第五章 別れの時②
土曜日の朝。目覚ましをかけるのを忘れてしまい、昼間にお腹の音と共に起床をする。
美奈子さんは仕事でいないだろう。僕はベッドから降りて、私服に着替えることなく寝間着のままリビングに向かって行く。
ポットに水を入れてスイッチを押し、お湯が沸くまでの間、買い置きしてあるカップ麺を用意した。
テレビをつける。どうやら昨日も犠牲者が出たらしい。僕は他人事のようにそれをただ眺めていた。
考えているのは別のことばかり。
彼女は今どうしているのだろうか。
たまは、花桜梨は、今、どうしているのだろうか。
重たい頭を抱え、僕は考えることを放棄した。
沸いたお湯を固まったラーメンにぶっかけて、三分待っている間。なんとなく思い出して自分の部屋にスマホを取りに行く。メールが一通届いていた。奏太からだ。
『なぁなぁ、暇か?暇だよな?今日会えないか?昼に青いコンビニで待ってるぜ!』
午前十時頃に届いたメールだ。テレビの右下に表示されている数字を見る。もうすぐ昼の一時になることを告げていた。
ラーメンを見てから、僕はもたもたとメールの返信をする。
『ごめん。今起きたところ。三十分待ってて』
『おっ!返信あったよかったぜ! 了解!待ってんな!』
また変な恰好をした白いスーツのおじさんのスタンプが送られていた。よく見ると昨日のやつとは少し恰好が違う。面白いはずなのに、笑いは沸いてこなかった。
ラーメンを十分で食べ終えると、僕は私服に着替えて家を出た。青いコンビニまでは、十分もかからない。
「おはよーっす!」
「お、おはよう」
元気だなぁ。騒がしなぁ。でも、なんだか落ち着く奏太の明るさに、僕は自然に笑みを浮かべた。
「遅れてごめんね。休みの日だから目覚ましかけてなかったんだ」
「ん? 別にいいぜ。一方的な誘いだったしな。ゲームして暇つぶしてたし」
いひひと笑う奏太。久しぶりと言うほどじゃないのに、その笑みに懐かしさを覚える。
「あ、そうだ奏太。体は大丈夫?」
「あはは。そんなに心配するんじゃねー、心の友よ! 俺は体が丈夫なのが取り柄だからな、あんなもん一日でも寝たら治るに決まってるだろ」
「……よかった」
「ありがとうな、空也。お前が救急車呼んでくれたんだろ? どうしてあそこにいたのかは思い出せねーが、それでも助かったよ」
「……うん」
「じゃあさ、俺の入院大作戦! の話はここら辺にして、場所を移そうぜ」
「うん」
アイスを食べながら歩き出す奏太の背中を追いかけながら、これからどこに行くのか聞いてなかったことを思い出した。奏太のことだからゲーセンとかかな。そう思いながら僕は頭の隅にやってくる考えを必死に追い出した。
奏太に連れていかれたところは意外なところだった。忘隠町の片隅にある静かな雰囲気の喫茶店だ。小さい店だからか他にお客さんはおらず、カウンターで、マスターがコップを磨いている。心地の良い香りがした。
「これ、コーヒー?」
「ここのフレンチトースト美味しいんだぜ。食べるか?」
「あ、ごめん。ご飯食べてきたばかりだから」
「じゃあ俺はこれと、あとウーロン茶!」
「喫茶店で?」
「俺コーヒー飲めねーし」
それじゃ何でここに来たんだか。
「でもさ、空也に相談したいことがあって、人が少ない店って言ったらここぐらいしか思いつかなかったんだ。だからマスター御手製のコーヒー飲めないのに悔しい思いをしながらここに来たんだぜ」
「相談って」
「それは飲み物が来てからでいいだろ。空也何飲む?」
「僕は……ウーロン茶で」
そういえば友達と喫茶店に来たのは初めての経験だ。メニュー表を見てみるが、コーヒーはともかく、紅茶の種類は多すぎて何がなんだかわからない。まともに飲んだこともないので、僕は奏太と同じものを頼むことにした。
「うし。マスター! ウーロン茶二つとフレンチトースト一つくださーい!」
「かしこまりました」
奏太の大声に怯むことなく、五十代ぐらいだろうか、黒い服に身を包んだマスターは目尻を下げで微笑むと、カウンターの裏に消えていった。暫くして戻ってきて、ウーロン茶を僕たちのいる机の上に二つ置く。
「お待たせ致しました」
僕は軽くお辞儀をした。マスターは微笑みカウンターに消える。
