第二章 『魂』③

「ただいま」

 家の中に入ると、不機嫌な顔に出迎えられた。

 整った幼い顔立ちをしている少女が、口を尖らせて僕を睨んでくる。

「どうしたの?」

 怯えながら声をかけると、たまはそっぽを向いて呟く。

「どうしたじゃないぞ、この戯け者」

「……えーと、何かあったの?」

 たまの並々ならぬ雰囲気に気圧されながらも、そう聞くとキッと睨まれてしまった。本当に何があったんだろ。

「妾はお腹ペコペコじゃ!」

「え、でもまだ五時前だよ。夕飯までまだ一時間あるし、昼ご飯食べたんでしょ?」

「食べてない」

「嘘、なんで?」

 出て行く前に、冷蔵庫の中にあるのやカップ麺で済ませるように言った筈だが、どうして食べてないんだろう。いくら彼女でも、それぐらい食べられるはず……。

 「あ」と呟く。もしかして、たまは――。

「お主に言われて冷蔵庫を開けてみたが、そのまま食べられそうなものは何もなかったぞ。あと、なんじゃったけ、かっぷめん? 何なのか訳が分からぬわ」

「本当に、カップ麺のこと知らなかったのか」

 インスタントのとても手軽な食べ物を、たまはやはり知らなかったらしい。

 世間ずれにもほどがあるな、と思ったが、今日学校で夕芽から聞いた「特別」という言葉を思いだす。

 一体、たまは今までどんな生活をしてきたのかだろうか。

 出会ったときにきていた浴衣とは全く違う、ジーンズに長けの合わないシャツといった、たまには不釣り合いの服装を眺めながら考える。

 服装、言動、存在感。そのどれもが、あまりにも僕たちと異なっている。

 特に存在感は、そこまで大きくは見えないものの、どんな風景にも溶け込めるかのように、まるでそこにいるのが当たり前かのように、彼女は溶け込んでいる。

 彼女は何者なのだろうか。

 思い出すのは、やはり「特別」という言葉。それから、「家に帰りたくない」という言葉。

「すぐできるのはないか。コンビニで菓子パンでも買ってこようかな」

 冷蔵庫を開けてみるが、卵は切らしていた。野菜はあるものの、それは多分夕飯の分なので、使うわけにはいかない。というより、この野菜で作れるレシピを僕は持ち合わせていない。次に冷蔵庫の横にあるいつもパンを置いている棚の上を確かめてみたが、そこには何もなかった。

 そういえば、今日は美奈子さんが帰りにスーパーに寄る日だった。

 美奈子さんが帰ってきてそれからご飯を作ってくれるため、夕飯は大体六時から七時ぐらい。だけど、スーパーに寄ってくる日だけは、三十分は遅くなる。

 あと一時間だからもう少し待っていてと言おうにも、食に飢えた獣のような目をしたたまは拒否するだろう。僕は毎月両親から送られてくる予定となっている、なけなしのお小遣いの入った財布を掴み取り、「うぅ~」と唸っているたまにコンビニに行こうと提案する。

「コンビニ?」

「もしかして、知らない?」

「い、いや、知っておるぞ! ああ、知ってるぞ、コンビニぐらいな! あれだろ、物を売っているところだろ。今から買い物に行くのだからな!」

 知っているのか知らないのかよくわからないような返答に苦笑すると、たまに睨まれてしまったので咳をして誤魔化す。「戯け者」と言われてしまった。誤魔化せていなかったみたいだ。

「じゃあ、行こうか」

「なんだか、ドキドキするのぅ」

 もしかしなくても、たぶん彼女はコンビニに行ったことがないのだと思う。

 まるで初めての場所に出かける小さな子供のように、たまは無邪気な笑みを浮かべていた。



 忘隠町には、コンビニは二つしかない。

 美奈子さんの家から学校までの間に、青いコンビニが一件。美奈子さんの家の裏手を十分ぐらい行ったところに、赤いコンビニが一件。

 どっちに行こうかとたまに聞いたところ、裏手のほうが良いということで、僕たちは赤いコンビニに行くことにした。

 ウィーンと自動で開く扉にビクッと飛び上がるたまを微笑ましく思いながら、コンビニの中に入っていく。ちょうど入り口とは反対のほうがパン売り場となっているみたいで、僕はそこまでたまを誘導する。

