八話 汚されたもの
八話 汚されたもの
しらべとの飲み会を終えて土日月。僕はその三日間、断片化された飲み会の記憶を噛みしめながら過ごした。一人で部屋ではしゃいだり落ち込んだりする姿は、不気味そのものだったが、それも仕方がない。アルバイトや買い物のときなど、人前に出る際はきちんとしていたのだからそのくらいは可愛いもんだろう。
九月二十一日、火曜日になって三日ぶりに学校に登校する。相変わらず一限目には遅刻してしまうが、校門から教室までの道のりを歩いている生徒は意外と多く、購買や食堂でうろうろしている人も見受けられた。遅刻して来る者、講義を抜け出す者は意外と多い。
講義室に着くと、できるだけ物音を消し、いつもの席に腰かける。
ハルがいない。
この三日間で気合を入れて心霊現象について調べるって言ってたからなぁ。あいつは、入り込むと他のことがどうでもよくなる。頭はいいのだが、勉強ができない理由はそこらへんにありそうだ。大方、昨晩、遅くまで調べ物をしていて、朝、起きれなかったとか、そういう話だろう。
授業はまだいい。今日の午前中の授業は代返が可能なものだ。
けれど、午後にはゼミがある。僕は希望のゼミに落選したせいで、あと三ヵ月くらい先の話なのだけれど、僕の友人たちの多くはゼミがあるはずだ。
少人数で先生と顔を合わせて行うゼミナール。こればっかりは代返は使えない。
一度くらいの欠席なら、まあ単位がもらえないということはないだろうけど、やっぱり最初から寝坊で欠席となったら心象は悪くなる。
『どうした? 病気? それとも寝坊?』
授業中に一通だけメールを送り、返信を待った。
それから数時間が経ち、返信は三限の終わりごろに届く。
『今、起きた。飛んでく』
あいつの家から学校までは一時間弱かかる。
もう少しで三限が終わり、一時間の昼休みに入る。ゼミは四時限目の枠から始まるため、制限時間も一時間弱。
着替えて荷物を持ってすぐに飛び出しても、間に合うか微妙だ。人ごとなので、正直、面白い見世物程度にしか考えられないが、それでも、まあ、頑張ってもらいたいと思う。
午後、予定のない僕は友人を引き連れて、優雅な昼食タイムに向かった。
◆
食堂で昼飯を食べた僕は、部室で読書をしていた。昼休み中にハルからメールが入ったのだ。
『面白い情報が手に入ったから、部室で待ってて。今日のゼミは初回だから、そんなに遅くはならないはず』
この三日間で、何か重要な話を入手したのだろう。
それを誰かに語って聞かせたい。
気持ちはよくわかる。
僕もハルに金曜日のしらべとのデートのことを聞いてもらいたかった。
どうせ暇だし、帰っても本を読むしかないのだ。なら、部室で読書をして待って、ハルと情報の交換をした方がいい。
もしかしたら気まぐれでしらべが部室に来るかも知れない。そういう下心もあった。
昼休みが終わってから一時間が経ち、時刻は三時過ぎを示している。
……遅いなぁ。ゼミの初回なんて、ゼミの内容の説明と課題のグループ分けくらいで終わりじゃないのか? それが、この時間と言うことは、初回からがっつりと課題が始まっているのかもしれない。
本はだいぶ読み進めていたが、まだ全体の半分くらいだ。部室でハルを待っている間に読み終わってしまうということもないだろう。なら、もう少しゆっくりと待つことにする。
三年生薬学部の津島さん、ピーチさんはきっと二年生よりも忙しいし、一年生も後期からは実習が始まる。普段から部室にはあまり来ない奴が多いが、実習が始まったら毎日の課題でより一層、部室から足が遠のくことだろう。
部室には僕一人。テーブルの上に五〇〇ミリリットルの紅茶が置かれている。優雅な読書の時間。次のページに行こうと本に手をかけた時、部室のドアががちゃりと開いた。
「あれ、カナタ」
ゆうだった。
「やあ、どうしたの、早いね」
ゆうは壁に折りたたまれて立てかけられていたパイプ椅子を開くと、テーブルを挟んで正面に座った。
