第二章 『魂』①
カーテンの隙間から朝日が侵入してくるのに気づき、僕は自然に目が覚めた。
ぱちっと瞬きをすると、布団から這い出して、もそもそと学校の用意と着替えを済ませる。
叔母の家は二階建ての一軒家で、僕はしばらく使っていなかった二階の寝室を使わせてもらっていた。二階には、別に客間が二つあるが、その内の一つは昨日からとあるお客さんがいるけれど、もう一つは全く使われていないため、埃が居座っている。
叔母は一階の和室で寝起きをしており、お風呂やトイレも一階にあった。
僕は階段を下って、すぐのところにあるリビングの扉を開いて中に入って行く。しーんという、何とも静かなそこには、テレビとそれを見るためのソファー。それから、食卓とそれを覗きこむことができる、キッチンがあった。
居間の電灯をともすと、壁にかけてあるエプロンをつけて、冷蔵庫の中から食材を取り出して朝食の用意を始める。
最初、この家に越してきたとき、叔母は「特になにもしないで、我が家のようにのんびりしていいのよ~」と言ってくれたけれど、これから住まわせてもらう身としては、なにもせずにお世話になるわけにいかないと思い、叔母にお願いして朝食とゴミ出しを勝って出たのだった。
朝食といっても、それは簡単なもので、叔母がスーパーやコンビニで買ってきたパンと、僕がこれから作る卵焼き(それから目玉焼きとスクランブルエッグを毎日リピートして作っている)とソーセージとベーコンを焼いただけという、簡単なものだ。
叔母の家に越してきて、五日目。
いつもは、叔母と自分の二人分しか作らないが、今日は三人分作っていた。
なぜかというと、お客さんが二階で寝ていらっしゃるからだ。
ふと、彼女はこういうご飯は食べるのだろうか、と僕は思った。
彼女の身なりや言葉遣いは変わっていて、もしかしたらいいところのお嬢様なのかもしれない。
だとしたら、こんな庶民のご飯を、彼女は気に入ってくれるのか。ちゃんと食べてくれるのか、心配になったけれど、僕はこれ以外のものを作れないのだから仕方ない。僕の分のパンを、あげればいいだけのことだ。僕が作るのより、市販で売られているパンは、とてもおいしいはずだから。
「空也君、おはよー。なんだかいい匂いね」
朝食の用意が終わった時、ちょうど叔母さんが起きてきた。母の妹である美奈子さんは、三十代後半らしいが、お洒落な色のパンツスーツを着ている彼女は若々しく、二十代でも通用しそうな美貌を持っている。アパレル関連の仕事をしているらしい。
美奈子さんは、食卓につくと手を合わせて「いただきまーす」といって食べだした。
僕はその前の椅子につこうとして、三人分の食事が用意してあるのを思い出す。
椅子をもとに戻すと、二階に向かっていった。
二階にある僕が使っている部屋の向かいに、客間が一つある。
客間のドアをコンコンと、二回ノックした。
「あれ? たま?」
まだ寝ているのかな、と思いさっきより大きめの音でもう一回ノックすると、ガタッとなにかが落ちる音がした。
そして数秒後。ドアがゆっくり開き、髪の毛がぼさぼさの少女が姿を現した。
「ぬ……。空也ぁ、なんの用じゃぁ。妾の睡眠を妨害しおって」
「あ、起こしてごめん。でももう朝だから、ご飯食べて仕度しないと」
ボーとした顔のまま、少女はカクンと首を傾げる。
「……仕度? なんの?」
本当に、何のことかわかってないだろうか。少女は不思議そうな声を出す。
「えっと、学校の用意だけど……」
少女の首が別方向にまた傾いだ。
「学校?」
まさかな。
「ぬぅ。あのなぁ、空也。すまぬが、妾は学校に通っておらんぞ。だから、学校の用意をする必要なんてないんだ」
たまはそう言うと、小さな欠伸をした。
やっぱり。
さっき僕が予想したことは、まさしくこれだった。
