七話 繰り返す失敗


七話  繰り返す失敗


 心霊体験してから二日経った金曜日の朝、僕はバスに揺られながら学校に向かっていた。一時限目には到底間に合わない時刻。というか、すでにもう始まっている。まあ、いつものことだ。出席は授業の中頃に取るので、それに間に合えば問題ない。

 悪霊に遭遇したその日は、エレベーター内での出来事を思い出すと恐怖に震えたが、幸い睡眠を妨害するほどではなく、ぐっすり眠ることができた。自分でもびっくりだが、意外と僕の神経は図太いところがあるらしい。

 あれから、ハルはさらに自殺者の件を詳しく調べているという。話を聞くところによると、ミス研の先輩たちにも連絡を取っているようだ。噂の正体を確かめるためには、その当時、在学していた人に尋ねるのが一番手っ取り早い。今は時間に埋もれてしまっているとは言え、自殺者を出したとすれば、その当時はニュースになっただろうから。

 バス停に着き、降りると別のバスから降りて来るハルの姿を見つける。

「おい、遅刻かよ」

 後ろから背中をはたきながら声をかけた。

「誰かと思ったら、カナタか。そういうおまえこそ遅刻だろ」

 同じ学部で同じクラス。うちの学校は必修科目が多いため、ほとんどの授業で同じ顔ぶれになる。そもそも移動教室自体が少なく、授業の体制自体は高校とあまり変わらない。

「今、バスん中でおまえのことを考えながら来たんだよ」

 僕が言うと、ハルは露骨に顔を顰めた。

「……気色わる」

「違う、そういうことじゃない。自殺者の件、話しは進んでるのか?」

「何だ、びっくりした。危うく朝食べたトーストがそのまま出て来るところだった」ハルは腹を抱えて、面白くもない冗談を言った。「どうにか先輩たちと連絡を取り合ってる段階だね。まだ何も情報は手に入れてないよ。でも、今日と土日、それから月曜日は敬老の日で休みだから、そこら辺で連絡の取れた先輩たちに会いに行く予定だよ。学校をサボって会いに行ってもいいんだけど、こっちで時間を作っても、先輩たちが暇じゃないんだよ。みんな社会人だからね。だから、まだ話は全然聞けてない」

「先輩たちも、仮に時間が取れたとしても、あまり気が進むことじゃないだろ。死んだ人の過去を探る手伝いなんて、進んでやろうとは思わない」

「そうなんだよな。でも、やっぱり自殺はマジであったみたいだ。詳しい理由なんかはわからないけど。やっぱり、結構デリケートな話だから、その当時在学してた人も、詳しい話は知らないらしい」

「だろうね」

 僕たちは話ながら講義室に向かう。

 大学は山の中にある。階段を上り、坂を歩く。

 すでに一時限は始まっていると言うのに、購買をうろうろしている人が見受けられるのは、授業を抜け出して来た人たちだろうか?

「それにしても、毎度のことながらおまえの行動力には驚かされるよ。いくら自殺の真相を知りたいからと言って、何代も前の先輩に連絡を取ろうと思うかね」

「この行動力が俺の“売り”だからね。それに、気になることは知っておかないと気が済まない性質なんだ。とは言っても、先輩たちとのコネはほとんどピーチさんのものだよ。歴代ミス研部長の縦の繋がりだね」

「ああ、前に何度か僕らの知らない先輩が部室に来てたことがあったけど、あの人たちがそうなんだっけ」

「それは知らないけど、何度か部室には来てるみたいだね。同窓会みたいな感じでさ」

「ま、おまえは次期部長候補なんだし、今から交流を持っておくのもいいんじゃない?」

「部長になれるかはわからないさ。俺、部員を引っ張ってく力はないし。そこらへんは俺の決めることじゃないから。全ては三年生の裁量だよ」講義棟に入り、階段を上って行く。エレベーターを使ってもよかったが、不幸にもちょうど今上に行ったところだった。「とにかく、何か分かり次第、カナタにも伝えるよ。おまえも今回の件の関係者だしな」

「そうしてもらえると助かるよ。僕もちょっともやもやして、気が晴れない部分があるんだ」

 教室の前まで来ると、静かに扉を開け、空いている席に腰を下ろす。いつも座っている席。同じ教室で授業を受けていると、自ずと自分の席が決まって来るもんだ。



 今日は金曜日。

 実習やゼミが始まるのは来週からで、今日は午前の授業が終われば解放される。

 今週中にしらべを誘わなければならない。

 実習が始まると、六時過ぎまでは学校に拘束されることになる。実験が終わるまでは帰れないのだ。さらに、家に帰ってもその日に行った実験のレポートを書かなければならないため、校外でも実質、大学に縛られることになる。

 そうなると、とてもじゃないが、のんびり食事だなんて言ってられなくなる。

 そして実習は、内容は変われど冬休みが来るまで続く。

 次に訪れる機会は冬休み中か、もしくはその後。

 僕はそんなに悠長に待っていられなかった。

 実習。

 僕はまだいい。

 本来、僕は来週からゼミを受けなければいけないのだけれど、不幸にも希望のゼミの定員に漏れてしまったがために、予備期間に履修することになっていた。

 テスト前の貴重な休日期間を、僕はゼミのために学校に来なければならないわけで、みんながテスト勉強をしている間、僕は期末テストとは全く関係ない授業を受けることを余儀なくされる形になったわけだ。それは単純に考えて、テスト勉強が他のみんなよりもおざなりになるということ。

 ただでさえあまり成績のよくない僕だ。留年の二文字に片足を突っ込む形になるわけだが、自分の不運を呪っても仕方ない。こういう運命だと無理やり納得して、甘んじて受け入れよう。

 それはいい。

 もう決まったことだ。

 僕は来週も暇。

 けれど、しらべは免疫学の実習が入っている。

 僕としらべの予定が合うのは、恐らく今日が最後。

 土日もあるにはあるが、きっとしらべはバイトを入れていて、誘っても同意はしてくれないだろう。

 だから、僕は今日、しらべを食事に誘わなければならない。

 心霊体験をしたのが水曜日。

 僕が心霊体験をしてから、ハルはずっと自殺者のことを調べていた。じゃあ僕はこの二日間、何もせずにただ無駄に過ごしたかと言うと、僕は僕でちゃんと調べ物をしていた。

 料理のおいしいお店。

日本酒のおいしい居酒屋。

 僕はグルメサイトを周って、それを探し回っていた。

 あの幽霊探しのとき、僕らの距離は確かに縮まった。

 しらべと接点を持つことで、食事に誘うきっかけができた。

 しらべを食事に誘おうと思う。

 しらべを食事に誘おうと思う!

