8:出奔した当時

 アルフォンに抱き抱えられ、遠ざかっていくフィディルの姿が、肩越しに見えなくなり、やっと安堵できた。

 フィディルのスティラーアに対する異常な執着。

 肌につき刺さる視線。

 頭から振り払うようにして、目を閉じると、思い出してしまう。

 思い出したくなくて、アルフォンの首へ無意識に縋った。


 庭の通路から城の廊下に差しかかった。

 城内に入る手前で下ろしてくれるだろうと、回した腕を首から離したのに、アルフォンは止まるどころか、そのまま廊下へ戻って行ってしまう。歩く速度は依然変わらず、突如現れた皇子に談笑していた侍女や、騎士が慌てて廊下の端へ寄った。皇子一人ではなく、彼の腕に抱かれる美衣歌に気が付き目を丸くしていく。

 眉間に皺を寄せ、なにやら怒の空気を纏って歩く皇子に慌てて頭を下げ、通り過ぎていくとその後ろ姿をまじまじと凝視して、顔を見合わせる。その姿を、アルフォンの肩越しに何度も見た。

(やめてー!)

 顔見知りでない侍女から微笑ましく見守られる姿に、羞恥で耐えられなくなってくる。

 この羞恥から逃げるには、アルフォンに降ろしてもらう以外ない。

 こういったたぐいのものに全く慣れていなくて、すでに限界だった。頬を紅潮させながら、小さく訴えてみる。

「あの、周囲の視線に耐えられないので、降ろして下さい」

 アルフォンの胸を右手で押して、降ろしてと意思表示をしてみる。

 切実に訴えれば、降ろしてもらえるどころか、背中と膝を支える腕に力が入り、アルフォンの胸に頬を押し付けるような体制になってしまった。

 それがなんだか嬉しいような、心踊るような感覚は、気のせい。気のせいだと思わないといけない。

 歓喜する心と、フィディルの執着な瞳に震える身体。

 どうしたらいいのか判らなくなる。

「ミイカ、顔をあげろ」

 アルフォンが足を止め、美衣歌の名を呼んだ。呆れの混じった声音に、ゆっくりと顔を上げる。

 不安に揺れる瞳と、紺碧色の瞳が見つめ合う。

「……っ!」

 アルフォンが口の端を柔らかく綻ばせ、呆れたように笑った。

「そんな顔で降ろせと言われても聞けるか」

 叫びだしそうになる声を、両手で口を押さえてなんとか飲み込む。

 なんで、どうして。

 判らない。

 そんな顔って、どんな顔。

「手を首に回していろ。そうしたら見なくてすむだろ」

 城仕えの者たちの好奇心な視線から逃れられるのなら、と両手を再びアルフォンの首に回した。

 人の目は見えなくなったけれど、好奇の目線はどうしたって感じてしまう。

 なぜか、顔の火照りは増してしまった。




 執務室でようやく降ろしてもらうと、浮遊感で足元がふらついた。倒れはしなかった。美衣歌の背中を支えていたアルフォンの腕は、まだ離れていなかったおかげで、転びはしなかったけれど、支えを失えば確実に、尻餅をつく。

 恥ずかしい醜態は晒せないと、アルフォンの腕にすがりついた。

「大丈夫か?」

「まだ……あ、いえ、平気です」

 足がおぼつかない感覚はあるが、いつまでも縋ってはいけない。

 アルフォンが使う執務机は書類と本が数冊散乱しているのを見てしまえばなおさらに。

 クレストファに呼ばれ、仕事途中に駆けつけてくれたのが申し訳ない。書類の上に黒インクが大小様々な大きさの円がシミを作っている。

 あの紙は書き直さなければならない。

 フィディルに捕まらなければ、上手くあしらっていれば書類を書き直させるようなことはなかった。

 これ以上、自分のことでアルフォンの仕事の邪魔はできない。

「ク、クレアさん」

 クレストファへ助けを求めると、機嫌を悪くしたアルフォンの手に導かれる。

「座ってろ」

 そのままソファへ誘導されて、腰を下ろした。

 アルフォンは執務机に向かう。

 机に転がされたインクペンを退かし、美衣歌がみつけた紙を持ち上げる。

 小さく嘆息し、引き出しから新しい紙を出して、書き始めた。

「ミイカさま、ハーブティです」

 テーブルにクッキーと共にティーカップが置かれた。お礼を言って一口飲む。ハーブの独特な匂いに、心がゆっくりと落ち着いていく。

 ティーを飲んでしまい、ソファから立ち上がってみた。浮遊感はもう感じない。

「何処へ行く」

「部屋に戻ります。ここだとお邪魔になっちゃいますよね」

 執務机に背を向けると、腕を掴まれた。振り替えると、仕事を再開したアルフォンが更に不機嫌になって立っていた。

 アルフォンを気遣ったのに、なぜだ。

「出ていけばまた捕まるだろ」

 アルフォンの自室はそんなに遠くない。

 クレストファが部屋に戻るまで付き従ってくれれば、フィディルがいるかもしれない中庭は通らずに、王族が住まう区画へ戻れる。帝国の皇子は入れない場所になるから、先ほどのようなことにならない、のだが。