「どれがいい?」

「な、なんだか初めて見るのがいっぱいあるぞ。朝食べたものもそうじゃが、不思議な物体が!」

「たまって、パン食べたこのないの?」

「うむ。我が家は、お米やお魚しか出てこないからのぅ。洋食は食べたことないな」

 それは驚きだ。今の日本で、洋食を食べたことない人はいないと思っていた。

「まあ、古いからの、妾の血統は」

 そう無表情で言うたまからは、さっきの無邪気さは伺えなかった。彼女は、屈んで、ボーとパンの群れを眺めている。その背中に、僕は聞きたいことを投げかけることはできなくって、「一時間もしないうちにご飯だから、大きいのは止めた方がいいよ」というだけにしておいた。

「朝から何も食べてないから、いっぱい食べたい気分じゃ。だけど、仕様がないのぅ。美奈子のご飯は美味しかったからなぁ」

 確かに、美奈子さんのご飯は美味しい。母のご飯も美味しいが、それとはまた違った美味しさが、美奈子さんの作る料理にはあった。

「よし、これにする! ふわふわしていておいしそうだからな!」

 たまが無邪気な笑顔で掴んだのは、僕も大好きなクリームパンだった。



 コンビニからの帰り道、歩きながらパンを食べているたまが、もぐもぐごっくんして徐に口を開いた。

「……学校とは楽しいところなのか」

 その問いに、なんて答えたものか、僕は迷ってしまう。

 今通っている分には、とても楽しい。でも、小、中のころの地獄を思うと、ただ「楽しい」という一言を口に出すことができなかった。あの頃は、とても辛かったのだから。

 だけど、今は――

「楽しいよ。今は、とっても楽しい。だけど、学校は人が大勢集まるところだからね、辛いこともある。でも、少なくとも忘隠高校が、とても良いところだって僕は思っているよ。皆、優しいからね」