 授業中に震える手でメールを打つ。

『今日暇だったら、夜、どっかにご飯食べに行かない?』

 このメールを打ちこんでいる間にも授業は進み、板書が一回先生の手によって消されたが、関係ない。全身全霊をこのメールに込める。間違いはないか、失礼な表現を使っていないか、気持ち悪い文章になってないかを百回くらい見直してから、ようやく送信ボタンを押す。

「うおらァ!」

 祈りを込めて、携帯を机に叩きつける。

「おい……! おまえ、授業中だよ……っ」

 小さくても十分な威圧感が込められた声でハルに注意される。

 仕方ない。これまた、僕にとって見れば一世一代の大事件なのだ。ありったけの勇気を出し切らなければ、しらべにメールを送ることすらできない。

 いつも、しらべの返信は遅い。携帯に固執しないタイプの人間なのだ。たぶん、メールが届いたことすら気付いてないはずで、もし仮にメールを確認していても、その場で返信をしないことがしばしばある。

 ルーズリーフに板書を書きとめる傍ら、携帯をパカパカと開いては閉じる。何度繰り返しても待ち受け画面に着信の表示は出ない。

 僕の勇気が無駄に散る危険性を考えてみる。

 十分にあり得る。

 しらべは、僕のメールを一旦置いておいて、そのまま忘れてしまうことが結構ある。僕の優先順位はしらべの中でかなり低い。もう、笑っちゃうくらいに低い。だからこそ、メールが帰って来た時の喜びは一入(ひとしお)大きいわけだけど。

 授業の内容なんか頭に入って来ない。今はしらべとのメールのことで手いっぱいだ。吉と出るか凶と出るか。

 今までの経験から言うと、僕がこうやって動いた時は、たいていの場合凶と出る。

 そして、行動に移したことを悔いるのが常だ。

 そもそも吉も凶も出ない可能性だってあるのだ。

 このまま返信が来ず、来週を迎えてしまうと言う可能性――。

 返信のし忘れ。

 あるいは無視。

 そういった事態の起こる可能性は決して低くない。

 もし、そういう事態に陥ったとき、僕はどうすればいいんだろう……?

 ――とか思っていたら、携帯が机の端で震える。

 き、来たッ!

 思わず手を握り締めた後、ひとまず深呼吸。こういうときに限ってメルマガだというオチがあるのだ。夏休み中にしらべにメールを送った時、何度同じトラップに引っかかったことか。もう騙されないぞ、迷惑メール。

 フォルダを開くと、送り主の欄には『鹿児島調』の文字。

「うおっしゃあッ!!」

 再び携帯を机に叩き付けた。

「うるせえって言ってんだろッ!」

 ハルが僕の肩に、決して優しくないパンチを浴びせた。

 鈍い痛みが走り、腕の力が抜けていくが、それでも僕は震える手で携帯を開き、メールを確認する。

 しらべからのメールは短かった。

『なんで?』

 素朴な疑問が帰って来た。

 飯に誘って『なんで?』……?

 肯定でも否定でもなく、疑問。

 そして、それは不審に思っている証拠だ。

 なんだか、とても悲しい気持ちになって来た。

 ウミガメは産卵のときに涙を流すと言うが、僕はそのメールの文面を見て、涙を流す。

「う、うう……」

「え、そんなに痛かった……!?」

 僕の泣いている姿を見て、ハルが焦り出す。別に肩への攻撃が痛かったわけではないと説明しながら、僕はハルに携帯を見せた。

 相談している人間がいると、こういうときに心強い。心の痛みを人に伝えることで、緩衝することができる。

「飯に誘って、返って来たメールがこれだよ」

「おお、カナタ、やるな! で、返信が……」ハルが固まった。やはり、僕が特別間違った受け取り方をしているというわけではなかった。この返信自体が一般的なものではないのだ。「……よかったじゃん。とりあえず、断られてはないな」

「気休めはやめろ」

 断られてはないけど、飯に誘って理由を尋ねられるということは、“特に用事がないなら、一緒にご飯に行く意味がわかりません”ということだ。圧倒的なまでの関心のなさ。

「……そうだなぁ、少なくともカナタに気がある文章ではないよね。そっけなさ過ぎると言うか」

「僕に気がないのは最初からわかってたよ。そこまで僕は身の程知らずな人間じゃない」

 それにそっけないのがしらべの魅力でもある。

 僕に対してそっけないからこそ、何とかして振り向かせたいと思うのだ。

「でも、気休めじゃないけど、しらべは遠まわしなこととか嫌うタイプじゃん。行きたくないなら『行きたくない』って返信が来るはずだよ。『なんで?』って来たってことは、本当に一緒にご飯に行く理由がわからないからそう返信が来たんだよ。なら、理由を明確にすれば来てくれるんじゃない?」

「理由? メールで告れってか?」

「ばーか、違うよ。何かわかりやすい理由をでっちあげろって言ってるんだよ。だから、もう答えを言っちゃうけど、心霊現象のことで話がしたいとでも言えば“その話をするため”に一緒に食事に行くんだって向こうも納得するだろ」

「でも、僕は自殺者のことについて、何も知らないよ? 話すこともないし」

「そんなの口実だって。別にずっとその話をしてろって言ってるんじゃない。俺を出汁(だし)に使ってもいいから、最初の方だけそれっぽい話をして、あとは世間話でもしてろ」

「ハルを出汁にって……ああ、合宿の夜にした、ハルの意外な性癖について――」

「俺が、なんでしらべとそんな濃密な会話をするように進めるんだよッ! むしろ、あの夜のことは誰にも言うな。俺が言ってんのは今朝の話だよ。俺がこの二日間で調べた情報、教えてやっただろ? 自殺は本当にあったってこと。それ以外に俺が今、何を調べてるかってのもしらべに聞かせてやればいい。俺も基本的にはしらべと会う機会はほとんどないから、おまえが俺から聞いた情報をしらべに伝えるっていうのは、さほど変なことでもないだろ。なんなら、おまえをそういう役回りにしてやってもいい。言わば、伝達係だな」

「う、うーん」

 それは非常にありがたい。

 ありがたいけど、これはあまりに汚い手じゃないか?

 本来であればハルから手に入れることができた情報を、僕が遮断してしまうことで、しらべの情報収集の手段が僕しかなくなる。そうすれば、僕と会わざるを得ない。しらべの知らないところで動く思惑。僕は裏工作とかが好きじゃない。しらべが本来持つべき権利を奪うようなマネはしたくない。

 これってわがままだろうか?

 僕みたいな奴は、真っ向勝負なんて言うのは贅沢だろうか?