「まっすぐ部屋に戻りますから」

 問題はなにもない。

 断ると、アルフォンの顔がみるみる不機嫌になっていく。

「いいから、座れ」

 座る以外に許さない一方的な命令に、美衣歌はしぶった。部屋に戻ってやらなければならないことがある。ファリー夫人に教えられたところを、もう一度読み直さないといけない。

「ミイカさまが出ていかれるとアルフォンさまのお仕事に手がつかなくなります。アルフォンさまの為に、どうかこちらにいてさしあげてください」

「わかり、ました」

 クレストファが笑顔で言うとなぜだか、不思議と従ってしまう。ソファに座りなおすと、手にしていた紙に目を通し直しだす。

 アルフォンの表情が徐々に険しくなっていった。

 なにか難しいことでも書いてあったのだろうか。

 アルフォンは、目を通した紙を執務机に戻し、美衣歌の隣へ座った。ぴったりと寄り添う。

 いつも、そこに座っているような自然な所作に驚き、動揺した。

 美衣歌の前に、紅茶の入ったティーカップが、その左隣に新たにティーカップが置かれた。

「クレストファ、こいつの侍女に伝えてこい」

「わかりました、殿下」

 クレストファが執務室を出ていく。部屋の外で人の声がすると、暫くして静かになる。

「あいつになにを言われた」

 二人だけになるとアルフォンから尋ねられた。クレストファから事情はあまり聞かされずに、中庭まで走ってきたのかもしれない。

 アルフォンはティーカップに口をつけ、一呼吸つく。

「お前、泣きそうな顔してた」

(そんな顔した!?)

 両頬を手でぐにぐにと上下に動かす。

 フィディルに、迫られ逃げられなかった。

 アルフォンが来なければ、彼を止めてくれていなかったらどうなっていたか。

 真剣な眼差しの中に、憤りが混じっていた。

 何事もなく穏便に話が終わるような雰囲気は到底なかった。

「私は、あの人が知ってるスティラーア様じゃないのに」

 美衣歌は座ると少しだけ高いアルフォンを見上げる。アルフォンが先を促した。

「結婚するのは、俺だって言ってました」

 スティラーアが家を出たと知り、すぐに連れ戻されるだろうと思っていたのだろう。それが一年以上経ったのに、いい知らせは来ない。一緒に家を出た相手に怒りを向けるほど。相手は誰だと迫られたら答えられなかった。本人じゃない。知らない。

「スティラーアさまは男の人と家を出たって、本当なんですか」

 美衣歌は婚約式の後、ルスメイア家当主ベルティネに会った。ベルティネはフィリアルへスティラーアをはやく捜し出せと強く言っていた。

 その時点で、彼女は家にいないと察しがついていた。なにか事情があり、家を出たのだろうと。

「そうだ。もう出てから二年になる。当時、世話係をしていた男と夜に家を出たきり、消息不明。ルスメイアの者たちが魔法を駆使して捜しているが見つかってない」

 魔法で捜し人まで見つけられるなんて。魔法は恐ろしい。身震いする。

 魔法を使えばすぐに見つかってしまうのか。

「どうして見つけられないんですか?」

「彼女がこの城に、母から魔法を学びに滞在していたことがある。ちょうどその頃、どんな魔法も効かなくする魔法をスティラーアさまに内密で、母が作り出した。その魔法がかけられた紙を、彼女は国へ帰るときにこっそり持ち帰ったらしい。それを持って家から出て行ったようで、見つからないそうだ」

「最強ですね」

 捜索魔法をはじいてしまえば、捕まらない。どこへ逃げて行っても、魔法が効く限り見つけられはしない。そんな強い魔法をフィリアルは慎重に隠していただろう。よく見つからずに持ち逃げできたものだ。

「ちょうど二年前、スティラーアさまと婚約の打診が母からあった。帝国の貴族とはいえ、母の兄の娘。血の繋がりが近すぎると断った。その直後だ、家を出たのが」

 貴族の相手は貴族と暗に決められている。厳密な取り決めはないが、近い位の貴族へ嫁いでいく。

 世話係の男性と心通わせていたのなら、その人と一緒になるために家を飛び出した。

 フィディルはスティラーアの婚約相手は自分だと、自分しかいないと決めていた。

 突如姿を消した、二年後。皇国の皇子の婚約者として王宮で会ってしまった。偽物のスティラーアと。

 偽物だけれど、彼には本物にしか見えなかった。

「フィディルさまは留学前に約束があったと言っていました」

「約束か。聞いても教えてはくれないだろうな」

 美衣歌の知らない約束を、そうだと言えずはぐらかしたら彼の逆鱗に触れてしまった。

 逆に聞けば、覚えていないのかと迫ってきそうだ。

 ティーカップを持ち上げると、紅茶はもう冷めていた。

「お前があいつと会うのを極力避けたい。――ここにいろ」

 今日はもう廊下で出会うようなことしたくないが、アルフォンの仕事の邪魔もしたくない。

「迷惑じゃないですか?」

「邪魔にならない。クレアが言わなかったか? この奥を使えと」

 アルフォンが執務室から続く隣のドアをしゃくった。

 美衣歌は思わず「あ、そういえば」と思い出す。すっかり忘れていた。

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