第五章 別れの時③

「あ」

「……あ」

 思わず声が出てしまった。奏太と別れて家に帰る途中、道の向かいから来る花桜梨を見つけてしまった。コンビニからの帰り道だろうか。ビニール袋を下げた彼女は目を見張り、眉を歪めて顔を逸らす。

「花桜梨」

 自然に声をかけた。今声をかけないと、後から後悔をしてしまう気がしたから。もう一生会えないような、会えずにいなくなってしまうようなそんな予感。

「な、なに」

「話があるのだけど、今良い?」

「……うん」

 美奈子さんの家から少し行ったところにある公園。たまと出会ったその公園のベンチに僕たちは隣り合って座った。

 お互い沈黙したままだ。僕は何から言うべきか迷っている。

「空也。話ってなぁに?」

「あの」

 沈黙を打ち破る静かな声に、僕は顔を上げる。

「奏太に聞いたんだ」

「尼野君?」

「花桜梨……変な夢、みてない?」

 花桜梨の顔に戸惑いが浮かぶ。喫茶店で奏太から聞いた話を思いだし、僕は言葉を続けた。

「真っ暗闇の中に一人でいる夢」

「え」

「よかったら、その夢について、詳しく教えてほしい」

「どうして?」

「花桜梨のことが気になるから」

 また沈黙が落ちる。

 彼女はいつ帰ってくるだろうか。時間はどれだけ残されているのだろうか。少しでも花桜梨と一緒にいる時間が欲しかった。その時間に浸っておれば、現実を少しの間忘れていることができる。

 僕は前を見ていた。花桜梨が今どのような表情をしているのかわからない。顔を横にすれば見えるのだろう。でもその顔を見続けることなんてできはしない。決心が揺らいでしまう。

 息を吸う音の後、耳に優しく花桜梨の声が浸透してきた。

「真っ暗闇。本当に暗くじめじめとして嫌になるぐらい息苦しい、黒い暗闇。私はいつもそこに立っているの。自分の恰好のことはわからない。私が見ている夢だから。自分の姿までは見えないのね。でもその夢の中、私はいつも誰かに首を絞められているような息苦しさを感じているの。誰かわからない黒い手が私を締め付けてくるような、ぼやけて本当のことはわからないけど、首が締め付けられるような感覚の後に、暗闇が手を伸ばして私を押しつぶそうとするかのように群がってくる。私は抵抗するわ。壊して投げ捨てて、何とか逃れようとするの。けれどその闇は掃うことができない。じめじめと私の心の中まで浸透してきて、そこでいつも目が覚める。加呼吸をしながらベッドの上で目が覚めるの。そして思い出しちゃう」

「……」

「パパとママが死んだときのこと」

 胸が高鳴った。

 そのときだ。きっとそのとき花桜梨は、【死神】と。

 小学五年生の時。花桜梨は事故に合い両親を失くしている。そのときもう花桜梨は助かる見込みがなく、そこを【死神】に付け込まれたのだろう。そして花桜梨の意識が勝った。だから花桜梨はまだ人間として生きている。歪な体で、『亡魂』を無意識に食べながら生きてきたのだ。だけど僕と再会してしまった。昔の記憶が失われていくのに恐怖を感じ、花桜梨は生きた人間の魂まで欲し始めたのだろう。【死神】はもう五年は花桜梨の中で眠っている――。

「あの時。デパートからの帰り道、車に乗っているとね、どんっという音がしたの。気づいたら私は車の外にいた。体中痛くって動かなくって、目の前にある赤いものを見て息が止まるかと思ったの。さっきまで楽しく話していた人が、赤い塊になっていたから。体中から血を流して、パパとママは目を見開いたまま動かなかった。血だらけになったその手は、もう私を撫でたり抱きしめてくれなかったのッ。そのときね、私思ったんだ。ああ、私も死ぬんだぁ。って。意識がね、徐々に遠くなって行くの。暗く冷たくなっていく。次目を覚めたときどこにいるんだろうって、そう思いながら目を閉じで、次に開けるとそこには白い天井があった。病院で目が覚めたの。私だけ生き残った」