「そういうカナタこそ。わたしは、今日の実習は実験全体の説明と器具のチェックだけだったから」
「僕は本来、ゼミがあるはずなんだけどね。一次希望のゼミの選考に漏れたせいで予備期間に別のゼミを受けることになった」
「あちゃー、じゃあテスト勉強が大変だね」
「全くだよ」
この時間の猶予をテスト一ヵ月前に持って行きたいものだ。ゼミの課題と留年の恐怖で板挟みになって、苦しい思いをするのが目に見えている。この無駄な時間をテスト勉強に使おうにも、後期が始まってばかりで、そもそも授業もまともに始まっていないという状態だ。勉強をしようにも、何を勉強したらいいかもわからない。
僕は本を傍らに置く。ゆうは購買の袋からペットボトルを取り出した。購買で新発売のポップが出ていた、新フレーバーの紅茶だ。
「そういえばしらべ、カナタにすごい感謝してたよー」
唐突なしらべの話に、一瞬にして全身の筋肉が強張る。
「今日会ったら、飲み屋からの記憶がないって言ってて、たぶんカナタが送ってくれたとは思ってたみたいだけど、どうして自分の家を知ってたんだろって、ずっと疑問に思ってたみたい」
「え……、ひょっとして僕、しらべの中でストーカーみたいなイメージになってんの?」
そんなの嫌過ぎる。確かに、送っている最中、家まで送るのはやっぱりやり過ぎなんじゃないかと思ったんだ。誰か、しらべの家の近くに住んでいる女友達を呼んでもらって、その子に届けてもらおうかとも考えた。
しらべだって、僕みたいな男に、家の住所を知られたくないに違いない……。
「違う違う! さすがにそんな風には思ってないって。そもそもカナタが送ってくれたって記憶も曖昧みたいだったし“たぶん、カナタが送ってくれたんだろうけど、でも、うちの住所知ってるわけないし、なら誰が送ってくれたんだろ……?”みたいな」
恩を売るつもりはないけど、僕が送ったってことすら曖昧なのか……。もしかしたら好感度が上がったかななんて期待した僕が馬鹿みたいだ。
「だから、ちゃんと説明しといたよ。あたしに電話かけて来て、しらべを送り届けたいから、家までの行き方を教えてほしいって言われたって。しらべ、申し訳なさそうにしてたよ。なんか、色々カナタに任せっちゃったなって。そうそう、タクシー代と飲み代も払いたいって」
「そんなの別にいらないよ。僕が誘ったんだし。来てくれただけでこっちが感謝だよ」
「はははー、ならそれは直接しらべに行ってあげて。まあ、でもお金は受け取ってあげた方が向こうも喜ぶと思うけどね。あの子、あんま人に対して貸しを作るの好きじゃないし、ただでさえ、家まで送り届けるっていう貸しを作ってるんだから、お金くらい素直に受け取ってあげたら?」
「でも、こういうのは男が代金持つんじゃないの?」
「“友達として”ご飯に行ったんでしょ? それなら割り勘が普通なんじゃない? それに、付き合ってたって割り勘にしようって言うのを拒否して全額負担するっていうのは、単なる押しつけだと思うけど」
そういう考え方もあるのか。
なら、素直に受け取っておこう。
「どんなお店に行ったか聞いたんだけど、結構いいお店だったみたいだね。日本酒がおいしくて、焼き鳥もおいしかったって」
あの日の話。
楽しい記憶と共に封印していた嫌な記憶も思い起こされる。
「……でも、僕、すげー失敗しちゃったんだよ。店に着いたら、すごい行列ができててさー、予約も取ってなかったし。しらべ、待たされるの嫌いじゃん? それで僕、どうしようかあたふたしちゃって、ただその場でぐだぐだやってたら、しらべが店のお客様シートに名前を書いて、予約して来ちゃって。そのままマックで一時間、時間を潰すことになったんだけど、しらべ、ずっと携帯をいじったまま、だんまりで……。すごいダメな姿を晒したから、もう絶対に僕とは食事に行きたくないって思ってると思ってたんだけど」
「え? でも、しらべ、あのお店はもう一度行きたいって言ってたよ?」
は?
