7:帝国皇子の来訪

 セレーナへ真実を告げてから数日後。

 ファリー夫人の講義が終了時間に近づく頃合いを見計らったかのように、部屋のドアが叩かれた。

 ファリー夫人に子供向けの物語で読めない部分の訳を教えてもらおうと、本を開いたところだった。

 ドアを開けるとクレストファが、神妙な顔で廊下に立っていた。

「スティラーアさまのお耳にいれておきたいことがあります」

 ドアをクレストファが乱暴にドアを閉めた。普段の落ち着いたクレストファから想像がつかない。

 なにがあったのだろう。

 美衣歌は不安になりながら、開いた本を閉じた。

「クレストファさま、ドアはゆっくりと」

 まなじりを吊り上げ、ファリー夫人から指摘される。

「申し訳ありません、ファリー夫人。ご指摘は肝に命じますから、講義はここまでにして頂いてよいでしょうか?」

 普段と違う異様な雰囲気に、なにかを察したファリー夫人は、荷物を素早く片付け、バックを手に持った。

「スティラーアさま、また次回にお会いしましょう」

「はい。ありがとうございました」

 部屋を颯爽と出て行く夫人の背中を見送り、戸惑いながらお礼を言った。

 夫人の足音が遠ざかって行く。

「なにか、ありましたか?」

 美衣歌は、椅子からゆっくりと立ち上がる。

 奥歯をぐっと噛みしめ、言わなくてはならない何か口にしていいか躊躇ためらっている。普段穏和な彼から、とても想像できない。

 部屋にはイアがいる。クレストファが外で待機するよう、命じなかった。

「……還る方法、見つかりましたか?」

 言いにくいことが、美衣歌に関係していることなら。思いつくことをイアに聞こえないよう配慮して訊ねた。アルフォンから、見つかっていないと毎晩聞かされていた。もし、見つかったという嬉しい報告なら、こんなにも言い渋らない。

 とても、小さく首が振られた。

 見つかったのであれば、イアを部屋の外へ出てもらっている。

(そうじゃないからイアは部屋にいるのね)

 察しの悪さに悔いる。

「スティラーアさま、あなたの祖国の第一皇子がおみえになっています」

「……えっ」

 美衣歌はスティラーアの出身国が、どこだったかと考えてしまった。

 スティラーアはカヴァロン帝国出身。ウィステラ皇国の間に小国を挟んだ先にある、ウィステラ皇国が国土にすっぽりとおさまってもまだ遥かに広い土地を持つ大国。そして第一皇子といえば、セレーナの婚約相手だ。

「公式的な訪問とのことですが、実はカヴァロン帝国の王族に、アルフォンさまが婚約する手紙を出していないのです」

 婚約式後のお披露目が催されたパーティで、ウィステラ皇国周辺の小国の王族は紹介されても、そこにカヴァロン帝国の王族は一人もいなかった。帝国からはスティラーアの父親であるルスメイア家の当主だけだった。

 その当主は偽物の美衣歌を射殺さんばかりの鋭い瞳で、ひと時も美衣歌から離れることはなかった。

 どの国も、帝国の王家が来ていないことに疑問を感じながら、口にしなかったのは、ルスメイア家当主が出席していたからであろう。

 国が大きいと小さな国の婚約に興味はないのかもしれないと、美衣歌は思っていたがどうやら違っていたようだ。

(まさか招待状を出してなかったなんて)

 出さないように止めた人物はおおよそ見当がつく。アルフォンとスティラーアを結婚させたがっているフィリアルだ。

 カヴァロン帝国内でも権力を持ち、敵に回したくないと言われる三大貴族の一つ、名家ルスメイア。

 帝国内で、飛び抜けて抜きん出る魔力と豊富な魔法技術は、ルスメイア一族の誇りだ。その中でも飛び抜けて魔術に長けていたのが、当主の妹フィリアル。フィリアルに匹敵する魔法の力を持つ当主の娘、スティラーアだ。

 帝国の貴族の中で常に話題を攫っていくスティラーアの婚約に王族が来ないことこそありえない。

(招待されていた王族の方たちが、不思議そうに首を傾げていたわけなのね)

 パーティで真っ先に祝辞を述べるべき人物、帝国の王族がいない。ルスメイア家がいて、王族がきていない。招待状が出されていないと思わず、様々な憶測がその日、噂されたことだろう。