 花桜梨の声が悲しく歪んでいく。もしかしたら涙を流しているのかもしれない。

 僕は酷く胸を締め付けられるような思いがした。

 当事者じゃないからわからない。死ぬ時の恐怖を、自分以外の家族死んだのに、自分だけ生き残った恐怖を。

 花桜梨はそれを味わっている。僕は厳しい選択をしてしまったのだろうか。花桜梨にこれまで以上の苦しみを与えてしまうかもしれないのに。でも決めたのだから、それから目を逸らしたら、たまは許さないだろう。

「ねぇ、空也」

「花桜梨……」

「あたし、生きていてよかったのかなぁ」

 それはもう鳴き声だった。ずずっと鼻をすする音がする。

 「当たり前だろ」と何も考えずに声をかけられる性格がよかった。弱虫な僕は何も言うことができない。【死神】のことがあるから。花桜梨の命の糧を知っているだけに、言葉に詰まってしまう。

 でも僕は花桜梨に再会できて嬉しかったんだ。

「花桜梨」

「くぅやぁ……」

「花桜梨は何も悪くないよ。僕は花桜梨と、また会って過ごすことができて、嬉しかったんだから。たとえ――」

「くぅや?」

「それが幻だったとしても」

 【死神】は本当に眠っているのだろうか。本当はもうすでに、起きているのではないか?

「落ち着いたらでいいのだけど聞いて欲しい」

「なにを?」

 息の詰まった、不安げな声だ。胸が締め付けられる。

「大切な話があるんだ」

 僕はこれから花桜梨をまた傷つけてしまうかもしれない。これまで以上の苦痛を与えてしまう。けれどこれは話さないといけないことなんだ。もしかしたら僕は悪魔なのかもしれない。

 今の花桜梨が本当の彼女か分からない。たまにだったら分かるかもしれないが、ただ幽霊を見えるだけの僕には見定めることはできなかった。だけど確かに感じ取る。彼女の顔を見なくっても、声を聞いただけでも、違和感を覚えてしまう。彼女と再会した日から、昔の彼女と明確に違うところを、今、僕は気づいたのだから。

 まだ不安定なだけかもしれない。本当の彼女もそこにいるかもしれない。それでも僕には今の彼女が本当には思えなかった。

 隣を見る。

「君は、いったい誰?」

 花桜梨の目が開かれる。茶色の瞳の下が白く光った気がした。

「どうしたの、くーや?」

 昔の呼び方をしないで欲しい。

「君は、誰?」

「おかしいよ、くーや」

「お願い。ちゃんと答えて欲しい。君は誰なんだ?」

「……いみわっかんない」

 雰囲気がガラリと音をたてて変わった。口調が、仕草が、眼差しが、あの頃の彼女とは明確に違うことを告げている。

 涙を流していたはずの花桜梨は仏頂面になると足を組む。

「いつ気づいた分け? あたしのことに」

「……今」

 最初から違和感はあった。けれど気づいたのは今だ。彼女の一人称が明確に違うことに、僕はついさっき気づいたのだ。

 幼い頃の花桜梨の一人称は、「わたし」だったのだから……。

「で? どうするの? 幽霊が見えるだけのただの人間のくせに」

 少女が鼻を鳴らす。口元は嘲笑うかのように歪められていた。

 お前には何もできないだろう?