 わからない。

 わからないけど、しらべが困るようなことはしたくない。

「……そこまではしなくていいよ。しらべが知りたいって言ったら教えてあげて。僕も今日、会ったときに詳しく知りたかったらハルに聞くように言うつもりだし」

「そうか? おまえがそう言うなら、俺はどっちでもいいけど……」

 僕とハルならば、しらべはハルの方が喋りやすいだろう。なら、情報を知りたければ、たぶんハルのところに連絡が行く。

 それがいいのか悪いのかはわからないけど……結局、僕は僕で頑張らなければならないのだ。甘えてばっかじゃ駄目な気がする。

 とにかく、食事の件はもっと押してみよう。ハルが言うように断られたわけじゃない。理由をはっきりさせれば、まだ可能性はあるんだ。

 メールを打つ。

 メールを打っている間に授業が終わり、次の授業が始まる。

 また三十分くらいかかってしまった。

 でも、しらべからの返信もそのくらいかかったのだ。メールというのは相手からの返信と同じくらい時間を空けてから送るのがマナーだと言うし、ちょうどいい。

 ハルのことを出汁に使うのはやめた。

 やっぱり、僕は僕の努力で進んで行きたいから。

『日本酒のおいしいお店を見つけたんだ。しらべは日本酒が好きだったな、と思って声をかけたんだけど』

 震える親指で送信ボタンを押した後、再び長い待ち時間がやって来る。

 祈るような気持ちだった。いや、もう両手を握って、無意識の内に祈りを捧げていた。人は追い込まれると、無意識の内に見えない力にすがってしまうようだ。神様、お願いします、どうかいい返事を。

 また三十分かかるかと思いきや、今度は五分で返信が来た。

 メルマガトラップかとも考えたが、送り主は『鹿児島調』。またしても口から『うおあ!』の声が漏れ、教室中の注目を集めた。教授に教室を追い出されなかったことが奇跡なくらいだ。

 メールを開くと、そこにはシンプルな言葉が並べられていた。

『日本酒! 行く!』

 また叫びそうになったので、慌てて教室を出た。

 よっしゃ!

 よっしゃ!!

 よっしゃ!!!

 うまく行ってる。

 僕は前進してる。

 このまま突き進もう。

 あまりの嬉しさに、人目をはばからずに飛び跳ねながら、特に意味もなく校舎内を早歩きで徘徊した。



 食事会という名目だったが、実質、しらべは酒を飲む気で満々なため、飲み会となる。だから、日が暮れてから再度集まり直すことになった。ちょうどいい。飲み会までの時間をしらべと二人で潰すとなったら、きっと僕は緊張してまともにプランを練ることもできなかった。

 僕は実家まで片道一時間四十分かかるので、家には戻らず、部室のソファに腰かけて、読書をして時間を潰すことにした。

 わくわくする気持ちは漲(みなぎ)っていたが、気付けば本の世界に吸い込まれていて、時計を見るといつの間にか学校を出なければならない時刻になっていた。

 エレベーターは使わない。一人で乗るのはまだ怖い。講義棟のエレベーターならまだしも、ここには霊がいるのだ。何かのはずみでまた止まりでもしたらたまらない。

 階段を駆け下り、バス停までの道を早歩きで進む。気が逸(はや)る。夢にまで見た、しらべとのデート。僕はやったのだ。ついに、ここまで来たのだ。

 今日行くのは居酒屋だが、僕は酒を飲む気は微塵もなかった。酒を飲んだら高い確率で吐いてしまう。ゲロを吐くだなんて、みっともない姿は見せられない。頭だってきちんと働かせなければ、女の子のエスコートがおざなりになる。

 バスに揺られ、駅に到着する。待ち合わせはここではなく、一つ隣の八姫(やひめ)駅。その駅前の繁華街で、日本酒のおいしい焼き鳥屋を見つけたのだ。

 電車に揺られ、早五分。改札を出て、目印となるエスカレーターの前で立ち止まる。携帯で時刻を確認する。待ち合わせの時間六時半の三十分前。しらべは待ち合わせジャストか、過ぎたくらいにならないと来ない。ちょっと早く来過ぎたかな。

 でも、ちょうどいい。誘った僕が遅刻なんて失態を犯すくらいなら、三十分早く着くくらいの方がいい。しらべは何かを待つのが嫌いな人種だ。遅刻するくらいなら、ちょっと早めに来て、心を落ち着かせよう。

 それでも立ったまま本を開くわけにもいかず、手持ち無沙汰な僕は携帯を開いて時間を見ては閉じるのを繰り返していて、なかなか時は進まない。早く過ぎてほしい時ほど、ゆっくりと流れるのが時間である。

 六時半五分前。そろそろしらべが来るんじゃないかと辺りを見回していた僕の目はその姿を捉えた。

 遠くに見える小さな小さな女の子。

 顔は確認できないが、それは間違いなくしらべだった。

 僕は髪を整え、服装をチェックしてからしらべを待った。

 わざとらしく、全然違う方を見て、気付かないふりをする。そわそわしている様なんか見せたら、“大人”な男性が好きなしらべに嫌われてしまう。

 五メートルくらいの距離に来たところで、今気付いた風に装って、振り返る。

「おう」

「やっほー」

 片手をちょこんと上げて近付いて来るしらべ。

 ふあはあああああ。

やっぱり、こうしてしらべが目の前にやって来ると、デートなんだって実感する。

 もちろん、しらべはデートなんてつもりはかけらもなくて、ただ単に美味しい日本酒を飲みたいからやって来ただけなのだろうけど、間違いなくこれは僕にとって大きな一歩だ。

「じゃ、こっちの方だから、着いて来て」

 日頃、ミス研や大学の連中との飲み会はこの辺りでは一番栄えている八姫駅周辺で行われる。なので、地図を見ればだいたい場所は把握できた。

 僕は左後ろを歩くしらべの姿を見る。

 いつもはジーパンでスニーカーという出で立ちで学校に来ているのに、今日はスカートにレギンスとブーツという姿。髪もいつもより整えてある気がする。

 え。

あれ?

 オシャレしてる?

 胸が高鳴った。

 僕を意識してくれてる?

 自惚れ過ぎだろうか。

 でも、スカートを滅多に穿かないしらべが、今日に限ってたまたま穿いて来たなんてことは考えられるか?

 しらべだって女の子だ。男と二人で食事に行くってなったら、そりゃ意識だってする?