同じ年だから当たり前に学校に通っているものと僕は思っていたが、彼女が不思議そうに呟いた言葉で、何となく予想がついてしまった。彼女は学校に通っていないんじゃないか、って。
ここら辺に住んでいる高校生は、引越しでもしない限り、皆忘隠高校に通っているらしい。そして彼女は同じ歳だ。学校に行っていたらもちろん同じ年なので同じクラスになっているはず。
だけど昨日、教室で彼女の姿は見なかった。綺麗な黒髪の小柄でかわいい子がいたら、記憶に残っていてもおかしくないはずだけど。
だから、彼女が言っていることは本当なのだろう。
たまは学校に通っていない。
理由は解らないが、きっと家の事情なのだと思う。
僕は、再び寝床に戻ろうとする少女の手を思わず掴んでしまった。
不機嫌そうな顔を向けられる。
「ぬぅ?」
「あ、仕度は、しなくてもいいから、とりあえず朝食食べよう!」
「朝食?」
「おなかすいてない?」
「そういえば……」
ピカッ。とたまの目が光った気がした。
「腹ペコじゃ」
飢えた野獣のような目で僕を見ないで欲しい。
昨日はあれから、たまと一緒に帰宅した。
いきなり連れてこられたたまは、最初何が起きたかわからないとばかり放心していたが、ソファーに座らされるなり非難がましい目を僕に向けてきた。
「なんのつもりじゃ?」
てっきり、やっぱり誘拐犯だったのか、と騒がれると思っていたから少女の言葉に少したじろいだ。
頬をぽりぽりして僕は少女から目を逸らすと、テレビのリモコンを手に取る。
「君が、家に帰りたそうに見えなかったから、つい」
「ついで、妾に断りを入れることなく連れてきたのか?」
冷たい声だった。
僕は彼女の目を見ることができず、手持ち無沙汰でチャンネルを適当に弄る。
――どうしよう。
勢いで連れてきてしまったものの、美奈子さんの了承どころか、彼女自身の思いも聞いていなかった。
それに、彼女の家の人から見たら、僕はやっぱり誘拐犯じゃないか。
これからどうすればいいのかわからずに、僕はテレビのチャンネルを適当に変えていく。
この時間は、お子様向けの番組以外はすべてニュースしかやっていなかった。
もしかしたら通報されていて、もうすぐニュースに誘拐された少女の顔が映し出されるかもしれない。そんなの馬鹿な考えだってわかっているのに、ニュースを見見ていられなくなり、お子様向けの番組にチャンネルを合わせたままリモコンをソファーの上に置いた。
「誘拐犯め」
びくっ、と背筋を伸ばしてしまう。
可愛らしく鈴の鳴るような幼い声は、最初テレビから発せられたものだと思ったが、違った。同い年の少女の声だった。
「こっち見んか、あほう」
「ごめん」
振り向くと、彼女は俯いていた。膝についている手は握りしめられており、かすかに震えている。
相当怒っているらしい。
「ごめんね」
もう一度謝る。
彼女はその言葉に上げた顔を歪める。
「なんで謝る? 別に妾は謝ってほしいわけじゃないぞ」
「だ、だって、僕が勝手に連れてきたから」
「べ、別に妾に断りを入れてくれればよかったのじゃ。誘拐しても」
「どういう意味?」
「家に帰りたくないから」
そう発した声は、泣きそうな顔とは違い、とても冷たかった。
「妾はただの代わりでしかない。あの家に妾がいてもいなくっても、変わらんのだ……」
もし、僕が熱血漢に溢れる情熱的な主人公だったら、「そんなこと言うんじゃねぇ!」とでも言っていたのだろうか。もし、僕が相手のことなんてどうでもいい、破天荒で自分のことしか考えない自己中の主人公だったら「あっそ」と切り捨てていたかもしれない。
だけど僕は何も言うことができなかった。
まるで迷子の子犬のように、身を震わせている彼女が儚く思えて。
僕はただ思ったことを言うのだった。