ちょうど喉が渇いていたのでウーロン茶を一口飲んでみると、奏太の目が僕に向いていた。
その視線がむず痒くなり、僕はグラスを置くと声をかける。
「そういえば、相談って何?」
「ああ。そうだった。あの、さ」
どこか恥じらうような様子で目を逸らすと、奏太は頬をぽりぽりと掻いた。
「新宮さんのことなんだけど」
予想通りといえばその通りだ。だけど僕の心臓は正直で、一度大きく鼓動を鳴らしてくる。
【死神】に魂を食べられると、それ以前に起こった一定期間の記憶が消えるらしい。だから奏太が覚えているかどうかは定かではなかった。だけど、花桜梨の話をし出すということは、奏太は何か気になることがあるのかもしれない。本当に、忘れたのだろうか。
「えーとさ。水曜日だったっけ? 俺が何故か倒れた日。その日さ、俺いったん家に帰った後にコンビニ行ったわけ。そこで新宮さんにあったんだけど、めっちゃ暗い顔してたんだよ」
「暗い顔?」
心臓を落ち着かせながら、僕はオウムのように聞く。
「俺、さ。新宮さんのこと前から気になっていて……あんな寂しそうな表情をさ、姿を見たら……どうしたのか気になるだろ。だから聞いたわけ。そしたら言ってたんだよ」
「何を?」
「最近変な夢を見るって」
夢?
「うーんと、何だっけ。最近真っ暗闇の中に一人でいる夢を見るって言ってたな」
暗く厳しいそこで花桜梨は一人で佇んでいる。冷たい闇を伴ったそれは、徐々に花桜梨を飲みこもうとじりじりと首を絞めるかのように追い詰めてきて、行く場所もなくもがいているうちに、
「目が覚めるらしいけどさ。苦しかったって言ってた。夢だから気にしないようにしているらしいけど、たまに思い出しては何か大事なものを忘れているような気がするんだよね――って、俺はそう聞いた」
「暗闇……」
それはどういう意味か。
「夢にしてはやけにリアルだったらしい」
夢。僕だって夢ぐらい見る。けれど、起きて忘れているぐらいで、特に気にしたことなんてなかった。
だけど花桜梨は覚えている。リアルで生々しいその夢を。
詳しいことは花桜梨に聞かなければ分からなだろう。けれど彼女と話をするのは辛い思いをするだけだ。視線すら、向けることができないのだから。
「あの、さ。お前、何かあったの?」
躊躇うような声。奏太が珍しく真剣な顔つきをしていた。
「え? ……どうして」
声が震える。無理やり笑顔を浮かべてみるが、奏太は真剣な表情を崩さなかった。
「空也さ。無理して笑ってね?」
思わず真顔になる。どんな表情をしていいのかが分からない。
どうして、こうもみんな僕のことを見てくれているのだろうか。僕なんて、惨めな僕なんて見ないで欲しかった。それなのに、夕芽も美奈子さんも、お馬鹿な奏太でさえ、気づいてしまうのだろうか。
「新宮さんの話をしても反応ないし。空也って新宮さんのこと好きだろ?」
「そ、そんなんじゃ」
「俺にはわかるんだよ。俺も好きだから。それなのに好きな人の話をしているのに、どうしてそんなに糸の切れた人形みたいに関心を示さねぇんだよ。おかしいだろ。心配じゃねぇのか? 新宮さんが。困ってることがあるんだったら、力になりてーッて思うだろ? 男なら好きな女ことと心配しないのか? 思わねぇか? なあ?」
「ごめん」
口から自然と出る言葉に、僕は自分が嫌になる。奏太の眉尻が上がった。明らかに起こらせてしまった。
「謝ることか? なあ、お前も悩み事あんの? 今日会った時から、別人のように固まった顔をしているのに気づいてる? 悩みあるんなら教えろよー。俺らさ、友達だろ?」
「ごめん」
「ああーいみわっかんねー!」
「お待たせ致しました。フレンチトーストでございます」
店内で叫んだ奏太を気にも留めず、マスターが恭しく皿を机の上に置く。お皿の上で綺麗な黄金色の焼き色を付けたフレンチトーストが美味しそうな湯気をたてている。
「ありがと」
匂いにつられて笑顔になった奏太は、フレンチトーストに口をつけると咀嚼する。マスターは微笑みながらカウンターに戻り、グラスを磨きはじめる。
「うん。やっぱりうんめー。空也も食べるか?」
「お腹すいてないから」