 わからない。

 わからないけど、可愛いので、それだけで十分だ。

 しらべの気持ちはわからないが、勝手にそう受け止めて喜んでおくことにしよう。

 駅前周辺は人で溢れている。金曜日の夜と言うこともあって、サラリーマンたちが仕事帰りに居酒屋に集まるためだろう。スーツを来た男たちがそこらへんにたくさんいて、それぞれのメニューを持った店員たちが客集めをしている。

 人の流れに従って歩いている時は無言でもよかったのだが、交差点で信号待ちでしらべが横に立ったとき、僕は沈黙の気まずさを感じた。

 一気に緊張が高まる。

 何か、話しかけなければならない。

「そういえば今朝、ハルと会ったんだけどさ」頭が真っ白な僕は、ハルから受けていたアドバイスをそのまま実行する。「あいつ、例の幽霊について結構調べ回ってるらしいよ」

 しらべの大きな瞳がこちらを向く。

「へえ~」

「ミス研のOBの先輩たちと連絡を取り合ってるみたいだね。今日も誰かに会いに行くみたいなこと言ってたし」信号が青に変わり、再び歩き出す。「……でも、やっぱり自殺は本当にあったみたいだよ」

「……そうなんだ」

 噂が存在するくらいだから、少なくともそれに準じた出来事はあったと思っていたけど、本当に自殺があっただなんて。

 噂話として聞いている限りは、それは耳に心地よい空想の物語として受け入れられる。けれど、細部までわかってくるにつれ、それは生々しい現実の事件として認識され、醜さを知った僕たちはそこに蓋をかぶせるように目をそむけようとする。

「詳しい話はまだハルも知らないみたいだけどね。でも、今日と土日月の四日間でもっと調べると思う。どんなことがあって、どうして自殺したのか。自殺者は何人いるのか? 今までの話で出て来たのは二人だけだけど、もしかしたら、もっと隠された自殺者がいるのかもしれないしね。それに、自殺したという男性の方は、女性の事件と関係がある人物だったのかどうか。これも気になるところだね」

 犯されて自殺に追いやられた女性。

 留年して生きることが嫌になった男性。

 もしかしたら、他にもそれ以降にあの屋上から身を投げた人間がいるかもしれない。

 研究棟二号館には、無念の死を遂げた女性の霊が漂っていて、自殺者に手招きをしているのか。

 はたまた――。

「レイプされて亡くなった女性の以前にも、もしかしたら自殺者がいたかもしれないしね」しらべが言ってニヤリと笑う。「ホラーによくあるパターン。最初の事件が、実は第二、第三の事件だったっていう奴。過去を掘り返して見ると、もっと陰惨な死を遂げてる人がいたりして」

 僕は普段、ホラーを見ないのでわからないが、確かにそういう展開はありそうだ。ハルも言っていた。この学校は歴史だけは長いから、抱えている闇も大きいと。

「もしそうだったら、すごい怖いな。一〇〇年前の霊とかだったら、すごい強そう」

 僕もしらべに笑い返す。

 目的地である焼き鳥屋まではあと少しだ。



 今日、しらべと訪れる焼き鳥屋はネットで評判のお店だった。日本酒がおいしいだけでなく、焼き鳥もおいしく、さらに安い。

 日本の昔ながらの居酒屋が好きで、さらに金銭的に余裕のないしらべを誘うのにはもってこいのお店だった。

 お店の前に着いてみて驚愕した。

「は……」

 思わず目を擦る。

 すごい行列ができていた。

 当然、焼き鳥屋で、しかも二人で行くのに予約なんかしてない。そもそも予約ができるもんでもないだろう。

 僕は固まる。

 もう一度確認する。

 しらべは何かを待つのが嫌いなタイプだ。

 しらべの眼が細くなったのを、僕は見逃さなかった。

「あのお店?」

「……うん」

「予約は?」

「……取ってない」

「どうすんの?」

 その“どうする?”は暗に非難の色が込められていた。

 嫌な汗が噴き出て来て、一気に頭が真っ白になる。

“あたし、並ぶの嫌いなんだけど、それでも並ぶの?”

 表情がそう、訴えている。

「ちょっと待ってね」

 僕は携帯を取り出し『居酒屋 日本酒 八姫』で検索する。でも、なかなかいいお店は出て来ない。二日間調べて来て、却下したお店ばかり引っかかる。当然だ。ほぼ全ての店を比較して、その中で飛びぬけてよさそうだったから、このお店を選んだのだ。急に代替の店を探せと言われたところで、すぐに発見できるわけもない。

 僕が携帯をいじっている横を、大勢の人が通り過ぎて行く。

 しらべはいかにもつまらなそうにふらふらとその場で歩き回る。

 グルメサイトを開いて見ても、どのお店がいいお店なのかわからず、決めようがない。

 一刻も早く決めなければならないというプレッシャーが、余計に頭を錯乱させる。

 誰か教えてくれ。

 僕はどうすればいい。

 誰か助けて。

「あー、もういいよ」

 震える指で携帯を操作していた僕を置いて、しらべが行ってしまう。

 やばい、見放された。

 しらべが帰ってしまう。

 そう思って、何とか呼びとめようとしたけど、涙が出そうで、声も出なくて、僕は酸欠になったみたいに口をパクパクとさせた。何をどうしたらいいのか。頭が変なベクトルに回転しているせいで、考えなければいけないことを考えられない。

「あ……、あ……、あ……」

 どこに行ってしまうのか。

僕はただしらべを目で追うしかできなかったのだが、一度しらべは店の中に消えた後、すぐに出て来て僕の前まで戻って来る。

「二人。予約して来たよ。一時間くらい待つようだって」どうやら名簿に名前を書いて来たらしい。「時間になったら携帯に電話くれるらしいから、それまでどっかで時間潰そ。そうだな、そこのマックでいいじゃん」

 僕の返答も聞かず、歩き出すしらべ。

 言葉が一つも出て来なくて、しらべに駆け寄る気力も残ってなくて、僕はただしらべの背中を追いかけるしかなかった。

 帰りたい。

 逃げ出したい。

 しらべがどこかに消えてしまわないのはよかった。

 だけど、居たたまれない。

 一時間。

 こんな状況でしらべと二人きりで一時間も過ごすことなんてできない。

 不可能だ。

 できることなら死にたい。

 どんな顔をしていいのかもわからない。

 なぜ、僕はもっとちゃんと調べておかなかったんだ!

 安くてうまい店なんて、しかも、ネットで評判になってるくらいなのだ。さらに、今日は金曜日。人で溢れ返るに決まってるじゃないか!

 ああ、死にたい死にたい。

 今の今まで気付かないなんてアホ過ぎる。

 それでもここで逃げ帰るわけにはいかなかった。

 これ以上、僕の印象を悪くするわけにはいかないのだ。

 この状況をどうにかしなければならない。

 けれど、どうにかするって言ったって、どうすればいい?