「先程陛下とご面会され、その場でスティラーアさまのご婚約をお知りになられました。彼はアルフォン殿下と貴女あなたにお会いになられて、直接祝辞を述べたいと仰られたとのことです」

「……え!?」

「歓迎の晩餐会の時にでも、とその場を濁したそうですので、すぐというわけではありません」

 ほっと安堵した。

 カヴァロン帝国で、スティラーアは王族と何度か顔を会わせ、会話をしているであろう相手に、美衣歌が本人のように振る舞い続けることはできない。どこかで見破られでもしたら、立場が悪くなるのは、ウィステラ皇国側。

 皇王はスティラーアが偽物と知らない。好意で第一皇子に伝えた。皇王はカヴァロン帝国へ招待状が送られていなかっただろうかと聞いたという。

 皇子と美衣歌が城内で会ってしまえば、どうなるか。美衣歌はスティラーアのように振舞えない。皇子からみたら、美衣歌はスティラーアに見えてしまう。

 美衣歌と、祖国第一皇子とを逢わせないようにしなくてはならない。

 王宮は広い。皇子が滞在中、会わないようにすることができる。

 しかし、会わずに過ごせる場所は何処にあるのか。

「アルフォンさまはなんて?」

「城内でばったり会う前に、執務室へお連れするように、とのことです」

 執務室は、来客が来れば部屋で話をすることがある。そこへ第一皇子が訪室してこれば、逃げ場がない。

「アルフォンさまが、執務室の奥を使っていいと」

 クレストファへ疑問を聞くと、問題ないと言わんばかりの笑みで返された。

 執務室にある寝室まで、帝国の皇子といえど入ることは許されない。

「フィリアルさまがスティラーアさまを今夜の晩餐会へお出になれないようにする可能性があります。……出られない方が貴女にとってはよいかと思いますが」

 最後は小声で、スティラーアにだけ聞こえるよう配慮してくれる。イアに聞かれていい話じゃない。まさか仕えている主が偽者だなんて。

「ボロが出てしまうから、出なくていいのならその方がいいかな」

 礼儀作法を習っているといっても、まだツギハギの優雅と言い難いもの。スティラーアを知っているかもしれない第一皇子の前でなにかをしでかしそうで怖い。

 アフターヌーンティーの時間は終わっても、陽が天に昇っている時間に自室へ戻るにはまだ早い。城内を歩き回れば、第一皇子に出会う確率は格段に上がってしまう。開かれる晩餐会までの間、アルフォンの執務室で待機することがいいと判断した。

 不服そうに怪訝な顔をするイアを、クレストファが事情を話して言いくるめてしまった。パッと明るくなった表情になにをいったのか察してしまう。

 アルフォンと仲良くする時間が必要とか、なんとか言ったようで、頬を染めるイアの想像力の高さに、頰がひくついた。

 イアの性格から、どう言えば勝手に想像してくれるかを知り尽くしているクレストファに鳥肌が立った。

「スティラーアさま、アルフォン殿下の執務室へいきましょう」

 執務室へ向かってクレストファと通路を歩き、角を曲がった。中庭が一望できる場所にさしかかると、正装を着た見目麗しい男性が中庭を眺めている。

 林檎のような赤い髪をなでつけ、腰に帯剣。

 とても絵になる光景に思わず見惚みとれてしまった。足を止めたクレストファの背に、頭突きしてしまった。美衣歌をクレストファが素早く背に隠した。

「戻りましょう」

 焦りの滲んだ小声で囁かれて、庭を眺めている人物が誰か察する。

 来た道を引き返しかけたところで、男性がこちらを振り返った。

 鼻が高く、きりっと細い眉。新緑に似た瞳が徐々に見開かれ、こちらを凝視してきた。

「やあ、クレストファ殿?」

 見つかってしまった。

 クレストファが頭を下げる。

「お久しぶりです。フィディル殿下」

 城に働く者にしては豪奢な飾りのある上着に、美衣歌は足を止めた。男性の傍に従者が一人控えている。

「主人に内密で、こんな昼間から密事とは隅に置けないな」

 美衣歌は失礼があってはならないと、クレストファの背から出て、スカートの両端を持ち上げて腰を落とす。

 なんと言えばいいのだろう。違うかもしれない。けれど、なぜか美衣歌の中で確信めいたものがあった。

 ――彼が帝国の第一皇子だと。

 青年は目を瞬かせ、歩いてくる。

 薄青い上着に施された刺繍は間違いなく帝国の紋章だった。王冠と、並列して一本の剣が描かれている。兵力が絶大に強い帝国らしい紋章だ。軍事力、経済力どれをとってもカヴァロン帝国よりウィステラ皇国がまさる要素はない。