「待たされたって話もしらべから聞いたけど、別にカナタのせいとかは言ってなかったし。むしろ、カナタのおかげで新しいお店が見つかってよかったって」
僕はいつの間にかテーブルに手をついていて、前のめりにゆうの話を聞いていた。
「マジで? 僕、あの飲み会全然ダメだったんだけど。下調べしてなかったせいでしらべを待たせるし、酒飲めないのに居酒屋に誘ったことは不審に思われてたし、僕に話を振ったりとかしてずっと気を使わせてたし、ビビりだってことはバレてたし、僕がしっかり注意しなかったせいでしらべは潰れちゃうし……」
「えぇ……? そうなの? でも、しらべの話からは全然悪い感じはしなかったよ……? っていうか、気にし過ぎじゃない?」
そう言って、ゆうは苦笑いを浮かべた。
「はぁ~」大きくため息をつくと、僕はソファに深く腰掛けた。「……そーか、よかった。本当に……」
休日三日間、しらべとの初の二人きりでの食事を喜ぶ半面、もっとうまくやることができたのにと同時に激しい後悔もしていたのだ。むしろ、後悔の方が大きかったと言っても過言じゃない。
「だって、人気店だったんでしょ? そりゃ、待たなきゃ入れないよ。それくらい、しらべだってわかってるはずだし。むしろ、自分のためにいいお店を探しておいてくれるなんて、嬉しいと思うよ」
一番いいお店にしらべを連れて行きたい、その思いはしらべに伝わっただろうか。
「それに別にお酒飲めないことも気にしなくていいと思うけど。それもだって、お酒が飲みたいっていうしらべに合わせたんでしょ? たぶん、しらべにお酒を飲まないことを聞かれたんなら“お酒を飲まないくせにどうして誘った”じゃなくて“お酒を飲まないのに、わざわざあたしのために居酒屋にしてよかったの?”的な意味だったんじゃない?」
しらべに満足してもらえばいい。それで僕も満足だ。
酒が飲めなくても、楽しげなしらべを見ていれば僕も楽しくなる。
「気を使ったりはするだろうね。そりゃ、男子と二人だったらずっと話を聞いてるだけっていう風に行かないだろうし、普通のことじゃない? それに、カナタが臆病なのはみんな知ってることだし、こんな風に言っていいのかわからないけど、今更気にすることじゃないでしょ。しらべはお化けが好きだけど、別にお化けが好きな人を好きなわけじゃないんだよ?」
それはそうだ。
でも、しかし。
「けど、やっぱり趣味は共有できた方がいいに決まってる。しらべだって、お化けが苦手でぶるぶる震えてる奴よりも、一緒に恐怖に立ち向かえる人の方が好感を持つはずだ」
「それは……」
ゆうが辛そうに目を反らす。
……わかっている。
ゆうは卑下している僕を励まそうとしてくれているのだ。
僕はその好意を踏みにじろうとしている。
励ましを僕自身が否定してどうするんだ。
……僕は最低のクソ野郎だ。
でも、黙ってられなかった。
ゆうだってわかってるはずだ。
「しらべは、幽霊に果敢に立ち向かってくような人が好きだ。……例えば――津島さんとかね」
僕は忘れていた。
しらべとデートができたからって舞い上がっていた。
どんなに僕がしらべとのデートを重ねようと、しらべの心の中にいるのは津島さんだけなのだ。
楽しくおしゃべりしたって。
一緒にお酒を飲んだって。
寝ているしらべを家に送り届けたって。
しらべの心の中にはいつも津島さんがいる。
言葉にして見たら、もう何もかもが上手く行かないような気がして来て、僕の努力の全てが無駄になったように感じて、心がビクビクと震える。痙攣する。
「――津島さん? どうだろうね、しらべ、好きなのかな?」
「隠さなくたっていいよ。しらべを見てたら誰だってわかることさ。あれだけはっきりと態度が変わってれば」
「……うん、そうだね」反らしていた目をこちらに向ける。「そう、しらべは津島さんのことが好きだよ。あたしたちで飲むと、いつもそれは言ってる。でも、だからってカナタに可能性がないわけじゃない」
「慰めでしょ」
「違う」
「僕は津島さんに勝てる部分なんて一つもない」
「勝つ、負けるの話じゃない!」
「わざわざ劣ってる人を好きになる人がいる?」
「カナタが劣ってるっていうのは、カナタが自分で言ってるだけじゃん。誰もカナタが劣ってるだなんて思ってないよ」
「思ってる思ってないの話じゃないんだ。じゃあ、聞くけど、僕が津島さんに勝てるものって何? 容姿? 勉強? ファッション? 男らしさ? それとも僕の方が大人っぽい?」
「人としての魅力は、そんなことじゃ決まらない。第一、カナタが列挙したそれだって、人によって基準が違う」