 明るく振る舞うことも、肩を落として反省して見せることも、機嫌を損ねたしらべの前では逆効果に思える。

 改善する見込みのない険悪なムードの中、僕にできることはただ、黙って時間を流れるのを待つことのみだ。

 しらべは早々にコーヒーを買い、階段を上って二階席に行ってしまう。

 怒っている。いや、もう怒ってすらないのかもしれない。呆れている。頼りないし、使えないしで、もう見放されているのだ。

 僕もコーヒーを買い、慌てて追いかける。二人用のテーブル席に腰かけていた。恐る恐る僕も向かい側に腰かける。

「……ごめん、あんなに混んでるとは思わなかった」

「うん、いいよ」という目は携帯の画面に向けられたまま、こちらには一ミリもくれない。

 携帯をいじっているその姿は、話しかけるなオーラがびんびんだった。

 ……やっぱり、僕など相手にはしたくないんだ。

 僕はできるだけゆっくり砂糖とミルクをコーヒーに入れ、可能な限り緩慢な動作でコーヒーをかき交ぜた。

 この作業に五分をかけたが、移動も含めてまだ一〇分しか経っていない。あと五十分を僕はどうにかしてやり過ごさなければならない。

 ただ黙っているだけというわけにも行かず、仕方がないので、右、左を二十秒ずつ見ると言う動作をそれぞれ五回繰り返してから、たまに気付いたようにコーヒーに口をつけて、よく味わうという間の持たせ方で何とか繋いだ。

 これほどまでにコーヒーを口の中で転がしたことはない。

 その間、しらべはたまにコーヒーを口に含むという動き以外、ずっと携帯をいじっていた。



「ふあああああァァァァァ。ようやく入れたぁ」

 しらべは店員が立ち去ってからそう声を漏らした。

 焼き鳥屋の座敷である。マクドナルドで待っていると、一時間が経たない内にしらべの携帯が鳴り、店に着くとすぐに案内された。店内は人で溢れていて賑やかだ。しらべの声も決して小さいものではなかったが、周りの騒音ですぐにかき消された。

 お通しを持って来た店員にしらべが告げる。

「とりあえずレモンサワーお願いします」

「あ、僕はコーラで」

 酒が飲めない僕はいつもコーラだ。

 僕はテーブルのわきに立てかけられたフードメニューを手に取ると、しらべに差し出した。

「ありがと」

 ようやく酒が飲めるとあって、多少の機嫌は持ち直したらしい。

 よかった。

 マクドナルドでのあの空気は地獄だった。百回以上マクドナルの店内を舐めまわすように見ていたので、今でも網膜にはその映像が焼き付いている。

 恐怖のマクドナルド。

 マクドナルドも僕のトラウマの一つになりそうだ。

「ここは“皮”がおいしいみたいだよ。あと、“豚のかしら”も」

 やはり焼き鳥屋なので、オススメは串だ。一本八〇円からと値段も安い。飲み物を持って来た店員に焼き鳥を数本とサラダを注文する。

 僕たちはそれぞれの飲み物を手に持って、乾杯した。

「かんぱーい」

 しらべの持つグラスに恐る恐る僕のグラスを当てる。

 それからしらべはレモンサワーをぐぐっと一気に流し込む。

「ぷはーっ」中身を半分まで減らしてから、大きく息を吐いた。まるでおっさんだ。「やっぱお酒はおいいしね」

「ごめん、僕が下調べしてなかったから……。こんなに待たせちゃって」

 今の今まで、僕はちゃんと謝れてなかった。

 沈黙が壁となって、僕としらべを隔てていた。

 それが、こうして席に着いて、しらべが口を開いてくれたことで、ようやく突破口が見つかったのだ。

「いいって。我慢した方が楽しみは増えるし。っていうか、実際、我慢してたおかげで、これちょーおいしいや」と言って、残り半分もぐいっと飲み干してしまう。備え付けのスイッチを押して店員を呼ぶ。「この“唄の華”お願いします。あ、常温で。お猪口は――カナタは飲む?」

「僕は大丈夫」

「じゃあ、一つでお願いします」

 頼んだそのお酒が何なのかはわからないが、聞かれた飲み方からして、日本酒か焼酎だろう。

 とにかく、お酒を目の前にして機嫌が直ったせいかわからないけど、許してもらえてよかった。

 マクドナルドでは本当にこのまま縁を切られてしまうのではないかと心配したほどだ。心臓が捻りあげられて、危うく吐血しそうになった。

 しらべが頼んだ酒が徳利(とっくり)に入って運ばれて来る。一緒にサラダと串の盛り合わせもテーブルに並べられた。

 僕は率先してサラダを取り分ける。取り皿を渡すと、しらべはありがとうとほほ笑んでくれた。ちょっと自分でも押しつけがましいかなと思ったが、それでも何もしないよりはマシだ。

 しらべはサラダに口をつけた後、串を口に運んだ。

「うん、おいしい」

 緊張の一瞬だった。

 僕の選んだ店を気に入ってくれた。

「塩もちゃんと味が染みてておいしい。お酒が進むね」

お猪口に透明な液体を注ぐと、それを口の中で転がすようにして飲む。

 僕はお酒が飲めないが、しらべは本当に幸せそうに飲む。

「あれ、そういえばカナタは飲まないの?」

 僕はまだ一杯目のコーラのままだ。それを見て、しらべは首を傾げた。

「うん。僕、アルコール弱いからさ」

「それなのに日本酒のおいしいお店なんか調べたんだね」

 ドギリ。

 核心に触れる、唐突な質問に反射的に瞳孔が開いた。

“君のためだよ”

 そんな歯の浮くような台詞が口から零れかけて、慌てて唇を引き締める。

 いきなりそんな言葉を言っても、不気味なだけだ。せっかくの楽しい席なのだから、言葉を選ばなくては。

「僕は焼き鳥が食べたかったんだよ。ここ、日本酒の品揃えがいいことで有名だけど、串が美味しいってことでも評判なんだ」

「へえ。確かに焼き鳥おいしいよね」

 聞き様によっては、嘘だってすぐにわかるような誤魔化し方だったけど。でも、しらべはまっすぐ僕の言葉を受け止めて、納得して食事に戻った。

 しらべは早々に徳利を空けると、また違う銘柄の日本酒を頼んだ。僕はまだ一杯目の若干水っぽくなったコーラを飲んでいる。

 よく飲むなぁ。

 これだけ飲んだら、僕ならすでに体調を崩してトイレに駆け込んでいるだろう。

 ただしらべが飲み食いをしているのを黙って見ているだけにも行かず、僕は気持ちを整えてから口を開いた。

「この辺りの心霊スポットについて調べたんだけどさ」しらべが好きなのは酒と怪談。だから、僕はその手の話をしらべに振る。「有名なところも結構あるみたいだけど、ミス研の活動で全部網羅しちゃったみたいだね。最近、サークルの活動で肝試しに行っていないと思ったら、もうこの辺じゃ行くところが無くなってたんだね」

「結構行ったもんね~」

 店員が新しい徳利と猪口を持ってやって来る。

「しらべは、どこが一番怖かった?」

「う~ん」と考え込む。「どこも微妙だったかな。お化け、結局出て来なかったし。夜道を散歩してただけみたいな感じ?」

「マジか。僕は毎回めちゃくちゃ怖かったけど……」

「カナタは臆病だからね~。見てて面白かったけど」

 え、僕を見ててくれた?