 明るく元気な奏太。

 口は悪いが、何かと気にかけてくれる龍太郎。

 何を考えているかわからないが優しい、夕芽。

 それから、幼馴染の花桜梨。

 それぞれの顔を思い浮かべながら、僕はただ思ったことを口に出す。

「そうか」

 そういうと、たまは少し眉を潜めると、残りのパンをすべて口の中に押し込んだ。

「え、いやちょっと」

 息が詰まるよ、という言葉はいらなかったらしい。その前に、たまは「うっ」と顔を真っ赤にして、蹲った。そして、「はぁあああああ」と長いため息を吐き出した。

 一瞬パンを喉に詰まらせたのかと思ったが、それは違ったらしい。顔を上げた彼女は、とても悲しそうな顔をしていた。

「辛いことがあるなら、妾はやはり学校に行かなくって、正解だったな」

 投げやりなその言葉は、きっと彼女の思いとは正反対なのかもしれない。

 僕は言葉通り受け取ることができずに、長い黒髪の少女の瞳を見つめ返すことしかできなかった。

 こういった時、なんて声をかければいいのだろうか。

 奏太だったら、唐突に思ったことをそのまま考えずに口に出してしまうのかもしれないが、僕はどうしても口に出す前に考えてしまう。

 今から言う言葉が、人を傷つけないか。とか。今、自分が声を出してもいいのか。とか。いろいろと。

「ん?」

 唐突にたまが声を出した。彼女の耳がぴくっと動いたかと思うと、上から糸にでも引っ張られたかのように立ち上がり、僕の手を掴んだ。

「なあ、空也」

「え、あ、な、何?」

 小さく温もりのある手が、僕の手を握ってきた。

「早く帰るぞ」

「うん。今、帰る途中だけど」

 たまの顔はどこか鬼気迫っているように見えた。

「いいから、走るのじゃ!」

「あ、うん! て、痛いから僕の手を引っ張らないで!」

「お前がとろとろしておるからだろう! いいから早く走るのじゃ!」

 態勢を立て直す暇もなく、手だけが引っ張られる。僕は倒れないように気をつけながら、彼女に引っ張られるまま、危なっかしく走り出した。



 家の前。立ち止まった僕は、両手を膝について、乱れる息を整えていた。

「はぁはぁ。疲れた」

「ふぅ、はぁ、お、お主、男のくせに体力無いのぅ……。はぁあああああ、なっ、情けないぞ……」

 地面に手をついて、明らかに僕よりも乱れている息を整えながら、彼女は「がぁ」と声を吐き出して吠える。

 僕はポケットから家の鍵を取り出すと、カギ穴に差し込んでガチャッと鍵を開ける。

 後ろから服を引っ張られた。

「ま、待つのじゃ。妾は、まだ動けん、ぞ……。ここに、おいていくつもり、なの、か……」

「ご、ごめん」

 ぜえぜえと、せっかくの美貌を台無しの形相で見上げてくるたまは怖かった。

 鍵をポケットに入れると、玄関に背を向けてたまの隣に座る。たまはずるずると体を起こすと、僕の隣で体育座りをした。

 僕は彼女の横顔から顔を逸らすと前を向いた。ただの道路しか見えない。

 灰色のアスファルトを眺めながら、僕は隣にいるたまに聞いた。

「どうしていきなり走り出したの?」

 少し息が整ってきたのか、さっきまでの喘ぎ声は聞こえてこない。

「……ただ、走りたかっただけだ」

 絶対嘘だ、と僕は思った。運動なんてやってないことが一目瞭然なたまが、いきなり走りたくなるだなんておかしな話だから。

「……」

「家のものが近くにいる気配がした」

「ああ」

 僕は納得する。

 家のものというのは、昨日たまを誘拐する際、彼女の名前を呼びかけていた人物だろう。

 たまが悲しそうにそっぽを向いたため、ぼくはこれ以上この話をするのをやめた。

 変わりに、たまから視線を逸らして家の前の通りを何となしに眺める。

 家の前の通りに人気はなかった。この町は不思議なことに、夜になるにつれて外に出歩く人が少ない気がする。僕自身、夜に外を出ないからわからないが、前の住んでいた町だと夜中になるにつれてバイクの音が煩くなった。

 同じ都内なのに不思議だなぁ、と思いながら僕は何の変哲もないアスファルトを眺め続ける。

 すると、一人の少女が目の前を通っていった。赤い服を着た少女は、泣きながら誰かを探しているようだ。迷子だろうか。気になったので、立ち上がって声をかけようとして気づいた。

 少女の体は透けている。

 幽霊だ。

 僕は迷子の少女を見なかったことにして、座り直す。

 途端に視線を感じた。

 たまが、あ然とした顔で僕を見ている。

「視えるのか?」

 何を、だ?

 僕は見当がつかず、首を傾げる。

 彼女は僕から視線を外して前を向くと、ポツリと言った。

「魂が」

 ……魂?

