいていくのがはっきりとわかった。

 両足が棒のように感覚がなくなってきた。同時に膝ががくんと曲がり、倒れる自身の体を支えるほどの力はもうわずかも残っていなかった。

「スティラーアさま!」

 蒼白な顔で駆け寄る侍女の姿が視界の片隅をよぎる。

 ダンスの講師は慌てて振り返り、美衣歌の手をつかもうと手を伸ばすがほんの数センチ足りず間に合わない。


 床が間近に迫る。


 ぶつかる、直前。


「――っ」

 悲鳴にも似た侍女の叫びの中、あと五センチで床に肩をぶつけそうな美衣歌の身体は、誰かの手により床に強打することからまぬがれた。

 まだ手放していない混濁こんだくする意識の中、力強く支えてくれた相手を見上げる。

 ぼんやりとした視界で、彼を見上げた。

 空色の瞳が美衣歌を見下ろしていた。

「危なかったね」

 美衣歌を支えた男の人が、にこりと微笑む。

「ケイルス殿下! ありがとうございます!」

 コーラルがお礼を述べ、美衣歌の体を素早くケイルスから奪い取る。

 片手で支えられていた美衣歌は、コーラルの手に渡り、冷たい床の上へゆっくりと下ろされた。額に浮いている玉の汗を、コーラルが拭ってくれる。

「スティアさま、お水飲めますか?」

 イアに上体を支えられ、渡されたコップを両手で持ち、口へ運ぶ。

 注がれた量の半分も飲み下す前に力つき、手からコップがすべり落ちた。

 床に音を立てて当たったグラスは転がり、美衣歌のドレスと床を濡らしていく。

「しっかりなさってくださいっ」

 イアに頬を叩かれる。不思議なことに痛いと感じられない。

 何やら冷たいものが顔に当たっているという感覚だ。

「重症ですね。母上、どれだけ厳しくしたのですか? アル兄さまの婚約者だからって、少し酷過ぎませんか?」

 自分の限界を超えてまで、フィリアルの厳しい特訓に耐えていたようだ。

「ケイルス。お前の出番はまだ当分先です。あなたはダンスの相手役として手伝ってと頼んだはずです」

「この人が倒れたのは、一週間後に婚約式を執り行うと無茶を言うあなたが悪いんですよ? 体調を崩したら式にすら出れませんよ」

「そ、それは分かっております。ですが、アルフォンの婚約者としてですね……」

 人の声が遠くなっていく。

 フィリアルの声。侍女が心配する声。講師の声。そのどれもが、徐々に遠ざかって、美衣歌は、意識を手放した。

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