5:一日の終わり
夜着の上に上着を羽織る。履き慣れたローファーは、城の廊下に不釣り合いだった。靴擦れした足は履き慣れたローファー以外、擦れたところにあたって一歩も歩くことができなかったので仕方ない。
美衣歌の
部屋に一人になって、風がそよぐ音を聞いていると高揚した気持ちがゆっくりと落ち着いていく。
還りたいわずかな望みはあっさりと砕かれて、子供のように泣いた結果、アルフォンの上着を涙で濡らした。
男の人の胸を借りて、大泣きしたことがとても恥ずかしくなった。
このまま、部屋にいるとアルフォンの客が帰った後、戻っできてしまう。
居合わせたら泣いたことを思い出して、気まずい。
部屋から出ると、廊下に護衛の男性が立っていた。
彼は美衣歌が出てくるのを待っていたらしく、再びフィリアルの元へ連れて行かれた。
虫でも見るような冷ややかな目で見下され、そこで、講師によりこの世界の一般常識なるものを叩き込まれた。
悲しみに暮れる暇なんてない。
まったく整理のついていない頭に、無理やり常識を叩き込んだせいか、情報量過多になり、頭痛すらしてきた。
いまも、灯された廊下を歩きながら、頭が痛いような気がしてならない。
侍女となったばかりの二人と、美衣歌の体調を気遣えるほどの親しさはない。
夜の寒さに肩を震わせて、空を見上げる。
暗闇の中、ぽつりぽつりと大小様々な星が輝いていた。
アルフォンの自室。今日は、美衣歌の部屋でもあった。
「あの、み……スティ、ラーアです」
ドアを叩き、慣れない名前を名乗る。
昼のことで、緊張と、気まずさを感じつつ、部屋に入る。
アルフォンは、椅子にもたれかかり、手にした書類に目を通している。
二の足を踏む美衣歌に焦れた侍女たちによって室内へと押し込まれる。
絨毯に足をとられてつまづいた。
絨毯のおかげで衝撃は和らげたものの、着慣れない夜着で受け身をとりそこねて、肩を強く打ってしまった。
(いたた……)
部屋の扉が閉められる音がした。
立ち上がろうとした美衣歌の影に、重なるように絨毯に新しい影ができる。
見上げると、少し不機嫌のアルフォンがそこにいた。
美衣歌を見下ろす冷徹な目。ふと、目元が緩んだように見えて――目が逸らされる。
それだけなのに胸が高鳴った。
きっと、昼の大泣きしたことが恥ずかしいせいだ。
「あの……」
「お前、なんて格好してるんだ……」
大泣きして迷惑かけてしまったことを謝ろうとした美衣歌に、あきれた声がかぶさってくる。
そんなひどい格好なんてしていない。
「!!」
見下ろして、改めて転んだことで、酷い格好になっている自分に、言葉にならない悲鳴がでた。
上着が床に落ちていて、スリットが大きく
慌てて服を整える。羞恥で顔が熱くなってくるのを止められない。
「ん」
捲れたりしないよう手でスリットを押さえ……どうやって立ち上がればいいのか……。この国の女性はスマートに立ち上がるんだろうけど、美衣歌にはとても出来ない。
アルフォンが手を差し伸べてくれる。
怪訝に思いながら差しのべられた手に手を重ねることを
手を出しかけたところで戸惑っていると、アルフォンは迷う美衣歌の手首を強引につかみ、引っ張り上げ立ち上がられてくれた。
勢いのついた美衣歌の体は、立ち上がるだけにおさまらず、そのままアルフォンの腕の中にすっぽりと納まった。
「すみません!」
驚きに目を見開いた。
慌てて離れていこうとする美衣歌にアルフォンからぎゅっと抱きつかれてしまった。
「!?」
なにが起きたのかわからず、さらに混乱する。
腰に回った腕の力は緩まず、肩にアルフォンの息づかいを感じる。
アルフォンを意識してしまい、男性慣れしていない身体に不思議と力が入ってしまう。
「選んだの母上だろ」
背中が開いている、子供っぽい美衣歌に不釣り合いな夜着。アルフォンが呆れた溜息をついた。
「そう――みたいです」