 美衣歌がゆっくりと顔を上げるにつれて、彼の目は驚愕に見開かれていく。

 確信した。間違いようがない。彼が帝国第一皇子。セレーナの婚約者だ。

「ス、ティア? 本当に?」

「お、お久しぶりです。フィ、ディル殿下」

 戸惑いながら、挨拶をした。

 内心、全く別人だとバレてしまわないかヒヤヒヤする。

 アルフォンがいれば、あしらってくれるのにいない時に、会いたくなかった。

 内心を巧妙に隠して、貼り付けた笑顔を向けた。

 スティラーアにとっては生国しょうごくの皇子。上品な笑みというものをファリー夫人から教わったばかりでよかった。

「本当に、スティアだ。……ああ、すごく会いたかったよ、君に」

 セレーナが先日言うように、美衣歌はスティラーアに外見とても似ているらしい。皇子は丸くした目を、ゆっくりと細め、微笑んだ。まるで愛しい人に出会えたかのように、恭しく美衣歌の右手をとる。手の甲にするかと思われたキスは、くるりと素早く返された掌に口付けられる。

「!」

 その意味に美衣歌の背中が凍り付いた。

 魔法が使え、容姿の美しいスティラーアと幼少の頃、仲が良かった人。スティラーアが留学することで交流は無くなった、と聞いている。

 離されるかにみえた手は、やんわりと握られて、引かれた。足元をふらつかせた美衣歌が、フィディルの胸にぽすんとおさまる。

「――すみません!」

 一瞬なにが起きたのか判らなくなった。

 見上げると、フィディルの目とかち合って慌てる。

「スティア、二人で久しぶりにゆっくりと話をしたい。少し時間はある?」

 腕の中に収まった美衣歌が逃げ出す前に、腰に手を回して逃げられなくされた。

 帝国の皇子相手に、クレストファはなにも出来ない。そこを逆手に取られた。クレストファでは太刀打ちできない。アルフォンがこの場にいれば、美衣歌とフィディルは適切な距離が保てていたかもしれない。

「フィディル殿下。アルフォンさまがスティラーアさまをお待ちですので、お手を離していただけませんでしょうか?」

 フィディルから離れられる唯一の助け船を、クレストファがしてくれた。フィディルの腕の中にいる女性が、フィディルが昔から知る“スティラーア“と別人だと知られてはならない。

「フィディルさま。申し訳ないのですが、わたくし、殿下をお待たせしていますので――」

 腕をすり抜けようと、身体をひねらせたが有無を言わせず、再び抱き寄せられてしまう。やっと捕まえた獲物を放しはしないといわんばかりに。

「少しだけです。そんなにお時間は取らせません。よろしいですよね? クレストファ殿」

 有無を言わさぬ強い眼差しは、クレストファの開いた口から、是以外は聞かないと暗に言っていた。

 美衣歌の手を離すそぶりのない皇子に、クレストファは「はい」と答える以外の言葉が出なかった。

「君たちはそこで。すぐ戻る」

 中庭に降り立ち、フィディルを護衛している男二人に、これ以上近づくなと、言った。護衛をしている以上、対象者から離れることは許されない彼らは慌て始めた。

「王宮内といえ、帝国の皇子になにかあっては困ります!」

 客人といえ相手は大帝国の皇子。王宮内の庭園ほど、油断ならない場所はない。目を離した隙を狙われてはかなわない。

「仕方ない。会話が聞こえない距離で同行を許そう。行こう、スティア」

 美衣歌の手を流れるような動作で腕にかけさせ、中庭へ出た。

 フィディルに先導され、引かれるように中庭を歩く。遊歩道の両脇を咲き誇る花々が彩り、舗装された中庭の道をゆっくりと歩いて行く。

 足を止めたフィディルに合わせて美衣歌の足が止まる。美衣歌の進路を塞ぐようにして、フィディルが前に立った。

「スティア」

 甘い声音に、躊躇とまどいながら、顔をあげると、熱っぽい瞳でフィディルが美衣歌を見下ろしていた。いくら鈍感な美衣歌でもわかる。彼はスティラーアに片恋をしている。いくら帝国の皇子とはいえ、皇国の皇子の婚約者にこの態度は不味い。