 幻聴まで聞こえてくる。耳をふさぎたい衝動を何とか抑える。

 確かに花桜梨に対しては何もできない。けど、今の彼女は。

「【死神】……は、倒さないと」

「力もないのにどうするんだよ」

「確かに僕には何も力がないかもしれない。けれど、彼女がいる」

「は? 何言ってんのかいみわっかんないんですけどー。弱くって泣き虫な、いじめられっこのくーや君?」

 嫌味ったらしく言う言葉に明らかに悪意が含まれているが、僕は歯をくいしばって耐える。

 もしかしたら【死神】は、花桜梨の中にいて心変わりをしていたのかもしれない、とその考えが甘いと、告げられているかのようだ。

 たまがいなくなってからまだ二日間しかたっていない。いつ帰ってくるか。そんなの僕にわからない。

 だけど予感があった。

 自分勝手な望みだが、たまはきっともうすぐ帰ってくるだろうと。

 花桜梨の声で、口調で、目の前の彼女は下品な大笑いをした。

「ねぇー、どうするの? 私を倒すんでしょ? くーやが、自ら手を下してくれるんでしょ? もう、苦しいのは嫌だよ。……でも、【死神】って、どうやって殺すの?」

 そう言って涙を流して見せる。それが嘘だと知っていても胸が苦しくなった。

「必ず帰ってくる」

 早く帰ってきて、たま。

「彼女って、花桜梨のこと? 私ならここにいるじゃない。どうしたの、くーや? あたしじゃダメなの?」

 ああ。彼女の顔で、声で、そんなこと言わないで欲しい。茶色い瞳が、艶めく唇に目が奪われてしまう。ニセモノだって理性で分かっていても、花桜梨を守らなくちゃと、僕の心の奥底に渦巻いている感情が溢れてきそうだ。

「空也」

 きっと幻聴だろう。たまの声が聞こえてきた気がした。

「空也」

 いや、これは幻聴じゃない。ほんの近くで。前から、たまの声が聞こえてくる。

 顔を上げる。そこには豪華な黒い着物を着た、神前たまがいた。

「はぁ? あんた誰よ? おかしな恰好をして」

 【死神】が警戒心をあらわに立ち上がった。自分より背の低いたまを見下ろして、腕を組む。

 たまはただ静かに僕を見ていた。僕は縋るような声を出す。掠れた声に、たまは薄く微笑み答えてくれる。

「たま」

「帰ってきたぞ、空也」

「うん。お帰り。たま。ずっと待ってた」

「……たった二日のことじゃ」

「でもたまがいなかったから、寂しくって」

「……愚か者。男ならもっとシャキッとしろ」

 困ったような顔をするたま。頬がほんのりと赤くなっているのを見て、僕は嬉しくなる。

 たまが帰ってきた。

 それだけが今の僕の救いだ。

 たまに近寄ろうと足を踏み出すと、腕を掴まれた。泣きそうな顔で【死神】が上目遣いで……いや、これは花桜梨?

「空也。行かないで。一人にしないでッ。助けてよ」

「君は」

 誰なんだ。花桜梨か。花桜梨なのか。それとも。

「その女の声に耳を貸すな。ただの芝居にも気がつかぬのか」

 たまの声に我に返る。僕は【死神】の手を振り払った。

 【死神】が花桜梨の顔を歪めて怒りを露わにする。

「はぁ。ふざけるんじゃないわよ。あんたさ、この女のこと好きなんでしょ? なのになんで別の女の言葉を信じるの?」

「それは、僕が好きなのは花桜梨だから。君じゃない」

 【死神】が目を剥く。忌々しそうに歯を打ち鳴らし、茶色い瞳で睨んできた。それを僕は受け止める。

「あんたなんて、弱くって、馬鹿で、幽霊が見える気持ち悪い奴で、泣き虫で、いじめられっ子のくせにっ! 花桜梨だって、いつもずっとそう思ってたんだよ!」

 そうかもしれない。花桜梨あの頃の僕をどう思っていたのか、もう知ることはできないけれど、僕は花桜梨に強いところを見せられなかったのだから。いつも彼女に守られていた。

 僕の左手に温もりが宿る。優しく包み込むようにたまが僕の手を握っていた。いつのまにか彼女は僕の隣にいる。たまは真剣な瞳で【死神】を睨む。

「空也は、優しくって、強い。何故ならずっといじめに耐えていたからじゃ。長い間、空也はいじめられていても仕返そうとは思わなかっただろう? それが弱いとは言わぬ。優しくって強いから、耐えられたのじゃ。そして空也は妾と同じように幽霊を見ることができる。それは誇れることだ!」