「“一般的に”で聞いてるんだ。人それぞれだなんて、明言を避けるためだけの言い逃れだよ。……ごめん、でも、これでわかったでしょ。津島さんは、男の僕から見たって、カッコいいと思うくらいなんだ。僕だって、心から尊敬してる。あんなにできた人は、そういない。……だからこそ辛いんだ。一つだって勝てるところがない。ライバルですらないんだ。もう、しらべのことを諦めるしかないんじゃないかって思えてくる」
「……カナタにだって、津島さんよりいいところはきっとある。たくさんある。……それが何かって聞かれたら、うまく言えないけど」
「はは、いいよ。ありがとう」
津島さんより優れているところがあったとしても、それは恐らく極めて部分的なところで。
例えば読んだ小説の数だとか。
例えば面白い話を知っているだとか。
でも、そんなのは実に些細なことで。
だから何なんだって感じだ。
けど、ゆうが僕を見る目が鋭くなる。
「カナタのいいところははっきりとは言えないけど……カナタの悪いところならはっきり言える」
はは、とうとうゆうも僕に愛想を尽かしたか。
そりゃそうだ。
相談に乗ってくれてる恩人に対して、慰めの言葉を踏みにじり、これだけ下らない愚痴を浴びせれば、呆れ返るってもんだ。
「うん、何?」
どんな罵声でも受け止める覚悟でゆうの言葉を待った。
「カナタのいけないところは、自分を必要以上に陥(おとしい)れようとするところだよ。どうしてそんなに自分を悪者にしようとするの? カナタはカナタのいいところがあるし、みんなそれを知ってる。だから、みんなカナタの友達なんだし、あたしだってカナタの相談に乗ってあげたいと思う。カナタのことを津島さんと比べようとは思わないし、もちろんカナタのことをハルやダイキと比べようとも思わない。カナタはカナタじゃん。カナタが自分で思ってる悪いところを含めてカナタなんだよ。そして、そんなカナタをみんな好きなんだよ。あたしだってお化けは苦手だよ? カナタはあたしのこと嫌い? しらべだってお酒を飲んで潰れてみんなに迷惑をかけてる。でも、そんなしらべが好きなんでしょ? ハルだって勉強はできないよ? でも、だからって他のみんなより劣ってるってカナタは思うの?」
僕は首を振った。
厳しい言葉が飛んでくると思っていた。
けど、帰って来たのは優しい言葉で。
ゆうの懐(ふところ)の広さに、もう、僕は堪え切れずに涙ぐむ。
人前で、しかも女の子を前にして泣くだなんて、また後で後悔しそうな出来事だが、頭ではそう考えても涙は止まらない。
ゆうは困ったような顔をして、しかし、笑みを浮かべて見守ってくれた。
僕の嗚咽が止まるまで、どのくらいかかっただろうか。
ずっと心に引っかかっていた棘が取れた気分だった。
津島さんと比べる必要なんてなかった。
僕は僕自身の良さで勝負すればいい。
僕の愚痴を聞いてくれただけでなく、心の箍(たが)を外してくれるなんて。
「ありがとう……ずずっ」
まだ、涙のせいで鼻を啜(すす)らなければならなかったが、だいぶ落ち着いた。もう涙も出て来ない。
「いえいえ、どういたしまして。と言っても、あたしは大したことしてないけどね」
いやいや、感謝してもしきれないくらいだ。
本当にゆうに相談してよかったと思う。
「はは……。でも、さっきはああ言ったけど、もちろん、自分で直したいと思う分にはいいんだよ? あたしだって、お化けが苦手なのは直したいと思うし、しらべの酒癖の悪さやハルの勉強嫌いだって直せるなら直した方がいいに決まってる。……そうだね、特にしらべは直した方がいいね。お酒を飲んだら、寝ちゃう癖。あたしたちがいるときだったらいいけど、あの子、本当にどこでも寝ちゃうから。一度、一人で帰った時は電車の中で寝ちゃって、そのまま終点まで行って、結局その駅の近くのファミレスで一夜を過ごしたこともあるみたいだよ。人に迷惑をかけるとかいう以前に、自分の身の安全のために、あの子は直さないと」
しらべがお酒を飲む時は、隣にいてあげたいと思う。
そして、僕がまたしらべを家まで送ってやるのだ。
酒を飲んでそのまま眠ってしまうのは、確かに悪いことだけれど、同時にそんなしらべを守ってやりたいとも思う。
「しらべ、お酒好きだよね、特に日本酒」
僕は部室備え付けのティッシュで顔を拭きながら言う。
「飲む機会があれば、飛んで来るくらいだから」
「そう言えば、学校初日、僕らが心霊体験をした日も、しらべ二日酔いだったみたいだね」
「あー、そういえば。でも、よく覚えてるね」