「じゃあ、また今度一緒に食べにこようぜ。お腹ぺっこぺこにしてさ」
「……うん」
フレンチトーストを食べるのに夢中になっているからか、奏太はそれ以降何も僕に聞こうとしなかった。話したことといえば入院中の奏太の話で。それもマシンガントークだったものだから、僕はただ微笑んで聞いていることしかできなかった。それでも久しぶりに奏太の話を聞いたら少し元気になれた気がした。もしかしたら奏太は、僕から話だしてくれるのを待っていたのかもしれない。それでも心の奥底まで踏み込んでこないところは、奏太の優しさなのだろう。
喫茶店からの帰り道。僕は勇気を出して、奏太に白い髪の少女の話を聞いた。なるべくさりげなく、奏太が倒れた日に会っていないかどうかを。
「ん? 会ったことは無いぜ。前に言ったけど、後姿を見たことあるだけだな」
「そう」
僕は確かに白い髪の少女と一緒にいる奏太を見ていたのに、奏太は覚えていない。どうやら本当に【死神】に魂を食べられた時の記憶はなくなってしまうらしい。もしかしたら記憶も一緒に食べられているのだろうか? 記憶と魂に、繋がりはあるのだろうか。
「そんなこと聞いてどうしたんだ?」
不思議そうな顔をする奏太に僕は苦笑いで答える。
「ううん。なんとなく気になって……。あ、月曜日からちゃんと学校くるよね?」
「俺か? 当たり前だろ。こんなにも元気なんだからな! 今すぐ学校行きたいぐらいだぜ!」
「今日は休みだよ」
「うん。知ってる。……俺勉強嫌いなんだよ。けどさ、学校って良いところじゃん。空也や龍之介がいて楽しいし。俺、やっぱり学校が好きなんだよなぁ」
「……」
「空也はどう考えているかわからないけどさ。俺、中学の途中でここに越してきて、中学に通ってんのは、幼い頃からずっとこの町で暮らしてきた連中だから。クラスのことな。みんな幼馴染みたいな関係なんだろうな。……馴染みの連中の中に、一人ぽつんと部外者が入ると、やっぱり浮くわけよ。めっちゃ焦ったぜ。中学卒業するまで一人ぼっちだと思った。けどさ、龍之介が話しかけてくれたんだよ。あの頃から不愛想で何考えているか分からなかったけど、分からないことあったら何でも聞けよ、って言ってくれて嬉しかったなあ。だから空也が転校してきたとき、龍之介の真似をして話かけてみたんだけど……思ったより良いやつでよかったぜ! 俺、お前のこと本当の友達だと思ってる! 会ってからのまだ時間は少ないけど、お前本当に優しいもんな。新宮さんもそのこと、知っていると思うぞ」
「……」
思えば転校してすぐに話かけてくれたのは奏太だった。僕がすぐに打ち解けるように話しかけてくれたんだ。うるさいと思うこともあったけど楽しいことの方が多かった。それも僕が昔から友人に恵まれなかったからかもしれない。けれどそんなことすらどうでもいいほど僕は嬉しかった。奏太も友達だと思ってくれていることが。初めての友達なのかもしえない。奏太の言葉だからこそ、真っ直ぐ心に響いてくる。
「ありがとう」
僕は微笑む。
「僕も奏太のこと友達だって思ってる」
「いやっほー! すっげー嬉しい! ありがとな」
いい笑顔だ。無邪気に両腕を振り上げて飛び上がる友達に、僕は思わず笑みを浮かべる。奏太と視線が合い、お互いに噴出す。
ああ、嬉しい。楽しい。面白い。こんな気持ち、初めてだ!
けれど僕は裏切ることになるのだろう。奏太のことを。奏太の思い――恋心を。
僕は【死神】を成仏させるって決めているのだから。
このことを知られたらもう友達じゃいられないのかな。奏太と一緒にいて楽しかったけど、もう一緒にいられないかもしれない。でもしょうがないのだろう。僕は友情を壊してでも【死神】のしていることを見過ごすことができないのだから。誰に何を言われてもこの気持ちは変わらない。変えるわけにはいかない。たまは必ず帰ってくるのだから。
いくら腕を差し伸べられようと、縋るわけにはいかない。これは自分へのけじめだ。彼女との思いを断ち切るために。僕はもう迷ってはいられない。
【死神】は自分の手で――。
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