第二章 『魂』②

 昨日は朝から晩まで慌ただしく、我ながらすっかり忘れていたのだけれど、僕は幽霊が見える。それも、くっきりと。足もちゃんとついている、半透明の幽霊が。

 だけど、それは近づかないと普通の人間と区別ができず、幽霊の存在にすっかり慣れてしまっている今でも、時々見間違えてしまうことがある。

 例えば今。

 僕は授業中、板書を写しながら先生の話を聞いている。日本史の先生のだらだらとした話は長く、ノートに書くこともなくなったので、視線を窓の外に向けた。

 そこで見た光景に、ぎょっと目を見開く。

 窓からは校門を見ることができる。その校門の前にスーツ姿の男性がいた。それも片足が膝から下が何かに挟まれたかのように切断されており、赤黒い血がポタリと垂れている。男性の表情は伺えないが、泣き叫ぶことなくふらふらとしている。

 最初は不審者かと思ったが、重症の傷を見つけて救急車を呼ばないといけない、と思い立ち上がろうかとして躊躇ってしまい、そして喋りながらチョークで何かを書いている日本史の先生の背を見つめ、再び窓の外を見ると、そこには誰もいなかった。地面に血は一滴も落ちてはいなかった。

 僕は少しして気がついた。

 ああ、あれは幽霊だったんだ、と。

 本当に間抜けだと思う。取り乱したところで、僕の頭を疑われるだけだ。普通の人間に、幽霊は見えないのだから。

 僕が幽霊を見ることができるのは、産まれてから今まで変わらないこと。

 だけどそれは日常になりすぎているのかもしれない。

 余りにも当たり前すぎて、幽霊と人間を区別するのを、最近ではやめてしまっていた。



 そんなこんなで今日の授業は終わり、放課後がやってきた。

 授業の進行は前の学校と変わらず、ついて行くのに苦労はしなかった。教科書は買い替えずに使えるものがあったものの、僕は前と同じのを使うのは嫌で、心機一転したかったこともあり、教科書はすべて新しく買い替えている。

「そういえばさ、空也ってどこの高校に通ってたんだ?」

 ボーと教科書を眺めていたところを、いつの間にか前の席の男子を押しのけて椅子に跨っている奏太に声をかけられた。

 僕は慌てて鞄に荷物を詰め込みながら、その問いに曖昧な顔で答える。

「ええと……家から近い高校に通っていたよ」

「何て名前?」

 僕は迷いながらも、正直に高校の名前を告げる。

「聞いたことない名前だな。有名校じゃないのか」

「うん」

 確かにあの高校は有名でも何でもない、本当に平凡な公立高校だった。近くに住んでいる人は名前ぐらい聞いたことはあるだろうけど、あまり印象には残らない高校に違いない。

 僕は、親に「家から近いから、行きやすそう」という理由でその高校を受験することを決めたと言っていたが、本当は違った。

 小学生の頃からずっと同じクラスという最悪な運命の手綱を握られていた、あのいじめっ子の男子に脅されて、一緒の高校を受験させられたからだった。

 なんとか受からないようにしようかと、試験の時に名前だけ書いて白紙にしてだそうかとも考えたが、それは止めた。だって、受験料を親に出してもらっている身としては、また違う高校を受けるのは憚られたからだ。滑り止めとして私立の高校に受かってはいたが、それはそれで学費が馬鹿にならず、親に負担をかけてしまう。第一希望だと嘘をついていたその公立高校に合格するしかなかった。いつまで続くかわからない、嫌な学生生活を送ることになろうとも……。

 だから入学して二か月後、引越しが決まり高校も忘隠高校に通えることになり、飛び跳ねそうになるぐらい喜んだ。

 前通っていた高校は、電車を使えば一時間半ぐらいで行くことができる。実際、父に「空也が通いたかった高校だろう? 転校することもできるけど、どうする」と聞かれたとき、僕は少し迷った素振りを見せ「片道一時間もかかるのは大変だから、近くに通える高校があるならそこに行きたい」と答えた。

 もう、あいつらと一緒にいるのは嫌だったから。

 新しい生活を送りたかったから。

 ただ、その思いだけで、僕は簡単に転校を選び、昨日からこの高校に通い始めている。

 引っ越した後、あいつらがどうしているかは知らない。クラスメイトの誰にも告げず(そんな仲の良い友達なんているはずなかった)僕は先生に恥ずかしいから言わないでと伝えて、いきなり引っ越してきたから。もう会うことなんてないはずだ。