「やっぱりな。そうだろうと思った」
腰からするりと手が離れていく。
身体の力をゆっくりと抜いて安堵した瞬間――それを待っていたかのように膝裏に手が回り、持ち上げられた。
「!!」
突然のことで、近くにあるものに縋り付く。何が起きたのか理解できなかった。
そのまま、寝台に連れて行かれる。そこで降ろしてくれた。
まではいいのだが。
昼間の出来事が鮮明に思い出される。
ここで美衣歌は、元住んでいる場所を聞かれた。
今度はなにを――。
アルフォンの動作一つでもとりこぼさないように目で追っていく。
彼は、美衣歌を上から見下ろし、眺めた。
スリットから足が出ないように布の先をおさえる美衣歌の肩を引きよせる。
「あの、なんで……しょう?」
美衣歌の頬がアルフォンの胸にあたる。
アルフォンの心音が美衣歌の耳に直接響く。
規則正しい音。
緊張で速くなっている美衣歌の心音と全然違う。アルフォンは全く緊張していない。美衣歌に伝わる心音が教えてくれる。
意識してしまっているのが自分だけだと思い知らされているようで、この体制、大変よろしくない。
「この服、着たくないって言ったら着なくてもよかったんじゃないのか?」
耳元で囁かれ、美衣歌の心臓はドクンと跳ねた。
囁かれるの、慣れてない。
「母上のお小言を聞く羽目になるだろうが、母上が選んだのを拒まず着たのは……俺を落としたいからか?」
「ち、違うっ! 全然、違います!」
そんなつもり全然ない。
着たくないと、腰が引け気味にはっきり言った。
これ以外ないと、きっぱり言い返されてしまった。
「家に帰る手段はない。が、婚約者として城に住めば衣食住は保証される。従えとでも言われたんだろ」
まさにそうだった。
その場にいたような口ぶりに瞠目した。
「なぜ、それを……」
「あの人がいいそうなことだからな。言われたのか」
「そ、それはそうかもしれませんけど。でも違います!」
衣食住の保証は魅力的だった。
少し考えてしまったが、すぐに打ち消した。
庶民の子供が、国を治める皇族の住む王城に、なんの躊躇いもなく住むなんてできない。
「どう違うんだよ」
アルフォンが理解できないと言わんばかりに眉を顰めた。
「ただ、私はその、お小言をもう言われたくなくて……それ以外に理由はありません!」
「ああ、あれだけ言われればイヤにもなるな……」
アルフォンは夕食のことを思い出し、あっさり納得した。
フィリアル主催の小さな夕食会が急遽開かれた。
ナイフとフォークを使った食事は年に数回片手で数えられる程しか経験がない美衣歌は、耳にタコができるぐらいフィリアルから注意、指摘の嵐だった。
目を吊り上げて、美衣歌のマナーチェックをされていては、おいしいはずの豪勢な料理は味を楽しむ余裕はまったくなかった。
「そうです! これ以上はもう、聞きたくないんです」
その時のことは思い出したくない。
まだ耳の奥にフィリアルの甲高い声がこびりついていて、うんざりだ。
「そうか。なら、お前はここを使え」
アルフォンは美衣歌をあっさりと解放して、机に広げられた書類を手早くまとめた。
「俺、まだ仕事残ってるから。新しい部屋が準備されるまでこの部屋は使っていい」
「え? でも」
ここはアルフォンの部屋で、この寝台はアルフォンの寝る場所。
「俺のことは気にしなくていい」
アルフォンは扉を開けて、唖然とする美衣歌を残し部屋を出ていってしまった。
「どうしよう」
一人残された美衣歌は戸惑う。
寝台を使っていいといわれたけれど。
ここを美衣歌が使うなら、アルフォンは寝るところがなくなってしまう。
使っていいということは、アルフォンも同じ寝台を使う?
寝台の淵で考えこんでいる間に、美衣歌は使ったことのない柔らかな寝台に後ろから倒れこみ、意識を手放した。
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