 でもそれは僕の駄目なところで。

 喜ぶべきか嘆くべきかわからない。

「しらべはこの辺以外の心霊スポットにも行きたいと思う? どのくらいまでなら行ける?」

 さりげなく尋ねる。学校周辺の心霊スポットは回りつくしてる。なら、他の地域を開拓するしかない。しらべがある程度離れたところでも行きたいと言うのであれば、どこかいいところを調べようと思う。

 肝試しは嫌いだが、しらべと一緒なら話は別だ。

 本番でビビらないように、ハルあたりを引きつれて二、三回下見に行こう。そうすれば、多少はいいカッコができるはずだ。

「うーん。あんま遠いとね~。あ、でもこの前」この前。そのワードを聞いて、嫌な予感が頭を過(よ)ぎる。「夏休み中に山梨の方の心霊スポット行って来たよ。実家からはちょっと遠いんだけどね。辰巳さんの車で、あとはゆうと津島さんと四人で!」

 その話は聞きたくない。

 けれど、しらべはとても楽しそうに話す。

「女の子の霊が出るっていうトンネルに行ったんだけどね。車を降りて、四人で中に入ってたら、急にゆうが悲鳴上げて。何かと思って、ゆうが指さした方に目を向けたら、行方不明者の貼り紙が壁に貼られてて。写真は女の子のものだったんだけど、その顔が、不気味に歪んでるの。熱で融かした金属みたいに、ぐにゃりと」

 一瞬、不快感を忘れてぞくりとした。

 想像してしまったのだ。その歪んだ少女の姿を。

「そのときはゆうが完全に参っちゃって、そのまま車に引き返したんだけど、でも、よく考えたらあれ、誰かのイタズラだよね。普通に考えれば、幽霊が出るってところに、わざわざ捜索願いのポスターを張ったりなんてしないもん。普段、誰も近付かないんだよ? そのポスターを見るのは、それこそ肝試しに来た不届き者くらいだよ。なのに、あのポスターは遠くからでも判断ができるくらいきれいな状態だった。誰かが驚かせる目的で貼ったとしか考えられないね――って話を車の中でしたら、なんとかゆうも落ちついて。でもひどいことする人もいるなと思ったよ。不謹慎だよね。霊に呪われるとか考えないのかな」

 言った後、まあ肝試しとかやってるあたしたちも罰当たりっちゃ罰当たりなんだけどね、と笑った。

 僕もあははと笑い返す。

 話の中にはゆうが出て来ただけで、津島さんの影など微塵も出て来なかった。けど、そこには確かにいたはずなのだ。けれど、触れないと言うのは、津島さんのことを意識しているから?

 片思いの相手の話を人前でするのは恥ずかしい。

 だから意図的に津島さんの話は避けたのか?

 考えれば考えるだけ泥沼にはまってくけど、その肝試しが楽しいものだったってことだけは確かだ。

 その場に僕がいなかったことが悔やまれて、妬ましい。

 僕のこの怨念が、生霊となって津島さんを呪い殺すことはあるだろうか?

 でも、きっとそんなご都合主義なことは起こらない。

 偶然とか奇跡とかに頼ってないで、欲しいものを手に入れるためには、自分で動くしかないのだ。

「じゃあ、今度、僕が実家の車を出すから二年生でどっか肝試しでも行こうか? ゆうとハルを誘って」

 次の誘い。言えるうちに言っておく。

 本当は二人でどっかに行こうよと言いたいけど、まだそこまでは踏み込めない。段階を踏まないアクセルは、ただの無神経だ。

「う~ん……」

二年生だけで肝試し。

そこに津島さんはいない。

津島さんと肝試しと言う、しらべにとってみれば最高のシチュエーションを体験した今、ただの肝試しだけでは魅力が足りないのかもしれない。

でも、僕は祈るしかない。

これ以上、妥協はできない。

「……うん、いいよ。じゃあ、みんなで行こう。みんなの予定が会う土日とかに」

 僕は思わず拳を握って喜ぶ。

「ありがとうッ!」

「え? あ、うん。あれ? どうして?」

 僕の急な感謝の言葉に、しらべが戸惑う。

 それでも溢れる気持ちを抑えられなかった。頬の筋肉が緩む。

 次の約束にこぎつけることができた。これは大きな一歩だ。

 よくやったぞと、自分を褒めてやりたい。

 どこへ行こう。

 楽しくて仕方ない。

 酒は一滴も入ってないのに、こんなに幸福感に満ちている。

 それから僕たちは他愛のない話題で盛り上がる。アルコールの入ったしらべは、普段よりも陽気で、僕の話の要所要所に合の手を入れて来てくれる。しらべも自分の話をしてくれる。学校のこと、バイトのこと、最近買ったもの、最近行った場所、テスト勉強がしんどかったこと、昨日見たバラエティのこと……。

 ――一時は、こんなことなら飲み会を企画なんてしなければよかったと過去の自分を呪ったが、今では勇気を奮ってよかったと思える。

 今まで縮められなかった距離が、こんなに縮んでいる。

 しらべが、すぐ前にいる。

 幸せだった。

 けれど、僕はもっと早く気付くべきだったのだ。

 つい気分がよくなってしまって、気付くのが遅れた。

 気がついた時にはすでに手遅れ。

 しらべはお猪口をぐいっと空けると、そのままテーブルに突っ伏して動かなくなった。

 そのまま、すーっ、すーっという寝息が聞こえた。

 完全に潰れたのだった。



 この居酒屋は人気店であるため、長くはいられない。二時間経てば席を空けなければならず、もうあと数分でその時間を迎えようとしていた。

 しらべは一度潰れるとなかなか起きない。

 声をかけて大丈夫かと尋ねるが、帰って来る返答は“大丈夫、むにゅにゅー……”というもので、全然大丈夫そうではない。

 しらべは小柄なため、僕一人でも運ぼうと思えば運べる。

 けれど、僕に身体を触れられることを、しらべは果たしてよしとするだろうか……?

 答えは決まっていた。ノーだ。

 今日は会話が弾んだが、けれどそれでしらべが僕に心を許したわけではないだろう。しらべは基本的には他人とは距離を取ろうとするタイプだ。まだ他人の域を一歩出たに過ぎない僕に、しらべを抱きかかえるというのは荷が重過ぎる。

 …………だけど。

 このまま、置いてゆくわけにもいかないのも事実だ。

 人間としてのモラルもそうだし、誘っておいて一人だけ帰ってしまうなんてことをしたら、間違いなくしらべに嫌われる。

 同じようなシチュエーションが、そう言えば前にもあったなとふと思い出した。合宿の初日の夜。あのときは、確かハルに先を越されたのだ。しらべはハルには気を許している。だから身を預けた。