「やっぱり、君を誘拐してきて良かったかもしれない。自分の居たくない所にいても、悲しいだけだから」
美奈子さんは優しく温厚だから、きっと了承してくれるだろう。
「もし、君さえよければなんだけど、少しの間この家に住まない?」
誘拐犯になってもいい。彼女のこんな悲しい顔なんて見たくないから。冷たく発せられる言葉に、冷え冷えと自分の芯まで凍るような思いしたくないから。
少女は困惑して眉を震わせると、呟いた。
「良いのか?」
こうして、昨日から彼女はこの家で暮らすことになった。
その後、帰ってきた美奈子さんは、最初驚いた顔をしたものの、僕が諸々の事情(もちろん誘拐とかは省いて少し脚色もいれて説明した)を聞くと、笑顔で了承してくれた。
――そして、今に至る。
神前たま。
それが少女の名前だった。
たまは「いただきます」をした後、ご飯の感想を言うことなく、無表情で食べ終えた。
先に食べ終えていた僕は、彼女の食器も一緒に片付けながら、まだ眠いのかボーとした顔で部屋に戻っていこうとしたたまの背中に待ったと声をかける。
「たまはこれからどうするの?」
「ぬぅ? そうじゃのぅ、寝る」
「そうなんだ」
「ここでは寝ることしかなさそうだからな」
確かに、この家にある娯楽といえば、テレビぐらいだろう。
漫画やゲームなどがあったらよかったのだが、僕は残念ながらそれらにあまり興味がなく所持していない。
だけど、ずっと寝ているのは健康に悪い。
外で遊んでいたらといいそうになり、僕は誘拐犯だったことを思い出して、背筋が冷や冷やした。
たまは、やはりボーとした顔のまま僕の顔をのぞき込んでくると、言った。
「空也は、学校行かなくってもいいのか? もう八時過ぎてるぞ」
彼女の言葉で気がついた。
「わぁ!」
叫ぶと、居間の入り口に用意していた鞄を手に持つ。
「昼は、冷蔵庫の中にあるのやカップ麺しかないから、それですませるんだよ!」
煩わしそうな顔で耳をふさぐたまにそう言い、慌てて家を出る。
ここから学校までは約三十分。八時半までに登校しなければ、遅刻扱いになってしまう。
何とギリギリにたどり学校に着いた僕は、昨日から定位置になった自分の席で、うつ伏せになって肩で息をしていた。
チャイムが鳴ると同時に、先生が教室に入ってきた。僕は体を起こすと前を向く。
朝のホームルームでは、ここ数日交通事故が多いので注意しましょうということと、馬鹿が一人遅刻決定したことを先生が大げさに話していた。
ホームルームが終わった頃には僕の息も整っていたので、ごそごそと一時間目の授業の用意をしていると、視線を感じたので顔を上げる。
花桜梨と目が合い、笑顔で手を振ってくる。手を振り返し、僕はふと隣の席をみる。
そこには誰も座っていない、空白の机と椅子があった。さっき先生が言っていた遅刻が決定した生徒とは、隣の席の生徒なのだろうか? そう思ったが、窓側から二列目の席にもう一つ空席があることに気づいた。あそこは確か奏太の席だったはずなので、遅刻が決定している馬鹿とは……。
ガラッと教室の扉が大きな音をたてて開かれる。
「いやぁ、すまんすまん昨日の事故で車がガードレールにぶつかったらしくって、そのガードレールを来る途中に見つけて観察していたら遅れてしまいました! って、なにもうホームルーム終わってる! よし! じゃない残念だ! あ、遅刻してすみません! て先生いないからいいかぁー。あ、龍之介おはよう! 空也もおはよう! に、新宮さんもおはよう!」
「うん、おはよう。尼野君」
自分の席に座りながら、左斜め前の席にいる花桜梨に挨拶をする奏太は、なんだか緊張している様子で挙動不審になっていておかしかった。だから少しして挨拶を返すのを忘れてしまったことに気づき、行き場を失った声はどこにも届くことはなかった。