 誇り。たまが言った言葉に、目頭の奥がジンと熱くなる。

「ばっかじゃないの?」

 【死神】は笑う。今までその笑い声が不愉快で、悲しかったのに、何とも思わなかった。

「空也」

 たまが僕を見ていた。

「今から妾はあの女を成仏させるぞ」

 頷きそうになり、僕は首を振った。僕は決めていたから。【死神】は、絶対に僕の手で成仏させるって。

「僕がやる」

 たまに聞こえるように、はっきりと僕は宣言した。

 一瞬悲しそうな顔をした後、たまは無表情に戻り、懐から何かを取り出した。刀身が長く、柄の短い短刀だった。鞘から抜かれた刀身の先は人を刺すためだけに存在するかのように、鋭利に尖っている。たまが何かを呟いた後、刀身が淡い光を放ち始めた。

「この光は触れた魂を強制的に成仏させることができる。人間も【死神】も『亡魂』も関係なくな。今から五分後にこの光は消える。それまでにあの女の胸にこれを突き立てるんじゃ」

 そうすれば【死神】もお主の幼馴染も成仏することができる。

 短刀を受け取ると、確かな重みを感じて胸が熱くなる。

 だけど僕がやるんだ。僕がやらなくっちゃいけないんだ。【死神】を……花桜梨は必ず僕の手で。これは彼女への恩返しだ。あのとき僕を助けてくれたのに、なにも返せなかったから。今苦しんでいるであろう彼女を、ちゃんといるべきところに送ってあげないと。

 一歩踏み出した。【死神】が僕から離れる。

 彼女の茶色い瞳を見つめながら、僕はまた一歩足を踏み出す。

「花桜梨」

 彼女の名前を呼ぶ。【死神】は怯えたような顔で僕から離れて行く。

 僕はじっと茶色い瞳を見つめていた。

 彼女はまだそこにいるかもしれない。もしかしたら苦しめてしまうかもしれない。そんなこと嫌なはずなのに、僕は彼女の本当の思いを聞きたかった。これで最後なんだから。僕は本当に優柔不断だ。

 だけど少しだけでいい。別れの言葉だけでもいいたいんだ。

「花桜梨、聞こえてる」

「聞こえているわけないじゃない。馬鹿じゃないの?」

 【死神】が嘲笑するけれど、その顔は引きつっていた。逃さないように僕は徐々に間合いをつめて行く。

「僕は花桜梨のことが好きだった」

「あたしはあんたのことなんて大嫌い!」

 背後を見ないで後退しているため、【死神】は気づいてないのだろう。僕は彼女の背後に柵があることが見えていた。公園の隅に追い込んでいる形になる。

 もうすぐだ。もうすぐ近づける。そうしたら、この短刀を彼女の胸に……。

「嫌い。嫌い。大っ嫌い! あんたなんて弱虫で馬鹿で、死んじゃえばいいんだ!」

 彼女の顔と声で言われる言葉を僕の耳は受け止めなかった。だって花桜梨じゃないから。【死神】の言葉になんか耳を貸すわけないじゃないか。

 茶色い瞳を見つめ続ける。彼女に別れの挨拶をしないと。

「花桜梨」

「うるさい。あんたに名前を呼ばれたくなんかない!」

「あの時。花桜梨が僕を助けてくれた時から、ずっと大好きだったんだ」

「私はずーっと、あんたみたいなみっともない男なんて嫌いだったわ」

「だけど、ごめんね。僕は花桜梨が事故にあった後、会いに行けなかった。いきなりいなくなって、どこに行ったか分からなかったから、なんて言い訳にしかならないよね。あの時会いに行っていたらどうなっていたのかな。僕は君のことに気がつけたのかな……」

 問いにならない呟きは、彼女の耳に届いているのだろうか。花桜梨はまだそこにいるのだろうか。

 【死神】がとうとう公園を取り巻く柵に背を打ち付けた。怯えた顔を引きつらせて逃げ道を探すかのように辺りを見渡すが、逃げることは許さない。僕は【死神】との間合いを一気に詰めるため、大股で彼女の前に踏み出した。目の前に彼女の顔がある。花桜梨の顔が。茶色の瞳がやっときらりと光った気がした。