学校を歩き回ったあの日、しらべは調子が悪そうだった。病気を心配したが、二日酔いだと聞いて拍子抜けしたのを覚えている。
「……まあ、一応ね」あまりしらべのことを気にかけてるのを知られたくなくて、曖昧に答えながら、話題をずらす。「どうやら再試が終わって、はっちゃけて飲んだみたいだね。一人で飲んだのかな? それとも、ゆうたちと飲んだの?」
何も考えずに軽い気持ちで尋ねたのだけれど、一瞬ゆうの目が泳いだ。
それは、あまりよくないことの予兆だ。
「うん……。辰巳さんからの誘いだったんだけど、再試が終わった祝いだってことで、あたしとしらべ、それから辰巳さんとダイキ、そして津島さんと一緒に飲むことになってたんだけどね」
夏休みに肝試しに行ったメンバー。
嫉妬の念に、再び火が灯りそうになる。
ゆうも、僕の目の色の変化に気付いたようで、慌てて付け加えた。
「あ、でも津島さんは結局来れなかったみたいだよ? 製剤研究部の集まりがあったみたいで、こっちの集まりは無理だったんだって」
津島さんは来なかった。
それはいいことなのか、悪いことなのか。
結局のところ、しらべは津島さんに惹かれて飲み会に参加したという事実は変わらないわけで。
でも、津島さんに対抗意識を燃やしても仕方がないと、さっきゆうに諭されたばかりだ。
だから、できる限り下らない感情は殺す。
「あれ、でも来れなかった“みたい”? ゆうもその飲み会に参加したんでしょ?」
「え、いや? あたしも実はバイトが入っててさ。せっかくだったけど、ちょうど飲み会の時間とバイトの時間がかぶってて。しらべやダイキから“来ないのー?”ってメールが来てたけど、悪いことしちゃったな」
「ということは、その飲み会に参加したのってしらべとダイキと辰巳さん?」
「うーん、そういうことになるんじゃない?」
津島さんはいなかった。
それでも、僕の胸はざわついていた。
しらべが酒を飲むのはやっぱり僕だけじゃないんだ。
しかも、男二人の中に、女一人という状況。
その男二人が、僕のよく知るダイキや辰巳さんであっても嫉妬の念に駆られる。
僕の知らない所で、他の男と一緒にいて欲しくない。
でも、それはあまりに自分勝手で、わがままな言い分なわけで。
たかだか友達風情が望んでいいことではない。
例え、彼氏になったところで、しらべが望んで参加している以上、それを邪魔する権利は僕にはない。
それは束縛だ。
けど、心配になる。
一緒にお酒を飲む相手が、他ならぬ辰巳さんであると言うのならば、特に。
あの人は、本当に女癖が悪い。
自分が可愛いと思った子であれば、男の僕らでも引くくらいがつがつ行く。
夏休み明けに会った時、ダイキだって言っていたじゃないか。
あの人は、女を無理やり犯すことだって抵抗のない人なんだ。
――――あ?
何か得体の知れないものが僕に流れ込む感覚。
ちょっと待て。
その飲み会のメンバー、誰だって言った?
辰巳さん、ダイキ、しらべ。
ダイキが言っていたあの事件、そのときの状況はどうだった?
辰巳さん、ダイキ、被害者の女の子。
ちょっと待てちょっと待てちょっと待て。
僕の中の点と点が繋がり、嫌な可能性を導き出す。
ふざけるな。
そんなことがあってたまるか。
「一つ聞いていい? その飲み会って、どこかの飲み屋でやる予定だったの?」
どうしてそんなに深く尋ねるのか。そう不審に思ってるようだが、ゆうは素直に答えてくれた。
「違うよ。鍋をみんなでつつこうって話だったから――辰巳さんの家」
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
視界が白くなる。
鳥肌が立つ。
全身の力が抜ける。
辰巳さんの家。
飲み会。
しらべの二日酔い。
辰巳さんの家。
そして頭に過るのは、
ダイキの話。
ダイキは合コンの子だって言ってたけど。
寝てる女を脱がして一人でした。
しらべは酒を飲むと眠り、一度眠ると、なかなか起きない。
そして、その間に何があったのかの記憶もあやふやとなる。
まさか。
そんなことがあるわけが。
気付けば僕は顔を引きつらせていた。
引きつった笑みを浮かべていた。
その顔を見て、ゆうが怯えている。
まずい、動揺を隠せない。
「ごご、ごめん。あり、ありがとう。僕、もう行くわ」
カバンを持って立ち上がり、すぐさま部室を後にする。
確認をしなくては。
ダイキに電話をかける。
この時間、研究棟の廊下に人はいない。
ぷるるるる。ぷるるるる。
コールが続くが、一向出る気配はない。
二〇回コールしたところで、留守番電話となる。
クソ、何で出ない!!!