「なあなあ、聞いてんのか?」

 思わず考え込んでいたからか、奏太の話を全く聞いていなかった。

「ごめん。聞いてなかった」

「ふーん。まあいいや。それよりも今日こそ一緒に帰ろうぜ! お前に見せたいものあるし」

「見せたいの?」

「それは後からのお楽しみさ。さ、さ、早く鞄持てよ」

「うん。あ」

 奏太に急かされながら鞄を持ち、僕は立ち上がった。斜め少し前にいた花桜梨と目が合う。今日は友達と帰るみたいで、まだ名前は知らない女子二人と一緒にいた。ばいばい、と花桜梨が手を小さく降るので、僕も手を振り返す。それに気がついたのか、奏太がばっと振り返り花桜梨を見ると大きく手を振る。それに花桜梨が吹き出した。女子二人が「どうしたのー?」「変なツボに嵌ったか!」と一人は今にでも戦いそうなポーズをして、花桜梨は「あはは面白い」とここまで聞こえる笑い声をあげている。「うんそんなとこ。あはは、なに面白い恰好しているの?」と腹を抱えて蹲った。

「いやぁ、あんな新宮さん見られるなんて、初めてだぞ」

 奏太が顎に手を当てて目を見開く。

 そうだろうか、と僕は思った。まだ小学生の時、僕と一緒に遊んでいた時の彼女は、いつもあんな風に笑っていた。だから僕は懐かしく思ったし、奏太が知っている彼女と、僕の知っている彼女の違いに、なんとなく引っ掛かりを覚えてしまう。



 校門を出ると、「家どっち?」と奏太に聞かれた。

 僕は叔母の家の方向を指さし、「こっちだよ」と答える。

「反対方向かぁ。まあいいや。そういえば聞くの忘れていたんだけどさ、寄り道できる?」

「あ、うん。大丈夫だよ」

 そういえば、見せたいのがあるとか言っていたな。

 僕は頷く。

「よし。じゃあ、こっち来いよ。本当は委員長共も誘ったんだけどなぁ、めんどくさいから嫌だって言われたんだよ」

「そうなんだ」

「空也もさ、めんどくさかったら言えよ。俺、早とちりして突っ走っちゃう性質だから、気をつけてるんだけど、なかなか治らねぇんだよ」

「めんどくさくないよ」

 本当にそう思っている。実際、ちゃんとした男友だちは、今まで一人もいなかった。小学校からは言わずもがな、幼稚園の頃でさえ、僕は周りに幽霊が見えることを喋っていたため、気持ち悪がられていたから。男友だちと、どこかに出かけるなんて、初めてだった。

「そうか? なら良いんだけど」

 苦笑して、奏太は前を指さすと、なぜか叫び声を上げる。

「よし行くぞ! 我が同胞よ!」

 何が同胞なのかさっぱり意味不明だが、僕は笑顔でそれに従い、彼の後をついていく。



 学校を出てから五分ぐらいすると、奏太は交差点で立ち止まった。

 そこはこの町ではまだ大きい通りらしく、車が多く行きかっている。

「ここだ」

 奏太がそういうが、僕は首を傾げる。

 見せたいものがあるという話だったが、見渡しても特になにも見当たらない。強いていえば、ガードレールの一部分が歩道に乗り上げていることぐらいだろうか。車でもぶつかったのか、人が横向きでやっと通れそうなぐらいに、反り返っている。実際に、煩わしそうに男子高校生が横向きで通って行った。

「あのガードレールさ、昨日の夜遅くに、車がぶつかったんだぜ」

 どうやら本当にガードレールのことだったらしい。だけど、事故はよくあることで、それほど珍しいことじゃない気がする。人を轢いたとか生き死に関わることだったら、まだ噂話をすることはわかるが、ただ車がガードレールにぶつかった。それの何が珍しいのだろうか。

 奏太がどうして見せたいことと言ったのかよくわからず首を傾げていると、奏太がボソリと噂話でもするかのように囁いた。

「だけどさ、これは本当の話らしいんだ。誰から聞いたかは忘れたから教えられないけど……幽霊が出たんだよ」

「幽霊?」

 その単語に、ビクッとしてしまう。

 人からその単語を聞くのは苦手だ。

「そう、幽霊! 知ってるか、この町にはな、数年前から幽霊が出るんだ。長い白髪の少女の幽霊がさぁ。その少女は夜な夜なこの町を彷徨って、他の幽霊の魂を食べているらしい。いや、幽霊なんてのが本当にいるかはわからないけどな。こんな小さくって古びた田舎町なここだからかな……昔から幽霊の話は有名だったけど、少女の幽霊は本当にここ五年以内の話らしいぜ。魂を食べるなんてこと、本当はどうなのか見た人がいないからわからないけど、その白髪の少女の幽霊を見たって言う人は意外と多いんだ。実際に俺も、二か月ぐらい前に見かけたぜ。おやじと喧嘩してよ、夜中なのに家から追い出されて歩いてたんだよ。そうしたらさ、住宅街の道をふらふら、と白髪の少女が歩いていたんだ。一目見て、噂の幽霊だってわかったぜ! だって、その女の子……体が透けてたから、さ」