「くーや……」

 悲しそうな声が聞こえてくる。これは花桜梨の声だろうか。

 僕は彼女の目を見て、再度問いかける。

「花桜梨聞こえてる? 僕の声が」

「聞こえているよ……。くーやのこえ、聞こえてるッ、わけないジャンばっかじゃないの!」

「花桜梨。僕は今から君に苦しみを与えてしまう」

「嫌だッ……いいよ、大丈夫。私は受け入れッ無理だよ!」

「君はもう死んでいたんだね」

「ごめん、くーや。ごめんねごめんね……空也、あたしはッ。ごめん。ごめんね。ごめんなさい」

 蒼白な顔で怯え叫び散らしていた【死神】は、いつしか大人しくなっていた。彼女は茶色い瞳に涙を溜める。僕はそれを見て微笑んだ。

「花桜梨……さようなら」

 ずっと言えなかった言葉を。

「大好きだったよ」

 花桜梨は涙を溜めながら満面の笑みを浮かべた。大人しくなった白い影はただ泣き声を上げている。彼女はゆっくりと僕の腰に腕を伸ばした。冷たく暖かい体に包まれる。

「もう少しこうしていていい?」

「うん。いいよ」

「ごめんね、くーや」

「花桜梨が謝る必要ないよ。もっと早く気づいてあげれば」

「もう。くーやったら、また昔の話ばかり」

「ごめん」

「くーやは何も悪いことしてないじゃん。だからね、謝る必要なんてないんだよ?」

 彼女の唇が震えている。僕は忘れないようにそれを自分の目に焼き付ける。

 ああ。僕はなんでこんなことしているんだろう。これこそ後から後悔するかもしれない。

 僕は彼女の茶色い瞳を見続けた。キラキラと光るそれは幸せだと言っているようだ。

「花桜梨は、今、幸せ?」

「うん。とっても幸せ!」

「嘘」

「嘘じゃないよ? 私はね、くーやとこうしているのがとっても嬉しいの」

「……」

「だって、私もくーやのこと、ずっと好きだったから」

 心臓が止まるかと思った。嬉しい言葉の筈なのに、それは残酷に僕の心を抉る。

「かお、り……」

「ねぇ、空也。最後にあたしとキスしてよ」

 これは大人しくしていたはずの【死神】だ。僕はわかっていたが、彼女の震える唇に惹きつけられてしまう。艶めく桜色の唇は、微かに震えている。

 【死神】の言葉に惑わされてはいけない。けれど、これは花桜梨との最後の時なのだ。だったらッ。

「花桜梨」

 ゆっくりと少しずつ、僕は自分の顔を彼女の顔に近づけていく。

 もうすぐ彼女と僕の唇が触れ合うかと思ったその時、掌が差し出された。花桜梨の手だ。

「くーや、ダメだよ」

「なんで。花桜梨も僕のこと好きだったんでしょ?」

「……好きだったよ。けど、ダメだよ……キスをしたら、くーやを縛りつけちゃう」

「……」

「私はもう死んでいるから。これからずっと一緒にいてあげられない」

「それでもッ」

「もう、バカ。くーやは、今、大切な人いるんでしょ?」

「大切な人?」

「くーやがずっと待っていたように、くーやのことを待ってくれる人がいるでしょ?」

「待ってくれる人なんて」

「今、くーやは、その人のことが好きなんじゃないの?」 

 誰なのか、考えなくても分かった。

 僕は背後を振り返りたい衝動をこらえる。

 今は花桜梨との別れが先決だ。ここを乗り越えないと、僕は別の道に進めない。

 花桜梨は息が乱れて、もう目の焦点があっていなかった。もともと艶のあった肌がだんだん白くなっていく。さっきまで桜色だった唇は青白くなっていた。その口がゆっくりと最後の言葉を告げる。

「ばいばい、くーや」

 今まで見たことがないような、華やかで楽しそうな笑みだった。

 僕の体を包んでいた腕は力を失くし、ゆっくりと彼女の体が僕に倒れ込んでくる。

 彼女の胸には淡い光を放つ刀身が突き刺さっていた。

 淡い光は徐々に消えて行く。僕は、それを、ただ静かに眺めていた。

 空を見上げる。

 僕は頬に暖かいものが流れて行くのを感じながら、彼女に最後の言葉をかけるのだった。

「ばいばい、花桜梨」

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