エピローグ
何事もなく、ただ静かに朝がやってくる。
僕は目を覚ますと、制服に着替えるが日曜日だということを思い出して、私服に着替え直した。洗面台に行くことなく、寝癖があるかもわからないままリビングに降りて行くと、キッチンで長い黒髪を後ろに結っている女性が朝ご飯を作っていた。時計を見るともう八時を過ぎている。今日、月曜日だったら遅刻しているなぁ、と思いながらソファーに座った。
目の前にたまがいた。
「あ」
思わず声を上げてしまう。どうしてまだ彼女はここにいるのだろうか。てっきりあの後、帰ったと思ったのに。
昨日の記憶は朧げで、花桜梨が倒れて血を流してからのことはよく覚えていなかった。気づいたら朝になっていた。
「なんじゃ、間抜け面しおって」
「たま。……どうしてまだここにいるの?」
彼女は一度、家に帰っている。神前家に連れ戻されたりしないのだろうか。
「ぬ。空也は、妾がいるのが不満なのか?」
悲しそうな顔をして首を傾げるたま。僕は我に返り、慌てて弁明した。
「ち、違うよ違う。ただ、家に連れ戻されたりしないのかな、って。たまって、お嬢様なんでしょ?」
「うむ。妾はお嬢様ではないぞ。家系は古いが、お嬢様と言うほど綺麗ではない。どちらかというよ、黒く淀んだみすぼらしい家系じゃ。妾はただの身代わりでしかない。死なぬ限り、どこにおろうと関係ないみたいじゃ」
監視はあるけどな、と口をすぼめるたま。
「で、お主は昨日のこと覚えておるか?」
唐突にたまが口にした。どこか躊躇う様子だった。
僕はその言葉と共に、花桜梨が血を流し倒れる光景を思いだして、思わず唾を飲み込もうとしたら器官に入り咽込んでしまう。忘れたかった。
あんな出来事、覚えていても良いことない。
けれどこれは覚えていなければいけないことだ。花桜梨のことを。新宮花桜梨が確かに生きていたことを、覚えていないと。
少なくとも、僕ぐらいは。
「【死神】は、数年間あの女の中で眠っていたのじゃろう。けれど、歳を重ねるにつれて、【死神】は自我を取り戻し始めた。挙句に女の意識を乗っ取り、体の主導権を取ってしまった」
つまり、僕はここに越してきてからずっと、花桜梨ではなく【死神】と一緒に昔話をしたり下校したりしていたことになる。想像すると胸を締め付けられる悍ましさを感じるが、でも彼女はきっと……。
「人間になりたかったのだろうな。【死神】はあまりにも長い間あの女のなかで過ごしすぎた。その影響で【死神】は人間だった頃のことを思いだしたのか、それは定かではないが、ただ普通に過ごしたかったのだろう。じゃなければ学校に行かないところか、親戚の家で暮らしてなんておらぬじゃろうから」
そういえば花桜梨は親戚と一緒に暮らしているのだ。一人暮らしをしているわけではない。彼女がいきなりいなくなって、心配していたりしないのだろうか。
「案ずるな。妾が実家に掛けあって、どうにかしておいた。今頃、どこかに留学していることになるだろう。学校も同じだ。もう一生帰ってこない」
彼女の言葉が重く伸し掛かってくる。
「うん」
花桜梨が死んでしまったなんて聞いたら、奏太はどうなる。花桜梨の友人は? そう考えると、この嘘は優しすぎる。
ズキッと痛む胸を押さえる。僕はこの痛みと共に生きていかねばならない。
これを後悔だなんて、そんな陳腐な言葉で終わらせないように。
僕はたまを見た。
「たま。これからもよろしくね」
「うむ」
頷き微笑むたまを見ていると、胸の痛みが和らぐ気がした。
僕は花桜梨の言葉を思い出す。
これは彼女を好きだからなのだろうか。
神前たまのことを。僕の傍にいてくれる彼女のことを。
本当のところは、実感がないためわからない。けれど、そうだといいなと思うのだった。
だってたまの笑顔を見てるいると、こんなにも心が穏やかになるのだから。
「ところで、たま」
「どうした?」
僕は台所を見る。そこに長い黒髪を後ろに結っている女の人がテキパキと動き回っていた。美奈子さんが朝食の用意をしていると思ったが、あまりにもその動きが機敏すぎる。後姿しか見えないが、背丈からしても美奈子さんよりも高いので恐らく別人だ。
「あの人、誰?」
「ぬ? ああ。あやつか」
たまが穏やかな顔で台所を見やると、女性の名前を呼んだ。
「二葉」
「お呼びでありますか、たま様」
瞬間移動の如く、かすかな音をたてることなく女性はたまの傍にやってくると、礼儀正しく腰を折った。
あまりにも素早い動きに僕は驚く。
「こやつは二葉。妾の付き人じゃ。身の回りの世話をしてもらっておる」
「小野空也様。ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。わたくし、名を二葉と申します。これからこの家にお世話になりますが、何卒よろしくお願い申し上げます」
「これから掃除や炊事は二葉にやってもらえばよい」
「朝食はもう少しで出来上がりますので、今しばらくお待ちくださいませ。それでは」
もう瞬間移動じゃないのか、と瞬きのうちにいなくなった女性を唖然と見ながらたまに聞く。
「つまり、居候がもう一人増えると」
「そうなるな。美奈子にはもう言っておるから心配するな」
「あ。うん。わかった」
あまりにも急すぎて思考についていけず、美奈子さんが了承したなら仕方ないかぁと思いつつ、納得することにした。
これからの日常は、さらに賑やかになりそうだ。
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