一時間目担当の先生が入ってきて授業が開始される。
昼休み、前の席の生徒がいないことを良いことに、奏太が売店で買ってきたおにぎりにぱくついている。僕はコンビニで買ってきたおにぎりを食べながら、チラリと花桜梨を盗み見ていた。彼女は、友達二人と談笑しながら弁当を食べている。
「空也ってさ、新宮さんと付き合ってんの?」
「ぶほっ」
ご飯粒を吹き出してしまう。
僕は慌てて持っていたおにぎりを握りしめた。
「ち、違うよ! 僕は花桜梨とそんな仲じゃ……」
声が大きくなっていたからか、クラス中の視線が僕たちに集まってしまった。女子三人とご飯を食べていた花桜梨も不思議そうにこちらを見ており、恥ずかしくなって俯く。
「付き合ってはいないから」
「〝は〟、ってことは、だ。思いは、寄せているわけ?」
「そ、それは……どうだろう。しばらく会っていなかったから、よくわからない」
「ふーん。でも、なんかすごいよな。新宮さんといえば、大人しくお淑やかで清楚で、クラスのマドンナ的な存在なんだぜ!」
奏太の言葉に、少し引っ掛かりを覚える。あの頃の花桜梨は今と同様に、髪の毛が長く綺麗だったけど、一日中走り回っては頬に泥をつけた笑っているような活発な少女だった。
だけどあれから何年もたっているのだ。変わっていてもおかしくはない。
手に残ったおにぎりを食べ終えると、周りに散らばったおにぎりの残骸をかき集めて片づけ、僕は自分の席に戻るときに目についた隣の席の空白に再び気がつき、お茶を一気飲みしている奏太に声をかける。
「昨日から気になっていたんだけど、僕の隣の席って誰かいるの?」
「――うっはぁ! 意味なくうめぇ! あ、隣って、誰だっけ?」
「入学してから一度も登校してきていない不登校少女の特等席さ!」
いつの間にか隣の席に笹岡さんがいた。彼女は不敵な笑みを湛えて、キラリと眼鏡を光らせている。
「えっと、だれ?」
「空也君酷いなぁ! 夕芽だよ! さ、さ、お、か、ゆ、う、め!」
「あ、ごめん。笹岡さんの名前じゃなくって、そこの……不登校少女のことで」
「笹岡さんなんてそんな他人行儀な呼び方じゃなくっていいのよ、空也君。気軽に夕芽って呼んでちょうだい」
「う、うん。夕芽さん?」
「なんで疑問系!? そしてさん付けはいらないぜ、空也殿よ。呼び捨てで呼びたまえ!」
変な口調で夕芽がフッと笑う。
「て、おい。いきなり出てきて俺の出番とるんじゃねぇ!」
「あら、いたの。馬鹿助」
「馬鹿助って誰だ! 俺か? というか、お前らなんでそんなに俺をバカバカって馬鹿にするんだよ馬鹿!」
「やだ。クラス順位三位以内を常にキープしているあたしに馬鹿とはとんだ不届きものね。空也君。こいつとつるんでいるとクラス順位ワースト二位になっちゃうわよ」
それは嫌だ。奏太といると楽しいが、これからは程々にした方がいいのかもしれない。まあ、冗談だけど。
「で、何の話だっけ?」
「今アンタが座っている席の、不登校少女のことだろ?」
「ああ、そうだったわね。えっとね、この席の子、一回も学校に来ていないの。なぜだか知らないけどね。前先生に聞いたとき、確か……この子は別に学校に来なくっていいのよ、とか言っていた気がするんだけど」
「は、なにそれ。学校に来なくてもいいなんて羨ましいな!」
「理由は解らないのだけどね、この子は特別らしいの」
「特別……」
思わず呟く。
学校に名前だけ在籍をしているのは、傍から見るとどうしても羨ましく思ってしまう。
だけど、夕芽が続けていった言葉、空白の席の主の名前を聞いて、僕は悟ってしまった。
夕芽が顎に手を当てながら口を開く。
「名前は確か、神前たま、だったかしら?」
――彼女の名前を。
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