第四章 違和感の正体④

 次の日学校に行くと奏太は休みだった。当然だ。病院で休養しているのだから。

 先生は風邪で休みということしか言わなかったため、教室は「ありえねぇ」「はい、仮病!」という言葉が沸いたが、それらはすぐにチャイムが打ち消した。

 一時間目の授業は普通に始まり、少し静かな一日が開けようとしていた。


 昼休み。前の席の生徒が弁当を持って立つのを見計らっていたのか、蹴るような勢いで夕芽が飛んできた。弁当を落とさないように抱きかかえた男子生徒が鬱陶しそうに夕芽を見たが何も言わずに教室を後にしていく。

 夕芽は組んだ腕を椅子の背の上に乗せてニヤニヤと楽しそうな顔を向けてくる。

 その笑顔に、自分の顔が引きつるのが分かった。

「おはよう、空也君」

「おはよう……こんにちは?」

「いや、あたし空也君と朝の挨拶をしてなかったものだからさ、今してみただけだよ。こんにちは」

「うん」

 会話が途絶える。てっきり言葉が続くかと思ったのに何もないみたいだ。

 僕は引きつった笑みのまま、夕芽を見る。

「あの」

「うん? 何?」

「どうしたの?」

「え? ああ。そうそうそうなのだったぜ、空也殿よ! 実はすこーし、話があってね。でも空也君の可愛い顔を見たらどっかに飛んじゃったなぁ。ちょっと待ってて」

 夕芽は両手を頭の上で広げると、「我に力を~」とか意味の分からないこと言い始めた。その動作に少し唖然としていると、「はぃやぁ!」と大声を出すものだから、思わず声が出る。笑い声が。久しぶりにこんな声を出した気がする。

 僕の声に気づいた夕芽は視線を下げると、とても優しい笑みを浮かべた。それは昨日美奈子さんが見せたような笑みと同様で……。僕はやっと昨日からずっと難しい顔をしていたことに気づいた。

 だから昨日、美奈子さんはあんなにも困った顔をしたのだろう。

 夕芽は僕が暗い顔をしていたものだから、元気づけようとしてくれたのかもしれない。

 その優しさに。今まで友達というものをいまいち理解できなかった僕は、この時に実感した。

 僕はもう一人じゃないことに。

「ありがとう」

 だから素直に感謝の言葉を言うことができた。

「良いってことよ! 空也殿は、吾輩の友達なのだからなぁ」

 うははっと大声で笑う。その声に少し救われる自分がいた。

 僕は、チラリと視線だけで花桜梨を見る。そういえば今日はまだ一度も花桜梨を見ようとしていなかった。夕芽の声が大きかったからか、クラスメイトが数人こちらを見ている。その中に花桜梨もいた、彼女は驚いた顔をしている。他のクラスメイトの奇妙なものを観る視線を、僕は気にならなくなっていることに気づいた。いじめられていた頃あんなに嫌だった視線が、もう前ほど気にならなくなっているのだ。それはやっぱり夕芽のおかげで、奏太のおかげで……そして、やっぱり花桜梨のおかげなのかもしれない。

 小学校、中学校、と僕は教室で声を出すことをしてこなかった。何かがあれば殴られも蹴られもしたし、靴がなくなることは日常茶番事で、教科書なんて落書きだらけで、学校は嫌なところだとしか思っていなかった。僕をいじめてきたいじめっ子のあいつや取り巻きたちに、もし「嫌だ」とか「もうやめてくれよ」とか言っていたら何かが変わっていたのだろうか。

 だけど、それはやっぱり過去のことで。今、ここでこうしてみんなと出会えたのは、過去から作られた、現実(いま)があるからなのかもしれない。

「空也君。あたしは男子の悩みごとは聞かない主義だから、君の悩みは聞いてあげられないわ。けどね、何か悩みがあったら、誰かに聞くことは大切よ。龍之介だって心配しているのだから。あんなに不愛想で何を考えているかなんて私にもわからないけど、結構優しいのよ」

「……うん」

「一人でうじうじしていると、頭の中にある大切なものがどろっとしちゃって、嫌なことばかりが浮かんできちゃうしさ」

「……ありがとう」

「小野」

 顔を上げると龍之介が隣に立っていた。眼鏡の奥から鋭い視線が覗いている。

「悩みがあるのか?」

「……」

 僕は自然に口を開く。そして、そのまま停止した。

 口をきつく結び直す。僕は視線を逸らし机の角に落とす。

「ごめん。まだ話せない」

「そうか」

 龍之介はそれ以上聞こうとしない。この微妙な距離感が、人の触れて欲しくないところに踏み入ろうとしない距離感が、今の僕には心地よかった。

 僕が幽霊を見えること。たまのこと。【死神】のこと。

 これらはまだ話せない。けれど、いつか話せる日が来るといいな。そう思い僕は微笑んだ。

 龍之介は表情を崩すことなく席から離れると教室から出て行く。

 「よいっしょっ!」と夕芽は大きな声を出して立ち上がったかと思うと、龍之介を追うかのように教室から出て行った。夕芽は弁当を二人分持っている。

 僕はその背中を見送り、少しの間花桜梨に視線をやって、自分の机を眺める。

 本当のことはまだわからない。

 だから、まずは花桜梨に対する違和感を拭うことが最優先だ。そう決心した。



 あっという間に放課後になり、僕と花桜梨は隣り合うと校門から一歩外に出た。

 言わなきゃと思い口を開くが、言葉が出てこない。

 何から言うべきなのかと考えあぐねていると、無言だった花桜梨が話を切りだしてくれた。

「空也」

「な、なに?」

「悩み事あるの?」

 僕は素直にこくんと頷く。

「そっか。あたしでよかったら、話聞くよ?」

「ありがとう」

 一呼吸おいて、続きを言おうと口を開いたが、なぜか喉の付近まで出てきたそれが止まってしまう。

 うまく言葉にできないのがもどかしい。

 一度咳をしてみた。

 それでもつっかえて出てこない。決心したはずなのに、言葉にすることが恐ろしい。何かが壊れそうで、どうしてもそれを阻止したい自分がいるのだろう。

 ――『新宮花桜梨。やつには気をつけろ』

 たまの言葉が頭の中でぐるぐると回る。それは黒い瞳と共に、じっとりと僕に向かって問いかけてきた。

 ――新宮花桜梨は、何者だ?