 なんとか彼から逃げ出せれないかと模索している間に、フィディルは美衣歌の髪を一房取った。偽物の髪は本物と触感が微妙に違う。さすがにばれてしまう。なんと言い訳をすればいいのか。思考回路を全力でフル回転させても、頭が混乱していくばかりでなにも出てこない。

 フィディルは髪質の違いに気がつかないまま、その髪へ唇をつけた。そしてくしゃりと握りしめる。

 あまり引っ張られてはかつらが脱げてしまう。

 髪質の違いに気がつかれたのだろうか。

「な、なにをなさって」

 フィディルは握りしめた髪を離した。髪が鬘だと気がついていない。

「覚えている?」

「なにを、でしょうか?」

「昔、俺の部屋で約束をしたじゃないか。留学が終わったら……」

 さらにまずいことになった。

 美衣歌が知らないスティラーアとした約束は判らない。なんとか切り抜けなければ。地雷を踏んではならない。

 さらりと水に流すように、逸らさないと。冷や汗がこめかみをつたう。

「そうでしたかしら?」

「とぼけないでくれ。いつもそうだった。いつかは俺のものになるからと、将来は君が隣で笑っていてくれると思っていたから、留学を許した。それなのに、君は無事帰国して、あとは俺と婚約する手筈になる、というところで男と出奔した、と聞かされて――」

 フィディルが美衣歌との距離をつめてきた。両腕を掴まれ、逃げられなくなる。

「どれだけ辛かったか、判るか? 俺の相手は君以外考えられない。俺の相手は君だけで、君の相手は俺だけだ。二年前、誰が俺の大切な婚約者を連れ去っていったんだ! と、どれだけ憤り、絶望し、君に恋焦がれたか! 半年、一年。どれだけ待っても、君は現れなかった。俺は帝国の未来を背負わなければならない。勘当され帰ってこない人をいつまでも追いかけるなと、父に喝を入れられ、あきらめなければならなかった。ウィステラ皇国の皇女の縁談を受け入れ、こちらへ来てみれば……王が先日アルフォン皇子が婚約したと聞かされた。相手の名前を聞かされて驚愕した。耳を疑った。聞き間違いだと、納得させようとしたが、君は俺の前に姿を現した。薬指に、皇子の相手だという証拠を嵌めて、昔と変わらない姿で! 貴女と結婚する予定だったのは俺だ! 貴女の相手は俺以外いない! そうだろう? スティア、答えてくれ!!」

 踏まないように、話題から逃げたこと自体も、彼の地雷だったようだ。わめきたてられ、萎縮した美衣歌は彼の腕の中にきつく閉じ込められてしまった。

 逃げ道を奪う、閉じ込めかた。身動ぎすら許さない強い力。

 どこにも行かせないと、強く抱きしめられた。隙間に手を入れられたのは、日頃ケイルスがからかわれていたおかげかもしれない。

 例えば、ダンスの合間だったり、ファリー夫人の講義の後、朝食の後に時間をみつけ、アルフォンがいない隙を狙ってやってくる。それは抱擁だったり、歯の浮くセリフだったり、やり方は様々で慣れない美衣歌は頰を染めるばかりだった。

(時間をみつけてはからかってくれたおかげってのも、なんだかイヤだけど)

 多少なりとも免疫がついていたらしい。この世界へ来たばかりの美衣歌だったら、どうしていいかわからずにカチコチに固くなっているばかりで身動き出来なくなっていた。

「君は私のだ。他の誰にもやらない」

「フィディルさまのお相手は、セレーナさまです」

「そんなことを気にしていたのか。彼女とは破談にする。まだ、婚約候補だ。婚約していない。俺は君が戻ってきてくれればそれでいい」

 フィディルは耳元で囁いた。

 逃げようともがいても、強い力は簡単に緩まない。

 それどころか、さらに強い力で抱きしめられて、苦しくなる。

「それはいけません!」

 セレーナはとても嬉しそうだった。フィディルと婚約が決まり、カヴァロン帝国へ嫁ぐことを心待ちにしている。彼女を裏切るのは良くない。

「――もう、フィルと呼んでくれないのか」

 スティラーアは彼のことを親しみを込めて、愛称で呼んでいたらしい。

 フィル、と呼んでいたのは美衣歌じゃない。

「呼べません。――は、放して」

「関係ない。君を連れ帰れるのなら、国家権力で破談にいくらでもしてみせる。私が君を望めば、簡単な話だ。軍事力、財力すべて、こちらよりも勝っているのは私の国。ちっぽけな皇国がこばめばどうなるか――解るだろう? スティア、一緒に帝国へ帰ろう。そして私の妃に……」