一瞬、僕が気付いたことを知ってバックレようとしてるのかとも思ったが、そんなことはありえない。
授業中か。
それとも、もう帰路についているのだろうか。
わかってる。
どうせまた、僕の下らない被害妄想だ。
ダイキは合コンで知り合った女だって言ってたじゃないか。
辰巳さんのお気に入りの子だって言ってたろ?
辰巳さんはしらべに対してそんな素振りを見せことはない。
それに、しらべのことを襲うつもりだったのであれば、ゆうや津島さんを誘うのはおかしい。
ダイキだって、被害に合うのが身内だったらもっときちんと止めているはずだ。
うん、大丈夫。
絶対に違う。
僕の妄想だ。
偶然状況が似てしまっただけで、僕が勝手に暴走しているだけだ。
僕がフロアをうろうろしていると、エレベーターのドアが開く音がして、何者かが降りて来る。
こんなときに限ってハルが現れる。
「おう、カナタ。どうしたんだよ、そんなところで。――って、電話中か?」
そこで、初めて自分が携帯電話を耳に当てっぱなしにしていたことに気付く。どこにも繋がっていない携帯電話。僕は慌てて閉じて、ポケットにしまった。
「あー、俺、邪魔しちゃったか? 悪いな……。でも、カバン持って、どこ行くんだ? もしかして、もう帰んの?」
「いや、あー、そうだな」
「そっか、つか、待たせたな。ホント悪い。ゼミ、早く終わると思ったんだけど、初回から班でテーマ決めとか言って、結構拘束されてさー。これから何か用事あんの? ないなら、部室でもうちょっと話してこうぜ」
「あ、いや、いや、いや……」
「ん……? なんだよ、用事あるなら無理にとは言わないけど。……つーか、おまえ、眼ェ赤くない? どうしたんだ? ……泣いたのか?」
「いや」
僕は今、こんな奴と話している場合ではないのだ。
部室に戻る気もない。
とにかく人のいない場所へ。
僕は身体を翻すと、エレベーターに向かった。
「あ、おい。ちょっと待ってよ。じゃあ、これだけ聞いてくれ」
エレベーターのボタンを押す。一階まで下がっていた箱が上がって来る。どうやらハルを乗せて来た箱は、一旦下に降りて行ってしまったようだ。
「お、そういや、エレベーター乗れるようになったんだな。よかったよかった」
言われてみれば。そういえば、部室に来る時もエレベーターを使った気がする。心霊現象は別に起こらなかった。
フロアを示すランプがゆっくりと右側移動して行く。
「で、俺の話もその例の霊に関する事なんだけど、聞いて驚くなよ」
僕はハルの方に視線は向けているものの、意識は完全にエレベーターに行っていた。
しらべのための情報も、今はどうでもいい。
しらべの潔白が確認できるまでは。
誰の言葉にも耳を貸したくない。
「数年前のレイプ事件は、確かにあった。これは当時の先輩に確認したから間違いない」
レイプ事件。
過去の事件なんてどうでもいい。
所詮(しょせん)、僕には関係のない話だ。
他人事。
「そして、この研究棟からの飛び降り自殺も確かにあった。これも確認した」
うるさい。
今は人の話などに耳を傾けている余裕はないんだ。
エレベーターが到着して、扉が開く。
僕はハルの存在を無視してエレベーターに乗り込んだ。
「待てよ。もう少しだから」
僕は『閉』ボタンを連打するが、ハルは外側からエレベーターのボタンを押して、扉を閉めさせてくれない。
「でも、自殺者は二人もいなかった。たった一人だった」
僕が睨みつけると、ハルは少しだけたじろいで、一歩下がった。自然とボタンから指が外れ、扉がゆっくりと閉まる。
「死んだのは男の人だけだったんだ。レイプされた女性はまだ生きてる。この校舎で現れる霊は、レイプされて自殺した人の怨霊なんかじゃない」
完全にドアがしまった。
レイプされた女の人がまだ生きてる?
心霊現象を起こしているのは女性の怨霊じゃないのか?
どういうことだろう?
じゃあ、あの心霊現象の正体は?
わからない。
もう何が何だかわからない。
ただただ僕の身体は、ゆっくりと深い所へと沈んでいった。
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