 同じ後悔はしたくないと思ってるのに、またしらべを介護するかどうかで迷っている僕。

 やるしかないよなぁ……。

 僕は決心を固めると、携帯電話を取り出した。

 ゆうに電話をかける。

「もしもし」

『はい、もしもし。カナタ? どうしたの、こんな時間に? しかも電話だなんて珍しいね。大事な話?』

 ゆうに電話をかけたのはあることを尋ねるためだ。

 それにしても、しらべをデートに誘ったなんて知られると思うと、好意を知られているとは言え、やはり恥ずかしい。

「……今、しらべと居酒屋に来てるんだけどさ」

 一気に受話器の向こう側の声が高くなる。

『えーッ! ホントにッ! すごいじゃん、カナタ。頑張ったねッ!』

 ゆうは僕が女の子に免疫がなくて、女の子を食事に誘ったことすらないことを知っている。

 誰かに自分の努力を誉めてもらえると、単純に嬉しい。

 でも、今はそんなことを言っている場合じゃない。

「しらべが潰れちゃってさ」

 それを聞いて、電話越しにゆうが気持ちを立て直すのがわかった。

『あー……、そうだね、お酒飲んでるんだよね。なら、ちゃんと止めないとあの子潰れるから……』

 言われなくてもわかっていたはずなのに。

 しらべは酒を飲むと歯止めが効かなくなる。

 何度も潰れている姿を目にして来たじゃないか。

『……って、今更言ってもしょうがないか。他に誰かいる?』

「……いや、僕としらべの二人だけ」

 再びゆうのテンションが上がる。

『じゃあ、デート! へえ!』

「しらべはそうは思ってないだろうけどね」

 僕はすっかりそのつもりで楽しんだんだけど。

『でも、しらべ、ちゃんとオシャレしてるでしょ?』

「…………」

 それは会って一秒で気付いたことだ。

 普段、ほとんど目にすることのないスカート姿。

 校外で、他の人の目があるからだと思っていたけど。

『少なくとも、嫌いな人とは二人でご飯とか飲みに行こうとは思わないよ。特に、しらべは』

 目に、無意識のうちに力がこもる。

 瞳孔が開く。

 眼球が熱い。

「それは……」

 僕にも可能性があるということか?

 まだ、あきらめなくてもいいってことか?

 それは……。それは……なんて素晴らしい。

 だけど、今は――。

「――そのことは追い追い話そう。今はそれどころじゃない」

 魅力的な話だが、話を進めることを優先しなければ。

『うん、そうだね。で、何? しらべが潰れて、どうしたの?』

「もう、店を出なきゃいけないんだけど、僕はしらべの家を知らないんだよ。だから、どこまで送って行けばいいのかなと思って。ゆうは、確かしらべの家に遊びに行ったことあるよね?」

 前に飲み会かどこかで耳に挟んだ話だ。ゆうがしらべの家に遊びに行ったという話。それを聞いて、僕もいつかしらべの部屋を訪れる日が来たらいいなと妄想したものだが。

『あー、そういうこと? うん、とりあえずJRで柚(ゆ)高(たか)駅まで戻って、そこからはバス……はもうこの時間ないから、タクシーで平塚三丁目のバス停留所って言えば家の近くまで行けるよ。そうだなぁ、じゃあ、停留所に着いたらまた電話してくれる? そこからはまたあとで説明するよ』

「わかった。とりあえずありがとう」

 電話を切る。

 平塚三丁目。しらべはいつも自転車で学校に来ているが、学校のすぐ近くのバス停留所だ。どこに住んでいるのかと思ってたけど、意外と学校から近いらしい。

 僕は店員を呼ぶと、その場で会計を済まし、荷物をまとめる。

 二人でこれだけ飲み食いして、五千円行かないのだから、確かに安いんだろう。

 さて、問題はここからだ。

 まずしらべは上着を脱いでいる。

 まあ、これは無理に着せなくても、畳んで持って行けばいいだろう。今日は比較的暖かい。寒がったら上着を渡せばいい。

 畳まれた上着は、そのままの形で僕の腕にひっかけ、しらべのカバンも持つ。

 そして、一番の難問。

 最初にしらべの肩を叩く。

「行くよ、しらべ」

「……うん」

 明らかな空返事。顔を上げようともしない。

「きついようなら、肩貸すよ」

「……うん」

 よし、とりあえず許可は取った。

 あとで問題にならないように、録音して物的証拠を残しておいた方がいいかなとも考えたが、そこまでするのは逆に変質的だ。

 意識は朦朧としているようだが、許可は出た。

 許可は出たけど、勇気が出ない。

 しらべのすぐ横にかがんでいるだけで心臓が爆発しそうになってるってのに。

 今まで、しらべと手を繋いだこともない。

 触れ合ったことだって、きっと片手で数えられるくらいしかないだろう。

 それが、こんな急接近。

 ……はあ。

 喜びよりも、後々の心配の方が大きくて、気分が悪くなって来た。

 なら、こうしよう。

 僕はロボットだ。介護ロボット。感情は排除する。しらべを家に送ることだけを考え、それ以外の思考回路は全てシャットする。

「……よし」

 しらべの片方の腕を取り、僕の肩に回す。代わりに、僕の腕はしらべの脇の下を通して、ゆっくりと立たせた。

 まだ意識ははっきりとしないようだけど、身体が持ち上がったことで、反射的に足に力は入ったようだ。それほど苦労することなく、支えることができる。何が何だかわからなくなっているだけで、別に気を失っているわけではない。

 このまま店を出て駅に迎えればいいのだけれど、障害はまだあった。

 僕たちが案内されたのは座敷で、当然、靴は脱いでいる。

 下駄箱のようなものはなく、靴は直接床に並べられていた。しらべの靴は僕の靴の隣にちょこんと並んでいる。

 酔っ払っているしらべは、立ったまま履くことはできないだろうから、床と座敷の段差に座らせる。そのとき、どさっと勢いよく座るものだから、スカートがめくれそうになる。

「あああああああああああ」

 見えそうになったが、僕は目を反らした。慌てて周りの連中でこちらを見ていた奴がいなかったか確認したが、居酒屋で酔っ払いを介護している人間に目を向けているものなんていなかった。

「しらべ、靴、履ける?」

 座って、何とかその姿勢を維持してはいるものの、顔は俯き、たぶん目も閉じられている。

 声をかけてもにゃむにゃむとしか返事が返って来ないし。

 まあ、自力じゃ履けないだろうな……。

 僕はしらべの正面に立つ。

 でも、スカートで座っている女の子の前でしゃがみ込むって……!

 「僕はロボット……。僕は何も見えない……」

 こんなときに限ってブーツを履いて来やがる。

 足先がちゃんと入ってるわからないが、これも本人が無意識の内に中で微調整をしてくれたようで、ようやくのことで靴を履かせた。

 ……あとは駅に向かうだけだ。

 最後に忘れ物はないかチェックする。

 しらべの荷物はこのバッグだけだし、僕もカバンをしっかり持ってる。

 よし、行こう。

 店を出ると、サラリーマンが行き来する歩道をしらべを抱きながらゆっくりと駅へと向かった。



 バス停に到着すると、タクシーの支払いをしてから先に降りて、しらべを抱えた。

 酔い潰れてるというよりも、もはやただ寝ているだけに近い。

 電車の中はすいていたので椅子に座ることができたが、その間、しらべは僕の肩に頭を乗せて寝息を立てていた。

 まるで恋人同士……っ!