(この人は何を言っているの)

 セレーナへ婚約の申し出をしたのはフィディルだと、セレーナ自身から聞いている。結婚したいと言った本人が、「本当は君じゃないから、破棄する」と婚約をしたいと言った相手に、あまりにも失礼すぎる。

 美衣歌の抵抗が弱まった隙をついて、フィディルは屈んできた。

 美衣歌の顎を掴む。

「……な、にをなさ……っ!」

 支えられた顎の下から、手が離れない。背中の腕に力がはいった。

 彼の顔が近づいてくる。

 逃げられない。

 ――焦りを覚えたその刹那。

「フィディル殿下。その手を離して頂きましょうか?」

 ぴたりと近づいて来た顔が止まった。振り向くと、息を切らせたアルフォンが立っていた。

 美衣歌を抱き締めるフィディルの胸に、両手をつき、美衣歌の顎からフィディルの手が離れた。

「私の、大切な人との戯れを邪魔するのが、この国のやり方、ですか」

 二人の姿に一瞬目を見張り、すがめられた。

 瞳に恐ろしい怒気がはらむ。

「フィディル殿、あなたの相手は彼女ではない。私の婚約者を放していただこうか?」

 アルフォンが一歩詰め寄った。相手は帝国の皇子。逆鱗に触れることは避けなくてはいけない。

「アルフォン殿下」

 これからだというのに。フィディルは忌々しげに、アルフォンの名を吐き捨てた。

「彼女は私の、婚約相手です」

 少々強めに言葉を吐いた。ここは帝国の皇子。それだけでは臆しない。

「婚約しただけで、貴方あなたのものでないのでは? すぐにでも破棄させる力を、私は持っている」

 背中に両腕が回されて、腕の力がさらに強くなる。美衣歌は呼吸がしづらくなった。

 アルフォンがフィディルを挑発すると、フィディルが自分のものだと誇示するように、腕に力が入る。

(くる、しっ)

 苦しさから逃れようともがく。美衣歌の背に回った腕は、ビクともしない。

 このまま、離されなかったら……恐怖に震えた。


 腰に回ったフィディルの腕をアルフォンが強引に引き剥がした。あまりの強さにフィディルが顔を歪める。

「勘違いされていませんか? 婚約している時点で、スティアはもう私のものですよ。破棄する予定は一切ない」

「勘違いなど!」

「私は、フィディル殿下がセレーナ様へ結婚の申し込みに来訪されたと伺っています。セレーナ様を相手にとお望みであれば、私の婚約者に用はありませんよね?」

 フィディルが悔しさに歯をくいしばる。

「用は、ありますよ。我が国の出身者に会ってはならない理由を教えてもらいたいね」

 無理に絞り出した、最もらしい言い訳にアルフォンは鼻で嗤った。

「会ってはならない理由はないが、二人きりはよろしくない。殿下は彼女の親兄妹ではないのですから、会われる間は、彼女の侍女か私の従者をそばに置いていただかないと。ここは貴方の国でない」

 熱くなるフィディルに対して、冷ややかに言い放った。

 アルフォンの言ったことは正しい。

 ファリー夫人より、教えられたこの国の常識の一つ。

 スティラーアに会えた喜びで、ここが何処であるのかを見失っていたフィディルの腕の力が僅かに緩んだ。

 美衣歌はフィディルの意識が、一瞬逸れた隙を逃さなかった。フィディルの胸を強く押すと、アルフォンの力添えもあって、美衣歌はフィディルからようやく離れられた。よろける美衣歌を、アルフォンが素早く背に庇う。

 やっと離れられたと、安心したくても出来ない。

 見上げるとアルフォンの背でフィディルの姿が見えない。フィディルの手が再び美衣歌へ伸びてきたら、と思うと恐怖でアルフォンの服を強く掴んだ。

「彼女の相手は私です。婚約相手のセレーナさまとお幸せに」

 フィディルに背を向け、美衣歌を素早く横抱きにする。

 フィディルがアルフォンから美衣歌を奪いに来るかもしれない。安心できなくて、離して欲しくなくて首に腕を回した。頭をアルフォンの胸に押し付ける。

 フィディルはアルフォンから美衣歌を奪い取りに来なかった。

 アルフォンはフィディルに警戒しながら、足早に中庭を後にした。

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