 それが本当だったらとんでもないことだ。

 体が透けている、それは僕が今まで見てきた幽霊、今も幼い男の子の幽霊がガードレールに蹴りとずっつきをしているが、そんな少年も含めて……幽霊の体は透明に近いほどにまで透けている。

 もしも本当に奏太が白髪の少女を見たとして、その少女の体が透けていたとしたら、それは。

「そんな馬鹿な」

「いや俺は馬鹿じゃねーぞ」

 思わず声に出してしまったらしく、奏太が大真面目な顔で修正してきた。奏太に言ったわけじゃないんだけどなぁ、いや、でもあながち間違っては……。いやいや、本当のことは黙っておいた方がいいだろう。そこらへんは龍之介に任せておけば。

 そんなことよりも、だ。僕は奏太に聞きたいことがあった。本当か定かでない幽霊の話と、今目の前にいる少年が蹴っている反り返ったガードレールのことがどう結びつくのか、僕はまだ聞いていなかった。

 そのことを訪ねようとしたが、それより早く奏太がガードレールにガンッ、と一発蹴りを入れてから教えてくれた。

「ガードレールをこんなんにしたやつが言ったらしいんだ。白髪の少女を見つけて、咄嗟に避ける為にハンドルを切ったら、ぶつかってしまったって……。まあ、テレビで見たんだけどな」

「そうなんだ」

 そういえば、今朝テレビはつけていなかった。

「人が轢かれなくってよかった」

「運転手が見たのは白髪の幽霊だぜ。すり抜けちまうよ」

 確かにそうかもしれない。運転手が本当に幽霊を見ていたのだったら、幽霊はすり抜けてしまうだろう。僕も昔、まだ幽霊について詳しくわからなかった頃。幽霊に体当たりして思いっきり地面にぶつかってしまったことがある。顔面を殴打して、血だらけになりながら家に帰ったら父さんがいつになく青ざめていたことをふと思い出す。

 顎を少し切っただけで大事に至らず、今では傷跡もきれいさっぱりなくなった。

 奏太が反り返ったガードレールを舐めまわすように観察している。

 いつの間にか、男の子の幽霊は消えていた。

 ただ、空が赤茶けてきており、夕焼けがすぐ傍までやってきている。

 いったい、これを見せて奏太は何をしたかったのだろう。特に意味はないのかもしれない。彼はただ、この事故現場を見せて、幽霊の話をしたかっただけだと思う。

 僕の日常に当たり前に溶け込んでいる幽霊の話を。奏太はただ面白がって、話したかっただけなのだ。

 だけどそれがどうした、という話だ。幽霊を見える僕をからかって遊んでいたあいつらと違い、どうやら奏太は幽霊がいるということを信じているようだ。

 一瞬、話してもいいだろう考えが過る。

 僕が幽霊を見えることを。ついさっきまでここに男の子の幽霊がいたことを。

 花桜梨が信じてくれたように、奏太も信じてくれるだろうか。

「あ」

 そこで気づいた。そういえば、花桜梨は僕が幽霊を見えるということを、覚えているのだろうか。あの時に話したことを。

「どうした、空也? 帰ろうぜ」

 ガードレールを眺めるのに飽きたらしい奏太が、道の先にいた。僕は慌てて彼に追いつこうとして、「ゴフッ」反り返っているガードレールに思いっきりお腹をぶつけてしまった。痛い。

「大丈夫か、すごい声がしたぞ」

 奏太が笑っている。

 僕は苦笑いをして、お腹が無事かを確かめた後、今度は横向きで通りながら奏太に追いついた。

「痛かった」

 真面目な顔でそういったら、また奏太に笑われていしまった。そんなに面白いことだろうか? 僕は痛い思いをしたのに。

 そう思いながらも、僕もつられて笑い声を上げる。

 僕と奏太は、いったん学校の近くに戻り、そこで分かれて家路につく。

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