 僕の背中の筋肉は強張り、何度首が攣(つ)りそうになったことか。

 駅前にはタクシーがたくさん止まっていたので、タクシーを拾うのには苦労しなかった。

 ……今日は、金だけはたくさん持って来ている。そのことが幸いした。

 今日一日で福沢諭吉が僕の手元から一人去って行ったが、背に腹は代えられない。こんな幸福をたかだか一万円で買えたと思えば、安い買い物だ。

 バス停のベンチにしらべを座らせてから、再びゆうに電話をかける。

「もしもし」

『はい、もしもし』

「バス停、着いたんだけど」

『うん、あれ、まだしらべダメ?』

ベンチで頭(こうべ)を垂れているしらべに一瞥をくれる。

「完全に寝てるね」

『まぁ……そうだろうね。いつもそうだし』

 一度眠ったら、なかなか起きない。合宿のときも朝は辛そうにしていた。

「で、バス停からの案内をお願い」

『うん』

 それからバス停からの道を聞く。一度で把握できるかわからなかったが、迷ったらまた電話をかけることにして、とにかく道筋を反芻(はんすう)しながら向かうことにする。

 “住宅街に入って二本目の十字路を右に、三本目を左に、そのまままっすぐ歩いて行くと――”

 よし、とりあえず頭には入ってる。

 しらべを再び抱きかかえると、歩き始めた。

 バスが通って来た道は、この辺に住んでいなくても友達の家での宅飲みや、その買い出しなどで見覚えがあった。が、一本住宅街に入ると、その先に何があるのか全く見当もつかなくなる。

 ……とは言っても、それほど入り組んでいるわけでもないし、たぶん大丈夫だろう。

 ゆうの言われた通りに進むと、要所要所の目印は確かにあって、正しく進んで来ていることを示していた。

 大きな木、発光する道路標識、個人ピアノ教室、柵の向こうの黄色いベンツ。

 夜道には九月ということもあり、秋を思わせる涼しさがあった。けれど、湿気があるので不快な寒さでもない。むしろ、しらべの酔い冷ましにはちょうどいいのではないか。

 そして、最後の角を曲がると視線の先にオレンジ色の建物を捉える事が出来た。

 しらべの住むアパート。

 これで僕の今日の役目を、ようやく終えることができる。

 近付くとわかる。外灯は柔らかく、しかし力強く建物を照らしている。壁の塗装も古ぼけてはおらず、しっかりと手入れがされていることがわかった。建物の周囲には背の高い植込みがあり、一階の部屋は外から見えにくいようになっている。

 一目で感じる。家賃、すげー高いんだろうな。

 まあ、女の子だし、両親も気を使うのだろう。何度か訪れたことのある友人宅とは大違いだった。

 建物の入り口を入ると、左側には郵便受けが顔を並べていて、正面にはもう一つ自動ドアがあった。向かって右側には直方体の機械がある。インターホンを兼ねた、ダイヤル式のロックだった。

 玄関がオートロックであることは、先ほどの電話でゆうから知らされていた。そして、その対応策も。

 しらべのバッグを漁(あさ)る。極力、中は覗かないように注意したが、その必要もない。手さぐりですぐに鍵の束を見つけることが出来た。

 固定電話の文字盤のように並んだ数字の列。その横に鍵穴があり、僕はその鍵穴にちょうどフィットする大きさのキーを選択すると、差し込み、回した。

 自動ドアが開く。

 中に入ると、エレベーターに乗って二階の一番奥の部屋を目指す。そこが『鹿児島調』の部屋だ。

 もうすぐ九時半になろうという時刻だったが、廊下には人がいない。よかった。住人に目撃されるのは、僕も恥ずかしいし、しらべもあまり快くないはずだ。

 無事、しらべの部屋に着いた後、少し躊躇したが、もう一度鍵束を取り出して、部屋の扉を開ける。このことに関しても、ゆうに相談済みだった。

“女の子の部屋の扉を、本人の了承なしに開けても大丈夫かな……?”

“緊急事態だからしょうがないでしょー。あー、でもあんま中には入らない方がいいかも”

 解錠することだけはしらべの“保護者”に許可を取ってある。これで、あとで何かしらべに言われたとしても、ゆうがフォローしてくれるだろう。

 ドアを大きく開いて、僕が身体で押さえた後、しらべに声をかける。

「しらべ、家に着いたよ」

「うーん」

「おーいっ!」

「んあ?」うっすらとだが、目が開く。辺りを見回して、状況を確認する。「うん」

 それから、僕から離れるとちゃんと、自らの足でその身体を支えた。

 よろよろしているものの、一人で歩けてる。もう大丈夫だ。

 扉を開けたまま部屋の奥に進もうとするので、慌てて止める。

「ちょ、ちょ、ちょ。待って、しらべ。ドア、閉めて。それで、ドア閉めた後は、ちゃんと鍵も閉めて!」

 しらべのバッグと上着は畳んで玄関の端に置いておいた。

「うん」

 ゆったりとした動作で振り返る。こちらに戻って来るのに合わせて、僕はドアを閉めた。がちゃり。錠の落ちる音がした。ドアノブを掴んで回してみるが、扉は開かない。

 任務完了。

 しらべがこの後、部屋の中でどんな状態で寝るかわからなかったが、室内であれば少なくとも死ぬことはない。できる男ならば、ここでベッドまで案内して、布団をかけてやることができるのだろうが、僕は本人の許可も取らずに女の子の部屋に入るなんて勇気はとてもとても持ち合わせておらず、ただただ、しらべが自分の意思で布団にもぐり込むことを祈るばかりだった。

 廊下を歩きながら、ゆうにメールを送る。

 心配をしているだろうから、結果報告と、それから感謝の気持ち。

 玄関を出たところですぐに返信があって“よかった。どういたしまして”とのこと。きっと、携帯を横において、ずっと待っていてくれたのだろう。いい奴だ。

 さて、ここからは元来た道を戻るわけだけど、どうしよう。もちろん、バス停までの道のりは頭に入っていて、そこまでたどり着くことができよう。僕はそこまで方向音痴ではない。

 問題はそこからだ。行きは駅からだったのでタクシーを拾って来たが、帰りはそんなに都合よくタクシーが通りがかるかわからない。

 それに、金銭的な問題もある。送り届けるときはケチってるわけにも行かず、迷わずタクシーに乗り込んだが、帰りは僕一人だ。バイトでの稼ぎが少ない苦学生にとって、タクシーなんてものはやはり高級品で、そう何度も利用するわけにもいかなかった。

 ……駅まで歩いて行くか。

 最寄駅までは徒歩で一時間弱。道もわかるし、歩いて行けない距離ではない。幸い、まだ九時半を過ぎたところで、終電まではまだ余裕がある。

 今日体験した、地獄と天国の約三時間を噛みしめながら、僕は徒歩で駅を目指した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る