 誰の言葉だろうか。たまの言葉か? けど、こんなにも淀みをもったりしない。

 じゃあ、誰なのだろうか。どこか確信をもっているその言葉は、もしかして……。

「花桜梨」

 無理やり声を出す。心の中で渦巻く淀みを払拭するかのように、無理やり笑顔を浮かべた。

「花桜梨、あの」

「空也大丈夫?」

「え?」

「今、とても苦しそうな顔をしていた」

 そんなの当たり前だ。

 言いたくないことを。言ってしまったら壊れてしまいそうで怖いことを、言おうとしているのだから。今、ここで君に。

 それなのにどうして気づいてしまうのだろうか。

 花桜梨の心配そうな顔をただ見つめる。

 そういうところは変わっていないみたいだ。

 彼女はとても優しい。それは今も変わらないのだろうか。

 花桜梨が僕の顔をのぞき込んでくる。

 笑顔だった。あの時とは違う、どこか陰りのある笑顔。

 どうして、あの頃のような満面の笑みは浮かべてくれないの?

「空也?」

「花桜梨」

「何?」

 優しく返される言葉。

 僕は心臓を握りしめられる思いのまま声を出した。

「君は、本当に花桜梨なの?」

「え?」

「君と再会したときから、どうしても君は無理して笑っているようにしか見えなかった。あの頃から優しいところは変わってないと思う。けど、やっぱり、花桜梨はもっと明るい女の子だったはずだ」

 安心できる笑顔。僕にはどうしてもそれが作り物にしか見えなかったのだ。

 その違和感が、ずっと気がかりだった。

「そう、か」

 花桜梨が掠れるような声を出すと、

「空也には分かっちゃうんだ」

 悲しそうに目を伏せた。足を止めて、花桜梨が僕を見る。その顔に、表情に、胸が張り裂けそうになり。

「ごめん」

 思わず謝った。

「謝る必要なんかないよ」

「でも」

「空也だから、気づいてくれたんだよね?」

「え?」

 どこか助かったとでもいうかのような顔で花桜梨が微笑む。

 僕は理解ができずに困ったような顔をした。

「ねえ、空也は知っている、よね」

「何を……?」

「私さ、小学五年生の頃に事故に合ったでしょ? それでさ……パパとママ死んじゃったんだよね」

 あ。

 僕は大事なことを忘れていた。違う、忘れていたんじゃない。それを考えてしまうと、花桜梨が。

「それからね、ちゃんと笑えなくなったんだ。全くってわけじゃないよ。友達とか尼野君とかとても面白いことをするとね笑えるんだけど、それ以外はずっと……黒い靄が頭の中にあって、心の底から笑うことができないんだ」

 花桜梨は無理やり笑顔を浮かべていた。作り物にしか見えないその笑みは、どういう思いで浮かべているのだろうか。

 彼女は幼い頃に両親を失くしている。

 それがどんなに辛いことなのか、経験していない僕にはわからない。わかるわけがない。

「ごめん」

「どうして空也が謝るの?」

「だって」

「空也」

 茶色の瞳が僕を映す。

「謝ってばっかりいるのはよくないよ」

「でも」

「だって、でもッ! もうっ、うるさいな。空也は優しすぎるんだよ。もっと男らしくしないと、将来大切な人を守れなくなるよ」

「僕は……」

「私はさ。昔、自分が思ったことが全て正解だとか思って、いじめとか不当なこと許せなくってさ、空也を助けたのだって自分が満足したかったからなの!」

「それは」

「空也を助けたんじゃなくって、助けた自分に酔っていただけなの!」

「でも」

「ねえ、空也」

 言いたいことがある。そうじゃないと。それでも僕は君に救われたのだと。

 僕は口をきつく結び、花桜梨の静かな声に耳を傾ける。

「あたしにもう話かけないで」

「……ッ」

 声が出せない。花桜梨の言葉が鎖になって、僕を縛ってくる。

「昔の私はもういないんだよ」

 僕は問いを間違えんだ。

 違和感があるからと。彼女の気持ちを考えずに、ただ僕が思った傲慢な疑問を尋ねてしまった。

 それが駄目だった。

 今まで後悔は何回もしてきた。けれど、これほどまで大きく重い後悔は初めてだった。

 馬鹿だッ! もっと言葉を選んでいれば、また明日も笑いあえたかもしれないのに。

 違和感の正体を知ったところで、それは悲しい結末を生むだけだった。

 でも確かめたくって。違和感の正体を。たまの言葉の意味を。それから――。

 【死神】のことも。

 名前を呼びたい。花桜梨の名前を。

 僕は鎖から逃れるように右手を出すと花桜梨の手を掴んだ。

 とても冷たかった。

「ッ!」

 寒気と共に手を振り払われる。

「花桜梨」

「名前を呼ばないでッ!」

 花桜梨は踵を返すと走り出す。

 僕は口を開くことも、声を出すことも、息をすることまでできなくって、ただ足音が消えて行くのを……彼女の後姿を目で追いかけることすらできなかった。

 僕は自分の手を見る。

 どうして花桜梨の手は、あんなにも冷たいのだろうか?

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