「ぬ。わかりやすく言えば、幽霊だな。この世に未練を残した、魂の欠片のことだ」

「ゆう、れい」

 口の中で言葉を転がし、理解したと共に反応する。

 バレた! 僕が幽霊を見ることができることが!。

 瞬間、幼い頃にいじめっ子から言われた言葉を思い出す。

『嘘つき! 気持ち悪いんだよ!』

 ガタッと立ち上がり、僕は怯えた目でたまを見る。彼女は驚いた眼で僕を見上げた。

「どうしたのじゃ?」

 今にも悪口を言われるんじゃないかと思っていたので、あまりにも小動物じみたその姿に高ぶっていた心臓が少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 ――ああ、たまはそんな子じゃない。

 まだ一日しか一緒にいなかったけれど、それでも彼女は人の傷つく暴言や悪口なんて一言も言わなかった。少しわがままなところはあるけど。

 僕は座り直して、たまから視線を逸らす。少し気まずかった。

「もしかして、たまも……幽霊が見えるの?」

「ああ。……まあ、詳しくは『亡魂』というものじゃ。自我はなく、ただ生前思い残したことを永遠に再生しているだけの、『霊魂』じゃな」

「『亡魂』? 『霊魂』?」

「『霊魂』は簡単に言えば、幽霊のことだ。だけど、幽霊という言葉は少し大きいな。『霊魂』は、幽霊の一部と行ったところかの。まあ、妾の一族から言わせると、幽霊というよりも『魂』といった方が正しいかもしれぬ」

「魂……」

「ああ、『魂』じゃ。……時に空也は、人に害をなす幽霊を見たことがあるか?」

 言われて少し考える。でも、僕が今まで生きてきた中で、やっぱり人に害をなす『幽霊』はいなかったように思う。

「ない、かな」

「そうか。なら、『幽霊』が見えるお主に一つ忠告しておいてやる」

 たまはそう言うと真剣な顔をした。

「この世には、平気で人に害をなそうとする『幽霊』がいる。そやつらは『死霊』といわれており、『精霊』の一部だ。『精霊』は『亡魂』よりも強い思いを持っておってな、人間を認識することができるのだが……それが善良のものだったら大丈夫じゃ。けれど、もしその思いが狂気にかられるものだったら、平気で人に害をなそうとする。只の人間は弱く、『死霊』の呪いには勝てぬからの……。狂気に駆られて、誰でもいいから呪いたいと、そう思っている『死霊』と出会ったら、とりあえず逃げるのだぞ」

 この世は結構多い。

 そう言ったたまはとても苦しそうで、眉を潜めると俯いた。

 その顔が、どうして自分はこんな話をしてしまったのだろうというような顔をしているように思えて。

 僕は元気づけようと笑顔を浮かべる。

「心配してくれてありがとう」

 きっと、自分の素性を暴かれると思ったのだろう。

 だけど僕は、彼女を傷つけてまで、彼女が隠そうとしているものを無理やり訊きだそうとは思わない。いつか自然に彼女が話してくれるのを、待つだけだ。

 『霊魂』『死霊』『精霊』など、気になる単語はあるけれど、それでもそれもすべては『幽霊』なのだろう。

 産まれたころから『幽霊』が見える僕には、もう日常になり果ててしまった僕には――関係ないことだと、僕はそう思っていた。



 その日の夜、僕は夢を見た。次の日起きたら忘れていた夢を。

 小学生の頃、花桜梨と一緒に遊んでいた時のことだ。

 夕方の公園。砂場で城を作ろうと二人で奮闘していると、いつの間にか近くにいた少年が話しかけてきた。「一緒に遊ぼうよ」と。だけどその声に花桜梨は反応せず、僕にしか聞こえていたなかったものだから、それが幽霊なんだと、僕は『話しかけてくるなんて珍しいなぁ』と思いながらいつもの通り気にしないことにした。

 少年がしきりに話しかけてくるが無視。

 何しろその時の僕は、花桜梨と一緒に遊んでいるのが楽しくって、少年の言葉は耳にも入ってこなかった。最後にした舌打ちにも、僕は気がつかなかった。

 もし今の僕がここにいたらわかったかもしれない。彼がただの幽霊じゃないということに。たまのいう『死霊』だということに。

 だけどその時の僕は、ただ周りにいるだけの存在を『幽霊』だとしか認識しておらず、細かいことを気にする余裕もなかった。

 そして事故は、それから二週間後に起こったのだ――。

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